Ⅶ
八月一日
毎日を必死に束ねてきたけれど、どうやらこの辺りが汐時らしい。日々の生活というのは、なんと難しい妙技であろうか。人はその安らかな座布団の上に胡坐しているように見えながら、私などでは手に負えぬ大事業を、いとも健康的に過ごしている。毎日を、社会全体で動かしていた頃とは随分と違うようで、一人ひとりが切り盛りしなければならない。だらしのない私からすれば、これほど憂鬱なことはない。ところがどっこい生きている。どこかで聞いた何とも平らかなフレーズが浮かび、かろうじて今日も朝を迎えたことに気がついた。大河が枝分かれして枯れ際の水路になるように、言葉も枝分かれし、結果痩せ細り死にかかっているようだ。これも随分と前から言われていることだから、実は案外しぶといのかもしれない。無数の小川の底に流れる音律を探らなくてはならない。だらしはないが、どうしようもない。荒野の砂埃の中を独歩している気になってくる。顔を布で覆っているせいか、もう長い間同志の影も見当たらない。視線を隠していては見つからぬのも仕方があるまい。故郷をなくした流浪者の我々は、兎も角水源を探さなくては。そこでいつか落ち合おう。遠くの仲間に、思えば届く道具もできるのだろうか。熱に浮かれた頭が疑わしくなってきたので、私は考えるのをやめた。
ゆめが、えりが、そして一登が、生きていたのか死んでいたのか、そんなことには意味がない。七月三十一日、えりはゆめを助けようとしたのかもしれないし、ゆめはえりを待っていたのかもしれない。が、そんなことにも意味はない。
私は、彼女たちを知らない。SNSで事故のニュースが流れる。「湖西線で死亡事故。十七歳の女子高生が飛び込み。沿線の乗客約一二万八九〇〇人に影響」私はスマホを閉じた。画面に書かれた彼女の名は、誰でもないような空虚で、すでに誰も覚えてはいない。そもそも、彼女が死ぬ前ですら、彼女を思った人がいたのかも、よくよく考えれば疑えてしまう。それなら、あの頃生きていた彼女と、今死んでいる彼女は、何が違うというのだろう。それから、それは私の、いや、私自身の問題ではない。私は、何も書けない。えりのためではなく、ゆめのためでもなく、誰かのためでもない。それはすでにそこにあったもの、いつか現れるものだ。だから、ここから先の文章には、いやこれまでの文章にだって、何も、意味はなかった。誰も彼も、何も書けないのだ。えりは書けず、ゆめも書けず、そして私も書けはしない。書いたその時にはすでに、私は死んでいるだろうか。だからこれは、ある遺書のようなものなのだ。今生きている誰かと、既に死んでいる言葉、書けなかったある文。
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