第10話
そっと教室のドアを開ける。幸運にも中には誰もいなかった。
自分の席はもちろん変わらずあるのだが、あの日机の上に出しっぱなしだった筆記用具や教科書類は綺麗に引き出しへしまわれていた。誰かが気を利かせて片付けたらしい。心の中で礼を言った後にそれを全部引っ張り出してリュックに詰め込む。
あとは後ろにあるロッカーの中身を取り出せば教室は用無しだ。
運動着と運動靴、教科書やファイルを全部回収。リュックはパンパンであと持てるのが左手しかない。思ったより荷物があった。一応折りたたみ式の鞄を持ってきて良かった。これに絵の具材を入れよう。
いっぱいの荷物を持って帰るとなると、小学生の夏休み前を思い出す。あの頃はもっと荷物があった。リコーダー、工作、サッカーボール。幼ながらに工夫してまとめていっぺんに持ち帰っていたのが懐かしい。
まるっきり私物が学校になくなると『終わった』という気がした。また2学期に頑張ろうって。
両肩に重みを感じながら廊下を歩いて、あの頃を振り返る。戻らない時間を嘆いても仕方がない。今度は美術室だ。絵の具材を取りに行けば学校に用はない。さっさと終わらせよう。
二階にある美術室には幽霊が出ると噂で聞いた。人物画が血の涙を流したり石膏像が笑いだしたり、幼稚な噂はきっと歴代生徒が退屈で流しただけ。美術部員が三人しかいないのはそのせいだって茶化す奴がいたけど、実際は皆運動の方が好きなだけのこと。かえって人数が少ない方が僕にとっては集中しやすいからありがたい。
ドアの前に立ってから、鍵をもらってくるのを忘れたことに気づく。しかしドアは隙間が開いていて施錠されていなかった。先生が閉め忘れたのか、それとも中に誰かがいるのか。ドアに手をかけた時だった。
「なんか用?」
背後からの声に僕の心臓は高鳴り、一瞬にして身を硬直させた。
間を置いて振り返るとすぐ目が合った。相手も驚いた顔で僕を見ていた。見下ろした、の方が合ってる。高身長で僕の頭一個分違ったから。
「あー、えっと、叶崎じゃん。久しぶり」
茶髪の長い前髪から覗いた少し垂れた目は落ち着きがなく、明らかに困惑していた。
制服をだらしなく着こなす彼を見たことはあるものの、名前がすぐに出てこない。挨拶も交わしたことがないのかもしれない。確か教室で仲間とわいわい騒いでいたような。目立たなくて友達のいない僕には縁のない人。一言も話さないまま卒業を迎えるものだと思っていた。
そんな彼と予定外に対面してしまったこの場をどう乗り切るか、そればかりを頭の中で巡らせる。
「あんま喋ったことないから俺の名前知らないっぽいな、
「あっ、ああ、どうも」
穂苅君はだるそうに自己紹介をした。その間僕は手をもじもじさせて誤魔化す他なかった。
「授業中にいきなりハゲ太郎……教頭が来てえらい剣幕で母ちゃんのこと大声で知らせに来たっけな。デリカシーない奴。おかげでその時クラス中が訃報知っちまったわけだ。みんな驚いて授業集中できなかったよ」
「ご、ごめん……」
「なんで謝るんだよ、教頭が悪いのに。お前だって嫌だったろ?」
てっきり授業に集中できなかったことを責められているのかと思ったが、そうじゃないらしい。彼は屈託ない笑みを僕に向けていた。
「今日は何しに来たんだ? 土曜なのに」
「えっと、荷物を取りに。まだしばらくは、授業受ける気になれないから……」
「そっか。机の上にあった教科書とか引き出しにしまっておいたけどわかった?」
「あ、あれ穂苅君がしまってくれたのか……。ありがとう、わかったよ」
意外だ。てっきり先生か学級委員長か隣の席の人が片付けておいてくれたと思っていた。悪いけど全然想像がつかなかった。
「学校は続けられるのか?」
「う、ん。そうだね。まだ何とも言えない」
「そっか」
質問をたくさんしてから、彼はゆっくりと表情をなくしていった。
「いきなり家族がいなくなってショックだよな。一番辛い時だけど、無理すんなよ」
思いがけない言葉だった。今まで派手な容姿が近寄りがたくて、一言も交わしたことがない相手からこんなことを言われるなんて。
冷たい水溜まりの中に、温かいお湯が注がれていくような感じがした。
何か言おうと口を開けるが、感激に打ち震えることしかできない。
僕達は部屋に入った。穂苅君は筆記用具とノートがあがっている席に座った。
しかし、なぜ彼は学校へ来たのかわからない。しかも美術室を使っている。
彼は机に視線を落とした。勉強を始めたのかと思ったが、参考書類はなく、何も見ずにノートへ黙々と何かを書いている。
部屋の後方にある道具棚から自分の絵の具材を取った僕は、彼の横を通り過ぎる時勇気を出してきいてみた。
「何を、書いてるの?」
彼はノートに視線を向けたまま答える。
「ちょっと小説をな、書いてるんだよ。クラスの奴には内緒な」
穂苅君はこうして学校が休みの日、美術室でこっそり小説を書いているらしい。彼の秘密などちっとも知らなかった。外見から物静かに小説を書くイメージがない。
「何で美術室使ってんだって顔してる」
ペン先を向けて僕の思考を読み取る彼は得意げに言った。否定も肯定もせず、苦笑いをしてごまかす。
「海原先生が、小説も美学の1つだからって部屋を貸してくれるんだ。家じゃ落ち着いて書けないからさ。俺はどっちかっつーと、静かな方が好きなんだ。いつもつるんでる奴はうるさいから我慢して合わせてるだけだ。これマジで内緒だぞ」
彼は僕と違って人付き合いと自分の時間をうまく割り振っている。大口を開けて手を叩いて笑う姿も、真剣な眼差しでノートと向かい合う姿も、両方彼自身。皆に隠している方の彼が見られて、なぜか自分が特別扱いされたみたいで悪い気はしなかった。
「話は変わるけど」
だが、彼の一言により気分は高揚から消沈へ変わる。
「俺のおばさんがさ、旦那さんが亡くなる3日前くらいに、旦那さんが透けて見えたんだってよ」
それがなんだと言うのだろう。なぜ突然そんな話をふられたのかわからず、僕は首を傾げる。
「お前も、透けて見えるぞ」
彼は、見透かした目をしていた。僕は汗をかいてぴくりとも体を動かせなくなった。
「あ……う」
それでもどうにか声帯を動かして反抗しようとする。
「そ、それは、僕が……死ぬんじゃないかと、いうこと?」
「誰もいない時間を狙って荷物を取りに来るなんて、やましいことがあるからじゃないか?」
「やましいことなんて、何も」
「これからするとしたら?」
ふつふつと怒りが湧いてくる。
他者に土足で踏み込まれた心情。彼は、これから僕がしようとしていることを見据えている気でいる。
何がわかる、僕の気持ちを知ったかぶりするな。
「つまり、穂苅君は、僕が母親の後を追うって、思ってるの? それは、違うよ。……違う。もしそうだとしたらとっくに……」
呂律が回ら言い訳を考えながら喋っているのがバレバレ。
未来の想い人の姿をした人造人間が、僕の死ぬ日までサポートしてくれるなんて、一体誰が信じてくれるだろう。
若干鼻息が荒くなった僕は、心臓をどきどきさせたまま彼を睨み返した。
すると彼は吹き出した。
「悪い悪い、試すようなこと言って。怒る元気があればいいんだ。ただ帰る前に悲しみの5段階ってのを知ってけよ」
「悲しみの、5段階?」
彼曰く、悲しみの5段階とはドイツの精神科医であるキューブラー・ロスが、人が死を受け入れるまでの精神段階を唱えたものだという。
否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容の五段階がある。
「気休めだけど、知っておくだけでちっとは楽になれるんじゃないか?」
「何で、僕にそんなことを?」
「実際俺も多少楽になれたからだよ。まぁ、まだ抑うつと受容の間くらいだけど」
陽気だった彼に陰りが垣間見えた。
触れて良いものか迷ったけど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「穂苅君も、誰かを亡くしたの?」
「弟をね、2年前に死んだんだ。今でも実感は湧かないな」
お前もそうだろう?
そんな眼差しを向けられて、僕は黙り込んでしまう。
何て言えばいいのかわからなかった。ただ自分が言われたいことをそのまま言えばいいだけなのに、何も浮かばなかった。
僕は一体、どんな慰めの言葉を言われたいのだろう。
「上から目線で気分悪くなったらごめんな。しばらくしてから学校来れるようになった時は、俺と仲良くやろう。他の連中もお前を待ってるよ」
胸が急激に熱くなっていく。
面と向かってこんなことを言われて、困り果ててしまう。
僕を待っている。これから死に向かって行くだけの僕を、待ってくれると言う。
嘘でも下心があったとしても、嬉しかった。嬉しくて仕方がなかった。
穂苅君は鞄の中から1冊の本を出した。表紙はまっさらで表題が見えない。
「本、持っていけよ」
片手で手渡されて僕はおずおずと受け取る。
「これは?」
「俺が救われた本だ。これが小説を書くきっかけ。暇な時読んでみろよ」
「いつも、持ち歩いているの?」
「いや、たまたまだ。いいから持ってけ。ちゃんと返せよ」
「あ、ありがとう、穂苅君」
「じゃ、また明後日。来れたら来いよ」
僕は礼を言って、下手くそに笑いながら逃げるように美術室を出た。できるだけ生徒と遭遇しないように校舎の裏側の階段を使って遠回りをして昇降口に戻る。
予定よりも遅く学校を離れるはめになった上に、部活帰りの何人かの生徒に不思議そうな目で見られてしまったが、僕の気持ちは比較的穏やかだった。
こんなことがあるのか。
どうせ僕のことなんて誰も気に留めていないものだと思っていたのに。
そして、帰路をたどる途中で重大なことに気づいた。
「絵の具材、美術室に置きっぱなしだ」
何しに学校に行ったのか、小説を受け取った時、絵の具材を机の上に置いてしまった。また学校に行かなくちゃいけない。
「おかえりなさい」
疲弊して帰宅した僕を見て祈さんは眉をひそめた。僕は脱力して靴も脱がずに玄関マットの上でうつ伏せに寝転んでしまう。
「何かあった?」
「クラスメイトに、見られちゃった」
「何か言われた?」
「……先生といい、クラスメイトといい、どうしてこんな僕を気にかけてくれるんだろうね」
海原先生も穂苅君も、まるで僕がいなくなったら困るとでもいうように真剣な眼差しを送ってきた。目を閉じても開いても、二人の顔が消えない。
だけど、同時に母さんの笑う顔も浮かんでしまって苦しくなる。こんな風に矛盾した時、僕の体が真っ二つになってこの世に留まる方とあの世に逝く方に分かれていたらどんなに楽だろう。
「大丈夫?」
「気にしないで。ちょっとだけ、死にたくなくなっただけ」
それ以上祈さんは何も聞かず、僕の傍で音を立てずに正座した。
「叶崎君は、お母さん以外の人の優しさを素知らぬふりをして今まで避けてきたんだね」
横たわる僕の頭上から祈さんの声が降ってくる。
「素知らぬ、ふり?」
「そう、他人が苦手だったからお母さん以外の人は皆敵に見えていた、だけどお母さんが亡くなったことで視野が広くなって、他人の優しさと向き合うことができてるんだよ」
美しい花が枯れてしまえば、また違う花に目を向けるように、皮肉にも母さんが死んだことで他人を見る機会が増えた。そしてその他人は僕を迷わせる。遠回しに生きろと言ってくる。
「それは、果たして良いことなのかな。母さんの代わりなんてどこにもいないのに」
「良いか悪いかなんて言うまでもないと私は思うけどね。でも、もう少し早く気づいていれば私と契約しなくて済んだかもしれない。それは残念でならない」
そうだ、もう運命は決めている。旅行に行くのをキャンセルするのとはわけが違う。
「母さんに会いたい気持ちは変わらないよ。今まで二人三脚で生きてきたから。……過剰な依存なのは自覚してる。でも、大好きだったんだ」
幼稚園に通っていた頃、昼寝時間に僕は寝たふりをして、隙を見て幼稚園を脱走したことがあるらしい。母さんから聞いた話だ。無償に会いたくてたまらなくて、そんなことをしたんだろう。
きっとその気持ちは今と同じ。今度は、この世界から脱走するのだ。
「でも、残り少ない時間で海原先生や穂苅君ともっと関わりたいなとは思う。やりたいことの1つに加えておくよ」
祈さんは僕の頭を膝に乗せて、そっと頭を撫でた。びっくりして起き上がろうとするが、力強く引き戻されて両手でしっかり固定されてしまう。
「あの、祈さん?」
「しばらくこうしておいてあげる。視野が広くなったことはプラスに考えてほしい。誰かの優しさに向き合えないまま、命を終わらせるなんて寂しいもの」
祈さんは最初の時より表情が柔らかくなり無機質ではなく生身の人間のように変わっていた。
僕と生活をしていることで、喜怒哀楽が豊かになっているのかも。
僕自身も、何かが変わっていく気がした。
こうして、誰かに触れられたのはいつぶりだろう。死にゆく僕の心や体に色んな人が触れてくる。
こんな形でも、最期を迎える前に誰かの優しさを知れて良かった。本当にそう思う。
もっと早く人と向き合えていれば、母さんに依存せず強くなれていただろう。
「ありがとう、祈さん」
祈さんのひんやりした体温は気持ちを穏やかにさせてくれて、全身の力が抜けていく。小さい頃、母さんの膝の上で眠ったことを思い出す。
このまま死ぬのも悪くはないな、と思った。
しかし、微かに残る生への執着だろうか。穂苅君から借りた本はしっかり掴んたまま離せなかった。
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