父について
第16話
父を軽蔑して育った。同い年の子が描く父親は、身体が大きくて強いイメージばかり。
僕の父もその通り。身体が大きくて強い。傍から見れば頼りがいのあるお父さん。しかしその恵まれた身体は誰かを守るためじゃなく、間違った方に使った。
人に暴力を振るったと警察から何度も連絡が来て、そのたび母さんは真夜中でも早朝でも迎えに行っては頭を下げた。
幸い、僕達に対して拳を振り上げられることはなかった。だけど物を乱暴に壊したり罵声を浴びせられたりしたことは、心をずたぼろにするには十分な暴力だった。
最後は他の女性と一緒になると言って、ほんのわずかなお金とゴミ同然の家具を残していなくなった。それからは母方の祖父の元で暮らすようになる。祖父は半年間一緒に暮らした後に病死して、それからは母さんと二人きりで生きた。
高校に入ってから、初めて理想の父親像とぴったりな人に出会う。それが海原先生だ。
まだ春先で気温も穏やかなのに、一人だけ滝のように汗をかいていた。妙に暑苦しくて、先生に対する第一印象はお世辞にも良いとは言えなかった。美術の授業を受け持っていたが、生徒は皆気を緩ませて好き勝手やっていた。真面目に受けるのが五人くらい。あとはさぼっていなかったり他の勉強をしたり寝ていたり。この上ない自由な授業。先生も人が良いのか気が弱いのか、一切注意しない。ただ困り顔で笑うだけ。
僕はといえば皆と似たようなもので、真面目に受けることがあれば寝ることもあり、上の空で他のことを考えることもあった。芸術に興味がなかったし、頭を使わなくて済む美術の授業は、高校に入りたての僕達にとって唯一のオアシスだったのかもしれない。
ある日気まぐれで水彩画を描いた。意味も特別込められていない、普通のイルカを描いただけ。夕陽をバックに青い海で泳ぐ様を想像した絵。海原先生は絵を見た途端、眼鏡から眼球が飛び出そうなほど驚いた顔をした。
セカセカと忙しなく、早口で絵を褒めちぎる。機嫌取りや胡麻すりなんかじゃない。僕にそんなことをしてもメリットがないから。顔を見ればわかる。先生は、本気で感動しているんだ。
人からこれほどまで大袈裟に褒められたことがなかった僕は、こそばゆくて身を縮こませるだけで素直に喜べなかった。
でも、高校生活で最初の嬉しい出来事であった。一生忘れることはないだろうと思っていた。
それから美術部に入部して、さっそく市のコンクールに応募したら見事に優秀賞を貰う。自分が認められた達成感。それがきっかけで絵が好きになった。暇さえあれば食事をするのを忘れるくらい夢中になって描く。海原先生がいなければ、きっと自分の特技を開花しないままでいたはずだ。
人と話さない大人しい僕をこまめに気にかけてくれて、あまり上手いとは言えない絵もすごく褒めてくれた。何も無い僕にとって絵が生きがいで、そのことを気づかせてくれた先生に感謝している。
父親的存在の彼が重い病気を患っているのを知って、病気に対する憎しみと、なぜ僕じゃなくて先生なのかとこの世の理不尽さに嫌気がさした。
できることなら代わりたい。先生はこれからたくさんの人を救う、なくてはならない人だ。
間違っても僕は死にたがりじゃない、ただ母さんに会いたいだけだ。向こうから来れないからこちらから行くしかない。だから死んで会いに行く。こんな話、誰が聞いても馬鹿げてるだろうけど、至って真面目な決心だ。でもどうせ死ぬなら人の役に立ってからの方がずっといい。
長いようで短かった学校を終えて家に帰ると、玄関を開けた途端カレーの匂いがした。ほんの3週間くらい前に母さんの手作り食べたのに、遠い昔の懐かしい匂いがした。
台所で祈さんが鍋をかき混ぜている。よそよそしい感じはすっかりなくなって家に馴染んでいた。どうやら彼女はすぐ順応しやすいタイプのようだ。
「手伝うよ」
僕は腕まくりをして隣に立つ。
「びっくりした、いつの間に帰ってきてたの」
「たった今。買い物に行ってきたの?」
冷蔵庫を開けると色とりどりの緑黄色野菜がたくさん入っていた。その他には肉や卵や調味料。これだけの物、一人で運ぶのは大変だったに違いない。ましてや女の子だ。
「力持ちなの。体力には自信がある」
「すごいな、でも次から僕も一緒に行くよ。大変だから」
「……ありがとう」
「こっちこそ。サラダ作るね」
家事は母さんと協力しながらやってきた。しかも料理の味には厳しくてよくしごかれて、そのおかげで成果が実って今じゃ包丁さばきはお手の物。手分けして作った夕飯は美味しいはずだ。
「学校、どうだった?」
「穂苅君と話せたよ。僕はだめだなぁ、人間不信なのか被害妄想ばかりする」
まな板と包丁がぶつかる音とカレーが煮込まれる音。静かな空間だ。誰かといる時は気が張っていて何か話さなくちゃと慌てて話題を考えることが多いけど、祈さんだと言葉を交わさないで静かなままでも平気だった。焦りが生じなくて楽だ。それは彼女が人じゃないからというのもあるが、また別な理由もある気がする。
祈さんの横顔をちらりと見る。カーブした長いまつ毛、血色の良い赤い唇、白くてふっくらした頬はきっと触ると柔らかいんだろう。
カレーをご飯の乗った皿に盛りつけようとこっちを振り返った拍子に目が合った。瞬時に避けてまた野菜を切り続ける。
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