生命終了支援センター
第4話
6月3日木曜日。
絶望しても容赦なく朝はやってくる。
僕の脳は、憔悴しきった心を無視して体に指令を伝え続けた。
やらなくてはいけないこと、やりたくないことを強制的にやる。
それは母さんの遺品整理。死んでからあっという間に3日が過ぎた。昨日までは無意識的に何かを食べて、風呂に入って、トイレに行って、眠るといった変哲のない日常生活を送った。無感情で死にかけの心とは裏腹に、体は生きるために自然と行動をとる。
遺品整理は、前に進むためにしているわけじゃない。母さんが触れたもの、身につけたものの一つ一つを目に焼き付けるためだ。
こんな物を持っていたんだなとか、こんな趣味があったんだなとか、いなくなってから母さんの知らなかった一面が見えた。まるで他人のように感じて、寂しい気持ちになる。反対に、死んでしまったのが母さんじゃなくて本当に他人だったら良かったのにと心が痛くなるようなことを考える。
貯金通帳を見ると、僕が大学に進学できるくらいの金が入っていた。いつか将来の目標ができた時のためにこつこつと貯めてくれていたのだろう。でもこの金を僕が使い切ることは無い。
これが終わったら、今度は僕の身の回りのものを整理する。
もう、生きていけそうにはないから。
僕が3日かけてようやく決断したのは、自ら命を断つことだった。
不思議と恐怖はなく冷静だった。この世に悲しむ人もいないし、死後の世界で、母さんが待っていてくれているはずだから。
遺書を残すつもりはない。けれど、母さんを亡くしたから自ら死を選んだと世間が知れば、どう思うだろう。
マザーコンプレックス、弱虫、意気地無し。
それなら、大切な人の後を追って死んでいった人達は?
相手が母であれ兄弟であれ恋人であれ、大切な人がいる場所に行きたいっていうのは誰しもが思うことじゃないだろうか。金をいくら払っても何時間でも何日かけても、命を賭けてでも。
それはいけないことじゃないと思う。
僕には親しい友人も恋人もいない。父もどこにいるのかわからない。やりたいことも特別ない。
そんな世界に未練はない。
母さんのいない世界などどうでもいい。
独りで生きていくつもりはない。
そう、自分に言い聞かせて作業を進める。
死に対する恐怖はなかった。
問題はどうやってこの世を去るか。できるだけ苦しまない方法を考えたい。
本棚をいじっていた時に、遺品からおかしなものが出てきた。
生前大切にしていた本の間から、しわくちゃに丸まったキャンディの包み紙が床に落ちた。ただのゴミだと思ったが、数字のようなものが見えたので包み紙を広げてみる。宛先のない、どこかの電話番号だった。赤文字で書かれたそれに、なぜか引き寄せられてしまう。電話をかけたら、母さんに繋がるような気がした。
携帯に番号を入力する。
トゥルルルル。
すぐに呼出音が鳴って、どこかに繋がった。
待て、電話をかけたからってどうにもならないじゃないか。何やってるんだ。
我に返って電話を切ろうとしたその時、若い女性が出た。
「はい、こちら生命終了支援センターです」
綺麗ではっきりとした声が、聞き慣れない言葉を発した。慌てたせいでうっかり携帯を落としそうになる。
「あ、えっと、こ、こんにちは。あの、母の私物からこの電話番号が書かれたものが出てきて、かけてみたんです。すいません」
自分でも信じられないほど情けない声で相手に謝罪した。
相手は笑うことなく丁寧に対応してくれた。
「そうでしたか、この事業所の電話番号は特別な方にしか知られていないんです。失礼ですが、お客様とお母様のお名前は?」
「あっはい、僕は
ああ、と相手の女性は知っている風に息をもらした。
「咲子さんの息子さんでしたか。お母様のことは存じております。この度はご愁傷さまでした」
この人は、なぜか母さんが死んだことを知っていた。僕はこの人のことを知らないし聞いたこともない。
「母と、知り合いだったんですか?」
「はい、遠い昔からです。個人情報保護法のため、詳しいことは申し上げられませんが」
「息子でもですか?」
「息子さんでも、です」
今更隠し事がばれたとしても死人に口なし。
母さんはいないし、僕は遺族なのだから生前のことを教えてくれても良さそうなものだが。
僕はそわそわしてフローリングの上を行ったり来たりと歩き回った。
「じゃあ、その、生命終了支援センターって、何なんですか? 聞いたことがありません」
「名の通り、生命を終了させる支援をする事業です。思うように人生を生きられない方が多い中、せめて最期は理想な死を希望の日時に、というのがこの事業の方針なのです」
綺麗な声が物騒なことを口にするのが、これほど恐ろしいものとは知らなくて、僕は身震いをした。
「突然こんなことを言われたら驚きますよね。申し訳ありません。でも颯介さん、あなたは今まさに自らの命を終わらせる決意をしていたのではありませんか? 」
さっと血の気が引いていく。どこか視線を感じてあちこち見回した。
「な、なんでそう思うんです?」
「電話越しに、あなたから死の予感が伝わってくるからです。先程申し上げた通り、当事業所の電話番号は特別な方、つまり本当に必要とする方にしか目にすることはできないのです」
「ごめんなさい、切ります」
変なことを言う上に、こちらの感情や考えていることを全て見透かされている。とてつもない恐怖に襲われて、電話を切ろうとした。
「切らないでください、早まらないで。このままではお母様に会えなくなってしまいます」
相手は焦った様子で引き止めた。通話終了ボタンを押す一歩手前の時だった。僕は再び携帯を耳に当てる。
「ど、どういうことですか? 母に会えなくなるというのは?」
「颯介さんがこのまま自ら命を断てば、間違いなくお母様と同じ場所には行けません」
衝撃的なことを言われ、僕は絶句した。生きても死んでも母さんに会えない。だったら死ぬ意味がないじゃないか。残酷な告知をされ全身の力が抜けて膝まづく。
「落ち着いて私の話を聞いてください。いいですか、命の終わり方には大きく2つあるんです」
相手はゆっくりで安心を誘うトーンで説明を始めた。僕は汗で湿った頬を携帯画面に強く押し当てた。
「生きたくても不可抗力で死んでしまう無意と、死にたくて自ら死ぬ故意。この違いがわかりますか? 事故で亡くなったお母様は前者、自殺をする颯介さんは後者に当たります。命を落とした際に魂の行先切符は別れて死後、同じ場所には行けなくなります」
「それは、天国と地獄に別れるということですか?」
「例えるならば、そういうことです」
「ようするに、僕が生きたいと思いながら死なないと、母には会えないということですか?」
「そうです。自殺をすれば予期せず亡くなった方と同じ場所には行けないんです。自ら望んで命を絶つことは、この上ない罪深いことなんです。皆さん、死んだら親しい方と再会できると勘違いしているようですが、再会できる確率は25パーセントくらいなんですよ」
死後、どこに行くかなんてどうでも良かった。地獄でも天国でも。ただ母さんと同じ場所に行けさえすれば。
それが叶わないと告げられて、どうしたらいいのかわからなくなった。
生きていても死んでも、会えないなんて。どうにもできないじゃないか。
「あなたの話が嘘でも本当でも、どっちにしろ僕は、この先どうやっても生きたいとは思わない。思う自信がありません。それだけは言える」
この世と僕を結びつけていたのが母さんという存在だ。
小さな頃から、毎日生きるので精一杯だった。人より繊細で、神経が昼夜尖っていて、ただ居るだけでも体力がすり減っていく。
視覚も聴覚も触感も、全部自分の身体が世の中の色んなものに順応できていない。
生まれるのが早すぎたのか、それとも遅すぎたのか。この時代が合わないのか、いつの時代にも合わないのか。そもそも人間として生まれたのが間違いだったのかも。
視界に入る景色は眼球運動を落ち着かせることはなく、鼓膜を震わすのはいつも雑音で、全身が粘土に埋め込まれたみたいに動きずらく、息を吸うと空気が気道を針のように刺した。
そんな僕を支えてくれていたのが母さんだ。溢れんばかりの愛を僕に注いでくれて、どうにか今日まで生きてきた。
「颯介さんは高度な感覚処理感受性をお持ちなのですね」
相手は電話を切ったり話を変えたりせず僕の身の上話をじっくりと聞いてくれた。
「弱い人間です。母がいなければ今日まで生きてこれなかった。だから、これからも生きていける自信がないんです。情けないでしょう」
「いいえ、糧がなくなれば命が絶えるのも自然の摂理です」
「.....ありがとうございます。でも、もうこれから先が僕には見えない。母と同じ場所に行くにはどうしたらいいんでしょうか。誰かに、殺してもらえばいいんですか?」
「まぁ落ち着いてください。そこで、生命終了支援センターの出番です。颯介さんが命を終えると決めた日、時間に合わせてこちらで生命活動を停止させます。その後、魂はお母様のいる場所へお送りします。颯介さんはその時まで悔いのない時間を過ごしていただくだけで、面倒なことは一切ありません。いいお話でしょう?」
不可思議なことを淡々と説明する相手の声が遠くなっていく。夢でも見ているんじゃないかと自身を疑ったが、正座した足先が痺れて痛くなってきたので現実のようだ。
「生命活動を停止させるというのは、その、あなたが僕を殺してくれるって意味ですか?」
生唾を飲み込みながら恐る恐る尋ねる。
「殺す、とはまた違います。当事業所は人の命の時間を管理できます。ただし、本当に当事業所を必要とする方にしか利用できないしくみになっていますから、颯介さんはラッキーなんです。私達ができることは大きく四つ、命の終わり日時の調整、終わり方の調整、死後の行先を調整、そして残り時間を有意義に生活できるようサービス提供することです」
「ちょっと待って」
ここで相手の発言に違和感があった。
心臓の拍動が激しくなっていく。
本当に必要とする者にしか連絡を取り合えない番号を、母さんが持っていたということは。
「まさか母は、生命終了支援センターを利用したんですか? そのせいで、死……」
声が震える。答えによっては、僕はこの人を心の底から憎むことになる。
少し沈黙した後、相手は答えた。
「お答えできません。ですが、お母様が当事業所に連絡をくださったのは確かです。あとの詳しいことは電話上で話すより直接お会いした方がよろしいかと」
顔の見えない相手との会話は信ぴょう性に欠ける。今のところ僕に何かを求める言動はないが、精神が弱っているところを狙って、上手く洗脳して金を請求してくるかもしれない。
「……今までの話が本当なら、あなたと直接会わなくちゃ信用できない。でも、現実にそんな所があるんですか? 人の命を、操るような所が 」
「利用者様は皆同じことを仰っていました。でも最期は満足し旅立ちました。料金の負担は一切ございません、全て私共にお任せください。まずはお会いできる日時、住所を教えていただげすか? もし電話越しで個人情報を言いたくなければどこかで待ち合わせでもかまいません」
悪いものに騙されているんじゃないかと強く疑った。しかし、今更失うものはない。お金や物を騙し取られたとしても、どうせ死ぬなら気にするだけ無意味だ。
僕は腹を括り、住所と電話番号を伝えて明日の10時に訪問の依頼をした。
相手は自信に満ちた声で返事をする。
「承知致しました。それでは明日の10時、ご自宅に伺いますのでよろしくお願いいたします」
電話を切って、しばらく硬直したまま呼吸と瞬きだけをしていた。
今のはなんだったんだ。
得体の知れない事業所。現実味のない話。
しばらくぶりに誰かと話したせいか、緊張のあまりか、口の中は乾燥しきっている。
僕は痺れた両足でよろめきながら歩く。台所の蛇口を全開にして、浴びるように水を飲んだ。
電話をしたかどうかさえも疑わしい。自分が信じられない。
頭が混乱する。でも、夢だったか現実だったかは明日の10時にはっきりする。
例え詐欺でも強盗でも殺されても、それはそれでかまわないと思った。
金も命もいらない。ただ母さんに会いたいだけだから。
ステンレスのシンクに俯いた僕の顔が映り、目が合う。歪んでいたその顔は、まるで泣いているように見えた。
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