つまらない小説
第9話
6月5日土曜日。
中身はどうであれ、姿が女の子の相手と同じ部屋で夜を明かす度胸はないので、彼女には一階奥の客間を貸した。ちょうど僕の部屋の真下で、部屋が違うといえど他人が家にいるのはひどく落ち着かない。聴力を集中させれば、かすかな息遣いも聞こえてきそうなほど過剰な神経質になっている。おかげですっかり睡眠不足だ。
「叶崎君、朝ごはんできたよ」
まだ聞き慣れない女の子の声。昨日は慌てていたせいで自分の容姿を整えず、寝癖がついたまま対応した。すぐに着替えて全身鏡で確認する。黒髪がぼさぼさで、目の下にくまができた、痩せた不健康な男がこちらを覗いていた。魅力のみの字もない不気味な姿があった。
洗面所で顔を洗って髪を濡らしてドライヤーで乾かしてから、彼女のいるリビングに行った。昨日よりは少しましな格好だろう。
「おはよう」
「おはよう。眠そうだね。一晩中徹夜でやりたいことを考え込んでいたのかな?」
祈さんはフレンチトーストとコーヒー牛乳をテーブルに出した。やっぱりこの寝不足な顔では、昨夜あまり眠れなかったのが一目瞭然だろう。
「まぁ、そんなところかな」
「時間はあっという間に過ぎていくからね。やりたいことはよく考えて」
向かいのテーブルには何も置かれていない。僕の分だけ朝食が用意されていた。
「作ってくれてありがとう。祈さんは食べないの?」
「お気づかいなく」
仮に祈さんが何も食べたくても平気な体だとしても、自分だけのうのうと食事をするのはしのびない。
「そのやりたいことっていうのは、逆に言えば相手にもやってもらわなきゃ達成できない例もあるんじゃないかな」
「例えば?」
「誰かと食事を取るとか」
僕は戸棚から皿とマグカップを取った。マグカップに牛乳を注いで電子レンジで温めて、インスタントコーヒーを入れる。ナイフとフォークでフレンチトーストを半分に切り、皿に盛り付けて祈さんの前に置く。
「飲み物や食べ物は自分で準備するのに」
「とりあえず、僕が今やりたいことにしておく」
僕ばかり食べて、それをじっと見つめられるのも嫌だし。
「そういうことなら頂くわ」
「好きな食べ物くらいはあるでしょ?」
「……甘い物」
「じゃあちょうどいいね。はちみつもあるから使って」
彼女は降参したように肩をすくめてから、ゆっくりと食事を始めた。衣食住の必要性は人間と変わらない。住は利用者の自宅、衣や食はスーツケースに詰め込んで持参してきたらしい。昨日と服が違う。家で共同生活をするので洗濯機や乾燥機などの機器、浴室、トイレなど自由に使ってもらっている。
寂しさとは異なるとても静かな朝食だった。自分以外の、食器が当たる音を聞くことで孤独感が消失していく。
もし、この場に誰もいなかったら、1ヶ月後が来る前にすでに僕はどうにかなっていただろう。真っ白の頭のまま、何も考えず命を断っていた。死後、母さんにも会うことなく。人生に終止符を打つ前に、やり残しを考える時間を与えてくれた祈さんには感謝すべきだ。
朝食を食べた後、祈さんはホースを使って庭の花壇に水をやっていた。母さんが植えた花々の世話をしてくれるのはありがたかった。祈さんがいなかったら今頃枯れていただろう。僕は物の整理の合間に休憩しては、縁側で胡座をかいて彼女の後ろ姿を眺めた。
誰がどう見てもアンドロイドだなんて思うわけない。普通の女の子が花に水を与えているだけの光景。この数日間の出来事に未だ実感が湧かない。母さんが死んだのも変な事業所に電話したのもアンドロイドの女の子が来たのも。
僕の余命が決まったのも。
妙にさっぱりした心持ちだ。何でもできそうな気がしたし、天から槍が降ろうが隕石が落ちようが、世界が滅亡しようが怖くなかった。
この世界と半分さよならをしている状態は、文字通り地に足がついていなくてふわふわとしている。世の中の出来事が全部無関係になる。
祈さんはぼんやりする僕を一瞥する。水が出ているホースの先をつまんだり離したりして少し不満げな顔をした。
「叶崎君がだんだん気を張らなくなっているのは良いことだけど、いつまでもぼんやりしてたら時間がもったいないよ。死んでからじゃ遅いんだから。それに、あんまりじろじろ見られるのは好きじゃない」
「ああ、ごめん」
僕は彼女から視線をずらして隣の家の外壁を眺めた。
「やりたいことがあったとして、どのくらいの範囲叶えられるのかわからない」
「空を飛びたいとか魔法が使えるようになりたいとか、非現実的なこと以外なら大丈夫」
自分が非現実的存在なくせに。
「だいたい物の整理は終わった。学校にも物が置いてあるんだ。今日は土曜日で生徒も少ないだろうし、取りに行こうと思ってるんだ」
「そう、学校にはもう通うつもりはないんだね」
「将来のために勉強する必要がなくなったからね。それに親しい友達もいないし」
久しぶりの学校。未練のない場所。部活で絵を描くためだけに通っていたようなものだ。あの日は退屈な授業の途中で、母さんの訃報を聞いた。教科書も落書きだらけのノートもそのまま机の上に置いてきた。その他ロッカーや美術室にある僕の私物は全部持ってこないといけない。
僕がいた痕跡を残らず片付けてくる。皆、僕のことなど忘れてこれからを生きていけばいい。その方が後腐れなくこの世界を去れる。
「すぐに戻ってくるよ。祈さんも来る?」
「それこそ誰かに見つかったらまずいんじゃない? 女子と登校なんて噂がたつよ。叶崎君が付き添ってほしいというなら行くけど」
「やっぱりやめておく」
そんなに私物は多くない。ほんの10分くらいで終わるつもりだ。使い慣れたスニーカーを履いて家から出るのは久しぶりだった。
リュックを背負って玄関を出た頃、先程の晴天とは打って変わって頭上には灰色の曇り空が広がり、いつ雨が降り出してもおかしくなかった。
「水やり、やらなきゃ良かったかな」
祈さんがぽつりと呟いた。僕はそんなことないと首を横に振る。
「丹精込めた水やりと雨とでは違うよ。ありがとう」
「……気をつけて行ってらっしゃい」
自宅から学校までおおよそ3キロほど。自転車に乗ればあっという間に着く。
今日が土曜日で良かった。部活目的の生徒くらいしかいない。ただ、違う学年やクラスの生徒に見られたとしても構わないが、事情を知っているであろう同じクラスの生徒に見られたら厄介だ。哀れんだ目をされるか、慰めの言葉をかけれるか。それがものすごく嫌だった。可哀想な奴なんて思われたくない。
正門の前で、どうか誰にも会いませんようにと静かに祈る。
駐輪場に自転車を停めて昇降口から校舎に入る。いつもやかましいくらい賑わっていた廊下はしんとしていて、人の気配が一切しなかった。
あの日、ここを無我夢中で駆け抜けた。足がもつれて何度も転びかけた。何かの間違いであってほしい、その一心だった。
「う、うぷ」
少し、気分が悪くなり咄嗟に口を押さえた。フラッシュバックだ。白い布を被った母さんの遺体、火葬されて骨だけになった臭い。記憶が蘇り吐きそうになる。
すぐ近くにあった水道の排水溝に顔を近づけた。胃がむかむかとして今朝食べた物が逆流したように感じたが、結局口から出たのは唾液だけだった。
祈さんが作った食事を吐かずに済んだ。そのことに対してひどくほっとしていた。吐いたら僕のために尽くしてくれた彼女に申し訳ないから。
うがいをして深呼吸をしてから、再び教室を目指す。
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