白い箱
第3話
6月2日水曜日。
本当は布団を何枚も被ってじっと横になっていたいはずなのに、僕は黒い服を着て母さんの遺影を抱えて経を聞いている。自分が自分でないみたいで、誰かに体が操作されているようだった。でも実際は、何かをして気を紛らわせなくちゃいけなかったり、遺族としての義務感があったりするおかげで僕はこうして足の裏を地面につけて立っていられるんだ。
母子家庭の上に親戚と呼べる人は数少なく、昨日の通夜も今行われている葬儀は質素なものだった。泣いている人は誰もいなかった。僕を含めてだ。
いや、よく見るとただ一人だけ体を震わせて泣いている人がいる。
髪の一部が白髪になっている50代くらいの男性。もちろん父ではない。父は僕が物心ついた時、他の女性の元へ行った。最後に僕を見下ろしたあの冷めた目付きは忘れもしない。母さんの訃報を知っても知らなくてもこの場所に来るはずはないだろう。別に死んでも関係ないほど父が僕達に向ける愛情は空っぽなのだ。
しかしこの男性は、母さんの何なのだろう。何にしろ泣けない僕の代わりに泣いてくれているのはありがたかった。あんなに泣けたらどんなにいいだろうと羨ましくもなる。
火葬が終わり、今度は遺影じゃなく焼け焦げた臭いが残る白く小さな箱を抱いた。この箱に母さんの全てがおさまっているなど実感が湧かない。両手のひらで持てるほどの軽い人じゃなかったんだから。食べるのが好きで少しふっくらした人だった。
そうか、母さんはもう、人間ではなくただの残骸になってしまったのだ。
この世界のどこにもいなくなってしまった。
「これからどうする?」
1日が終わり皆が解散する中、遠い親戚のおばさんが気を遣うように話しかけてきた。2、3回程しか会ったことがない人だ。何を喋ったらいいのかわからない。
「やっぱり、お父さんと連絡取れなかったんだね。まだ高校1年生でしょ? 独りでは大変だから、おばさんと来る?」
おばさんは旦那さんと二人暮しで子どもはいない。身寄りのない僕を歓迎してくれるだろう。ただ、問題はここからかなり遠く、飛行機やバスを使って何時間もかかる場所なのだ。
母さんを失ったばかりでこれからのことを考えることができず、行動する気力がない僕は、はっきり覚えていないけどおばさんに何かを言って断った気がする。
辺りを見渡してあの泣いていた男性を探す。しかし彼の姿はすでになかった。なぜあんなに泣いてくれたのか、母さんとどんな関係なのかを知りたかったけど仕方がない。
一言、礼を言いたかった。泣けない自分の代わりに泣いてくださってありがとうと。
怒涛の数日があっという間に過ぎて、ようやく母さんの残骸と二人きりになれる時間ができた。
一緒に暮らしてきた小さな一軒家。日当たりが良くて夕焼けの淡い光が射し込む優しい空間。
いつも食事をしていたダイニングテーブルに母さんを乗せた。
オレンジ色の夕焼けの光が窓からさしこみ、母さんの入った白い箱を照らした。その影はどんどん伸びていく。
僕はダイニングチェアに腰かけて頬杖をしながら、しばらくその光景を眺めていた。
事故の日、母さんが使ったマグカップは今でもそのままテーブルの上に置かれている。
「ただいまぁ、
耳の奥に声が残っている。意識をすれば何度も声は再生されて、もしかしたらひょっこりと現れて好きだったコーヒーを飲み始めるかもしれない。そんなありもしないことを期待して待っている。
空っぽのはずのマグカップから湯気が立ったように見えたのだが、それは想いが作り上げた幻。疲労のせいで目が霞んだせい。
瞬き一つしたら幻は消えてしまった。
「母さん、お腹空いたよ」
返事はない。
もう二度と会えないのだと実感して僕は絶望した。
何時間も白い箱に入った母さんを両腕で抱きしめ続けた。柔軟剤の良い香りはしなくて、まだ焼け焦げた臭いがうっすらと鼻に伝わる。中身は、息を吹けば飛んでいってしまう軽い骨だけ。
ひどく疲れた。
真夜中になっても僕は風呂にも入らず、着替えもせずフローリングの床上で母さんを抱いたまま眠りについた。
もうこのまま目覚めなくてもかまわなかった。
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