八月三日


 儀式とはある種の呪いであり、また畏れであるということか。物を忌むとは、一体どのような心だろうか。おそらくこれらは、今では狂気にみられるのだあろう。ある行為を前に、少しも乱してはならぬ、踏み外せば、この世にはもう戻れぬと唾を飲み目を見開いた、爪の先の、土の目立つ男を思いかけた。我々は思考し決断していくと、どうやら信仰を忘れていくものらしい。当然私にも、そのような心当たりはない。だが待て、我々はそれほど自立したものであったのだろうか。寄りかかる机や、杖なしに立てるほどの壮健な脚を、もっていただろうか。熱に焼かれた足元のコンクリートが、急にふやけはじめた気がした。膝に両手をやると、身体の重みが足元に収斂されかかり、一瞬の痛みの後すぐさま放散した。私はその痛みをしばらく追いかけていた。その間も健康的な私の脚は、不安定な私か、あるいは緩くなったコンクリートを踏んでは、恍惚に入っている。私はこんな脚に、常に繰り返し生かされている。


 八月四日


百日紅の木に、鮮やかな紅い花の灯る季節になった。滑らかなその表皮に近付いてよく見ると、至るところに蝉の抜け殻が留まっている。枝分かれした股のような場所に一塊になっているのは、蝉の習性ゆえだろうか。無数の裂け目に、長い光陰が解けて広がっていく。まるで彼女自ら発光しているように。その放射状の直線に、いつか見たパノプティコンの図案を思い出していた。私の生活の、なんと愚かなることか。百日紅のようにその葉を小虫に食わせ、その枝から蝉を飛び立たせる母の木になり、なお自らもその幹を脈々と伸ばすことなど更にできず、楽園を築こうとしながら、さも美しき監獄を拵え、その明室に眉間を顰め、一人沈黙し横たわるのだから。


 八月五日


東京の郊外の川沿い、あれは、隅田川だろうか。風景に馴染んでくすんだ鈍色のスカイツリーが、ビルの隙間から覗いている。毎日の労苦のこと、バイトなり、進路なり、人生なりが、浮かびかかった次の間には、遠く遠く離れていた。駆けていく私の額に、季節外れの雪が落ちた。スカイツリーと同化した空は、温く優しかった。濡れねずみの鼓動が、掌に蘇ってきた。肌の温みを失うと人は、狂おしい反復を暗に切望する。額から垂れてくる、雪か汗か定まらない滴を一息に撫ぜ、茫と無闇に広い道を、その橋を、焦ったような早足で、用も無いのに、荒涼としたわが庵へ、まるで、ずっと昔からそうであったかのように、そしてすでに決まったことのように、人はわが栖へと帰っていく。私もそうして帰っていく。高校生の私が、あの街にいるはずがないのだけれど、学校帰りの通学路、その雪の温度と深川の街が、吐息と共に思い出される……滴る汗に、私は目を覚ました。


 八月六日


幽霊は、ある人には見えるが、ある人には見えないものである。これを原理とするならば、人こそ幽霊そのものではなかったか。幽霊の正体見たり枯れ尾花——そう歌ったのは誰だったか。幽霊のようなその人もまた、画面越しに、おるかおらぬか定かでない、名もなき幽霊を見ているのである。私は枯れ尾花か、いやそれよりも、もっと幽けき裸の体か。


 八月九日


どうして私は、生命が伸びていることを知りながら、以前と変わらぬ反復を続け、そのために焦り、悩むのだろう。時間の感覚のズレが確かにここに起こっても、決しておかしくはないはずなのに。最近、長寿のエルフが過去を逡巡しながら、人間の若者たちと旅をする物語が話題になっている。象徴的社会の目が届かなかった穴を、その裂け目として現実に召喚する。社会的善のあれこれ。またその逆も。


 八月十日


さて、今夜は腹が痛い。が、こういう時は、まだしばらくは死なないものだ。むしろ明るくなった頃がまずいらしい。死の直前の軽さというものだろうか。クマゼミが、窓の外で死にかけている。木に張り付いて鳴いている時には、いかにも鈍重であった身体は、地に横たえてみると見る影もない。足は律儀に折り畳まれて、腹の部分だけが、独得のリズムを持って収縮している。そんな一場面がふと思い返ってくる程には、体調は良くないらしい。今の私には到底分からないのだが、死の床では、知らないことも知っていることも包みこむ大事が起こるようで、その誰とも知り得ない記憶が、かろうじて今の私を支えている。ところで人は、大小は異なるものの、健康に向けて努力をする。無傷の状態という理想を目指している。自己管理と延命は、選択を迫られた際の私たちの、基本的な判断材料であるらしい。ここから外れるとどうやら危ない。健康は鎖で繋がれている。未来を肯定しない生き方は、どうにも反発を受けるらしい。死は生の付属品だ。釈尊は四苦を並べて言わなかったか。はぁ痛い、また腹が痛くなってきた。私の集中なんてこの程度で、空想と現実は切り貼りされ、互いに侵食し合いながら行きつ戻りつする。この痛みは快感の付属品か。快と不快、この語をみれば明らかで、不快は、快でないものである。不快なものなど、跡形もなく消し去るのだといって、快い空間を目指して私たちは齷齪している。そうして、病のない世界は出来上がった。人は、この痛みを知らない。私は、私の部屋を暗闇の中で思い起こす。とたんに空調の音が聞こえてくる。窓は遮光性のカーテンで閉ざされ、寝転ぶベッドにはシーツと布団、上水はいつでも用意されている。ある人にとっては、いやほぼ全ての人間にとっては、この環境ですら不快かも知れない。腹が痛いだけでこんな虚言と幻惑を始めるのだから、人間はやはり考えることなく、身体の赴くままに動くのがいいのかも知れない。外から見たそれが、たとえ監獄のようだとしても。私は余所者、向かう場所もない。


 八月十六日


———人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

人間は大きな流れの円環、反復がなくてはどこか狂ってしまうのだろう。私の推し活は堕ちかかった、しかし堕ちぬけない人間の営為、ということになるかしら。四季の移ろいを忘れ、行事を忘れ、儀式をも忘れていく愚かな私を生かす救世主こそ、私の推しだったのだ。ただそれらは生政治のために、あるいは資本によって与えられた仮構だろう。けれども、推しだけが虚なのか。生まれてから人は堕ちはじめ、その底にある門の前で信仰に相対する。掟の門という話があったのを思い出した。農夫はその門の前でただ待ち続け、いずれ死に至るだろうが、門を潜ることは堕ちきることだとするならば、門の前の信仰をどうして咎められるだろう。それほど私たちは強くはないといったのは、あなたじゃない。人間は可憐で脆弱で、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。なんて厳酷、しかしそれ以上に、なんとも言いようなく美しい文句。この陶酔と共に、私はまた微睡はじめる。虚は現の裏ではない。表でもない。あとは沈黙の中、私は、あなたと目を合わせる。


 八月十七日


部屋の隅を掃除していた。溜まった黒い染みは何かの粉らしい。果たして腹痛の原因はこの部屋か。空間がそのまま情感を映すとはよく聞く話であるが、気力の尽きた蝉が、座布団の上にコロコロ転がっているような、そんな心持ちだろうか。蝉は虚に天井を見つめている。蟻が腹を砕いて運んでいく。胸を砕いて運んでいく。脚を捥いで運んでいく。人間は自分のためだけに生きれるほど、強くはないのである、と誰からか聞いたようなことを思う。塵に還る腹や胸や脚が、蟻の一日に混ざっていく。どこへ還るのか。昨日の私は、この部屋にいただろうか。明日もここにいるだろうか。すでにいたかも知れず、またこの先もずっといるかも知れない。部屋の隅にはまだ、黒い、黒い染みが残っていた。


 八月十九日


昏くじめじめした世界が、澄んだ明るい世界に変わっていた。それは私の心にも広がり、清いものや明るいものを求めるようになっていった。私は明るさや清さが幸福につながっていると、あの日も確かに思っていたけれど、あれは幻想だったのだろうか。あるいは、ついに見る暇もなくなった昏さの、その洞穴のような温もりを理解していてなお、虚構の壁に頽れているという、そんな後ろ暗い諦念だろうか。私たちのこの狂気ともいえる明るさは、死の前のそれに似通ってくる。洞穴を抜けた私の目は、既に業火に焼かれている。何か空恐ろしいものの降ってくる前触れ、その楽天。明るさに慄き、とく打ち消そうと翅を震わせる蝉が、窓の桟に引っかかっている。私は、恐れているのだ。あなたの記憶を失い、把えがたくなった苦しみを。そしてそれを取り戻そうと、あるいは打ち消そうと身体を振るわせて、清らかさと明るさの雨の中を生きている。いきなり、誰かが夕暮れの重い光を広げて叫んだ。立ち上がって窓を開けると、雲の割れんばかりに雨は降りしきり、コンクリートの沈黙のような匂いが、六畳の部屋に押し広がっていく。そしてあなたは立ち上がり、箍の外れた獣のように、勢い外に飛び出していくだろう。


 八月二十一日


やはり、走馬灯ではないか。死にかけている私の記憶で、薄くのびる夜を覗く。人はいつも死の床に伏している。現在とはその一時の記憶である。記憶とは過去であるが、我々は過去とは認識しない。描かれかつ折り畳まれる絵巻物のように、我々は死に向かって現在を織り続ける。そして死の床に辿り着く時、つまりそれが走馬灯であったことを、ようやく知ろうとする時、私はついに、私を失う。何も終えられず、何も閉じられず、私は、私すらも、描ききれない。


 八月二十二日


ある美しき壁への接吻。あの見慣れた汚い四隅。雑然とした庭の木々は刈り取られ、いずれは砂利の更地に成り果てる。終わりを失った果て。その先は、鬱屈した仮の楽園であり、剥がされた廃城は、深々と草木を繁らせる。ある彷徨の、その痕跡だけを残して。

人の悪癖が、どこかに回帰することはなく、当然どこかに進むなんてこともなく、人はまた、すでに社会の内、あるいは外にあったはずの、あの廃城の壁に接吻するだろう。決して手の届かない檻の外、あるいは内から瞼を閉じたまま、その目は狂おしく見開いて。


 八月二十五日


物語を読む時、読み手はその映像や言葉による、換喩的な記憶に触れる。それは物語に関することかもしれないしそうではない、全く関係のないことかもしれない。登場人物の台詞や行動の裏を読むということと同時に、奥行きを自ら作り出している。そして気づけば連辞的に物語られている。この差し込みが、物語を独自のものにするのである。つまり物語は、読み手によって作られる。その軽やかな暴力によって。なんて当たり前のことか。当たり前といえば、「当然」の誤字である「当前」から生まれたそうな。本を閉じ、すでに霧散した余韻に浸りながら、まだ揺れ残る午後の日に目を向けた。


 八月二十六日


司牧的な、しかしながらやや古ぼけたシークエンス。物語る内容ではなく、ただそのしこりの受容にのみ重きが置かれる。教師が生徒に、道徳を諭すように。しかしエンタメ、故に、暴力的だ。つまり今私たちが乗り越えようと目論む課題を、なんとか過去の枠組みの中に丸め込もうと試みるアナクロニズムが、やはりいつも起こっているのである。私たちはいずれ組み変えなくてはならないだろう。「親」ではなく、「家族」でもなく、「恋人」でも「夫婦」でもない。フレームをずらすことしか、もはや私たちにはできない。「兄弟」も「姉妹」も「友達」も、私たちは問い直すことしかできない。いやもうすでにきていた———崩壊後の彷徨を、私たちは物語る。あれはこうだった、もうどこにもないけど。例えば、荒れ果てた野に二人、地べたに座り、空を見上げる。光源の絶え乾いた夜には星があった。彼は壊れたスマホを空にかざし笑っている。何をしてるのと私が聞くと「星の光が反射するか、見てみたくて」と、澄んだ目で彼は答えた。こんなことが、あったような、なかったような。


 八月二十七日


君は椅子に座り、向かい合って茶を飲んでいる。部屋は方丈で、白い光が飛んでいる。卓にはカップとソーサーが二つずつ。茶を口に注いで干すと、君は話し始めた。ある世界の価値観の中で凡庸なものを激烈に好む人がいたならば、ある世界の住人にとって、その人は狂人になるだろう。曖昧なままで堪える、その力があれば。「恋人」の中に「友達」を混ぜ、「家族」や「犬」や「花」を重ね、「苦悩」や「享楽」までも攪拌して、名付けようのないものとできるだろうに。———人間は可憐であり、脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。———こんな引用を、少し前にしたことがあった。名付けようのないもの、量子雲のような、可能性めいたものを、私は引きちぎってきた。無惨に強引に模ってきたし、これからもそうしていくのかもしれない。どこまで意味が、そもそも言葉は、私に振り向いてはくれなかった。いつも、何も答えてはくれなかった。雲のようなものを、靄のようなもので表わすようなものだった。実は何もない空間の縁を、うろうろと嗅ぎ回っている犬を思い浮かべてみるといい。そんな風に曖昧なままで、暢気に生きていたのかもしれない。いつも、何度も。言語以外の記号を頼みにする、あの科学者のことを思った。そうでないとやってられない。人工知能の目には、人とはなんとも使い勝手の悪い通信手段を用いているように見えるに違いない。極限まで抽象化した数字記号から、もはや何も見えないとすら言える言語記号に変換し、人とコミュニケーションをとっていると考えると、もはや深い憐れみすら感じる。喃語で話している赤子を見るような感覚の、その至り(至る場所があればだけれど)と思ってもいいかもしれない。ともかくも人間は、堕落していくらしい。堕ちるところまで堕ちる、行き着く底があればいいのだけれど、あるいは私の今いる部屋が底ならば、泥の豊穣な地に寝そべり、名付ける必要もなくなった、つまりは自分自身を、今もどこかに持っているはずの自分自身を、きれいさっぱり霧散させてしまう。川の底もどこかへ流れている、目的もなく。こんなものかも知れないと、私は思うのだけれど、君は、どうだろうか。


 八月二十八日


この言葉は歌うためにある

その声を出すためにある

狂喜し何者かもわからぬほどに

言葉をその肌に触れさせて

この言葉はわたしのものではない

あなたに与えられたあなたのものだ

わたしはその幸福に与っているにすぎない

それから彷徨い狼狽えまた絶望している

あなたの声に耳を傾け

その歓びに背中を押され

わたしはまた口遊み躍る

決して触れることのない柔肌を前に

粗雑な雲の粒子を投げつけるばかり


 光の胞子が跳ねる。薄膜のベールを、ひらめかせ踊る。彼らは、軽快に踊る。回る。私はほころび、その中に埋ずもれ、ともに踊る。ともに跳ねる。私は踊る。私は跳ねる。日の光がカーテンの隙間から差してきた。泡沫のようなあの意識はいつも、軽い音の連なりだった。私は幼年の日、その胞子のように、我が身をあてなく放り投げた。ノートは机上に、すでに開かれている。


 八月三十一日


 夏の日。昼下がり。誰もいない部屋。明滅する塵。散らばった服と朝ごはんの骸。求めているものが、記憶にのぼるとは限らない。昔の記憶とも限らない。薄い橙色のしみの広がった、赤子の泣き声のような部屋。私は外側。私は余計者。故にただ懐かしく、その輪郭は、切り取られたように鮮明な直線だった。松の木肌にもたれかかると、温く冷い息が漏れてくる。その生肌に触れ、私は他者に気づく。雑然と置かれた紙の束。せめてものの多肉植物。私のものはどこにもなく、私は、私だけをもっている。急な眠気に私はソファに寝転がり、太々しい四肢の重みに堪えるように、これからゆっくりと沈んでいく。ノートは、机の上に、置いておいた————

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mui 伊富魚 @itohajime

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