第8話

1日に来客が二人来る予定はなかった。そもそも僕を訪ねる親しい友達はいない。


「叶崎君、久しぶりだね」


海原碧彦先生。筋肉質の30代後半、独身。いつも髪が乱れていて、鼻息が荒くかばのように口を開けてハカハカとしている美術部の教師だ。両脇から汗が滲み、シャツがシミになっていた。


生徒に陰口を言われても、職員室で浮いていても怖気付かない彼を密かに称えている。


きっと僕とは正反対の強い人なのだ。


「元気だったかな? アポなしで訪ねてごめんね。お母さん、急なことで、先生、なんて言ったらいいのか……少し痩せたかな?」


彼は両手に持った紙袋を渡してきた。食料や飲み物がたくさん入っている。ごつごつした手には所々絵の具で汚れていた。


「食事をちゃんととれているか心配だったんだ。今は身体を休めなきゃ」


「こんなにたくさん、いいんですか?」


「いやぁ、いいんだ。遠慮しないで」


「わざわざありがとうございます、先生」


「……お母さん、とても良い人だった。君の絵を、いつも褒めていて……」


先生は鼻をすすってから銀縁眼鏡を少しずらして目を擦った。部活動の生徒の身内だったとはいえ、これほど悲しんでくれるのはありがたかった。ただ、涙の流し方をすっかり忘れた僕は母さんのことで泣くことができない。だから先生が羨ましかった。悲しみを通り越してしまうと、こんなに虚無になってしまうなんて知らなかった。


「図々しいのは承知だけど、線香あげさせてもらってもいいかな?」


そう頼まれて僕は家の中を一瞥する。祈さんが見つかったら面倒だ。関係を説明するにも難しいし、こんな時に女の子と二人きりでいたのかと誤解をされるのも嫌だ。しかし先生の好意を無駄にしたくなかった。


「ちょっと待っていてください」


一度リビングに戻り祈さんに相談しようとするが、気を利かせた彼女はすでにどこかへ隠れていた。


「叶崎君、都合が悪いなら出直すよ」


先生が玄関先で大きな声を出した。


「いえ、どうぞあがってください」


内心どきどきしながら先生を玄関から入って左にある居間へ通し、飾り祭壇の前に誘導した。母の遺影を目にして、再び涙ぐむ。


「悪いね、一番辛いのは君なのに、僕が泣いてばかりいて」


「そんなことありません。悲しんでくださってありがとうございます」


「本当に綺麗な人だ。これからって時に。ゴホッゴホッ」


涙と鼻汁で顔がびしょ濡れになった先生にティッシュボックスを差し出す。汗っかきで体の水分が常に抜けているのに、これ以上泣いたら脱水になってしまう。


「楽にしていてください。お茶を持ってきます」


「ううん、お気づかないなく……」


鼻をかみながら先生は詰まった声で言った。


台所に行くと、いれたてのお茶が入った湯飲み茶碗がお盆の上に2つ並んでいた。準備をしてくれた彼女の姿はない。人目につかないよう手助けするところが小人の靴屋という童話を想起させた。


「早いね、どうもありがとう」


先生はお茶を飲んで長いため息をついた。


自身の感情を落ち着かせているらしい。


「取り乱して悪かった。泣かないつもりだったけど、我慢できなかった」


「いえ、母のためにありがたいです」


「今すぐ学校に来いとは言わないけど、僕は君を待っているよ。また楽しく一緒に部活をやりたいし、ね?」


先生と出会ったのは、高校に入学して間もなく部活の見学に美術室へ赴いた時だ。僕の他に見学者はおらず、先生と二人の生徒しかいなかった。のんびりとして気遣いのいらない空間が気に入ったし、美術室に飾られた先生の描いたどこかの山と湖の風景画が美しくて、目を奪われたのが印象深く覚えている。


こんな絵が描けるようになりたくて、僕は入部届けを出した。


筆の持ち方をはじめ、絵の基礎が全然なっていなくて失敗を繰り返したけど、先生が怒ったところを見たことがない。怒り方を知らないのか、朗らかな性格なのか。生徒に対して懸命に指導をしてくれて、時に頼りになる。僕は父というものを知らないから、もし傍にいたらこんな感じなのだろうかなんて思った。


「先生だけですよ。僕を待っていてくれる人なんて」


「そんなことないよ。皆心配しているさ。まだ親しい友達がいないというならこれから作っていけばいいし、部活も楽しんでもらいたいんだけど……」


先生は気まずそうにしながら額の汗をハンカチで拭った。


「ところで、その、ビニール袋の山が玄関の前にたくさん置かれていたけど、あれは…」


「母の遺品です」


「捨てるつもりかい?」


「取っておいても仕方がありませんから」


先生の額からとめどなく汗が湧き出てくる。まるで見てはいけないものを見たかのような焦りようだった。


「ごめん、中身が見えちゃったんだけど、君の私物も、ずいぶんまとめてあるんじゃないのか? 服とか鞄とか男物だったし……絵、とかもあったよ」


頭のてっぺんから冷水を浴びたような衝撃。


しまった。僕は手に持った湯飲み茶碗をうっかり落としそうになる。


隠すべきだったのは祈さんじゃなくて僕の私物が入ったビニール袋だった。部屋の半分くらいの私物をまとめておいたその中に、部活で描いた絵が数枚入っていた。いわば、恩師からの学びの成果をゴミにしたようなもので、それを一番見られてはいけない人に見られてしまったのだ。


「絵を捨てられるのはショックだけど、それよりも……その、まるで、ここから離れるみたいじゃないか? なんだか、家の中がサッパリしすぎているよ。今すぐにでも空き家になりそうだ。ねぇ……おかしなことは、考えていないだろうね?」


「おかしなこと、っていうのは?」


引越し、転校、退学。先生のいうおかしなこと、がどういう意味に当てはまるのかは定かでないが、僕がこれからどうするのかを薄々感じ取られている気がした。


いざ聞き返されて先生は言葉を濁す。


「う、うん。えっと、まあ……家庭の事情なら、学校を離れることになっても仕方ないからね。ゴホッゴホッ。叶崎君と部活ができないのは、とても寂しいけど。これからのことが決まって、落ち着いたら、少しでもいいから学校に顔を出しに来てくれればいいから」


「先生、僕は」


僕は馬鹿だ。人目につく場所にあれを置くべきじゃなかった。


絵を捨てることを先生には知られたくなかったのに。何か言い訳をしようと口を開くが、弁解できない。先生は動揺しながら悲しい目で僕を見つめた。


「人はね、自身を諦めた時に大事な宝を捨てることに躊躇しなくなるんだ。君にとって絵が宝なんだと、僕は思っていたよ。ゴホッ、違ったのかもしれないけどね。それとも、それほど、追い詰められてるって、ことなのか?」


先生の声は、弱々しく震えていた。脆く、今にも崩れそうな砂の塊を目の前にしたように慎重な態度を見せた。


「君は、まだ若いよ」


遠回しに、僕に自殺するのかって聞いているみたいだ。


納得させる方法を必死で考える。先生を傷つけた罪悪感が鉛のようにのしかかる。


その時、第三者の足音が近づいてきて、僕の背後に立った。先生は驚いた顔でその人を見上げる。


「えっ? えっ?」


先生は僕と彼女を交互に見た。


「えっと、どなたかな?」


「はじめまして。叶崎君の友人の祈です。すいません、話の途中で入り込んで」


祈さんは隠れるのをやめて姿を現し、先生に会釈した。


「叶崎君が引っ越すための手伝いをしに来ていたんです。これからはおばさんのところに住むんですって。ここからそう遠くはないので学校も変わりませんよ。ダンボールが足りなくてビニール袋を使っていたんです。捨てるなんてとんでもないですよ、ね、叶崎君?」


饒舌な彼女からのふりに相槌を打った。その瞬間、先生の表情は明るくなった。


「そうだったのか! 良かった、おばさんと暮らすことになったんだね。先生安心したよ。何よりこんなに可愛いらしい友達がいることにびっくりしたよ。いや、僕はてっきり……。ゴホッ」


先生は苦笑いをして、やっと止まった汗を拭き取った。あの強ばった表情が今では柔らかくなっている。よっこらしょと立ち上がり、そそくさと玄関に向かう。


「邪魔をしちゃ悪いから、僕はお暇するよ。祈さん、叶崎をよろしく」


先生はまたなと言って手を振り早足で去って行った。姿が街中に消えていくのを確認して、僕はようやく一息つくことができた。


居間に戻ると、祈さんが飾り祭壇の前で正座をして、真っ直ぐ母さんの遺影を見つめていた。


何をしているのだろう。


長いまつ毛の下に、憂いを帯びた瞳がある。不思議とどきどきした。その美しい横顔に数秒見とれていると、彼女がこちらに気づいて振り向いた。


「あっ、お茶、ありがとう。あと、助かったよ。誤魔化してもらって」


祈さんは首を振って、速やかに湯飲み茶碗を片付け始めた。


「叶崎君は優しすぎるね。旅立てば残された人の心なんてどうでもいいのかと思った」


「残された身になったからどうでもいいなんて思えないよ。先生は、僕が思い詰めてとんでもない結果になることを勘づいたから、あんなに必死な顔になっていたんだ。……心配してくれる人がいるとは思わなかった」


「命を終わらせるの、考え直す気になったの?」


「それとこれとは別。ただ感謝しかない。考え直したところで、契約は解除できないんだろう?」


「そうだね、もうあなたの命は終わる予約をしたから戻れない。でも残された人のために気にかける姿勢は正解だと思う」


まだ中身の残っている湯飲み茶碗を差し出され、受け取った。茶は冷えて湯気が立っていなかった。


「最期までにやりたいことってないの?」


やりたいこと。唐突に尋ねられて首を捻ってしまう。


「命が終わる日までに残りの時間を有意義に過ごす、そのサポートをするのが私の役目。思いついたら教えてね」


つまり、この世に思い残すことがないように行事を考えろということか。


食べたいもの、行きたい場所、やりたいこと。


そういえば女の子と手を繋いだこと、一度もない。


そんなくだらないことが頭をよぎって、苦笑いをした。別に繋がなくていい。本当にくだらないことだ。


半分抜け殻状態で今後のことを精一杯考えるというのは、難易度の高いものじゃないだろうか。


母さんが生きていた時からやりたいことなんてなかったから尚更。


誰かにああしろ、こうしろと指示されるのが一番楽だ。今まで自発的に何かをしてみようと思ったのは絵だけだった。だけど今、筆を持つ気にはなれない。描いてもきっと酷い絵ができてしまう。


僕は、一体何がしたいんだろうか。


とりあえず今は、緊張で乾いた喉を潤すためにぬるい茶を飲むしかなかった。

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