七月一日


眠るということ。本を閉じるように、パタンと音を立てると暗やみが広がる。それはまた裏表紙を眺めるような、物語の、終わりのあることをしっとりと確認しなおしているような心地がした。眠るという行いは、あるいは死をたしかめなおしているのかもしれない。それはもう済んでいたことをふと思い出させる、いや思い出させようと睡気が肩を叩いているのかもしれない。そういえば、この話はもうずいぶん前に終わっていたのでした。綴じられるその際であったのでした。では今は、睡気にまどろむ私とは、一体何なのかしら。私はどうして……いや、そもそも私は何に向かっていたのかしら。そんなことを思うのは、きっと本当に終わりの近いからなのでしょう、と陰気な白い病室の床にころがる身体、きしきしとぎこちなく動く身体の重みを不思議がりながら、曇りがちな近頃の空を、窓枠に囲まれた鉛色の空の底を、ぼんやりと眺めていた。眺めている間、雲は少しも動かなかった。


 七月二日


泥の淵で、ついに来たと思った、その最後の際で、ひしと抱かれているその腕の中でさえ、私は他のことを考えている。彼の声の中に、その音に、微かにでも彼女の影が混じっていないかを、私は醜く探っている。きわの際に至っても、私は黙ったままだった。腐敗の中で口笛をふかし、終演の拍手の音降る只中で、途絶えたはずのその先の台詞を叫ぶ。低く嗄れた声で。


 七月三日


けだもの、それは一瞬、ある理想に到達する前に現れる、門番のようなものに見えた。しかしいきなり、陰獣特有のにおいを湛えた、けだものよりも獣であることに気づいた。もっと前に気づいてもよかったはずだった。私の目にはそのにおいも、むくりと背を丸めた獣の姿も映っていたはずだ。私は白い裂け目に落ち込んでいった。

 あの底を漂う彼女に見えずに、現実を生きていることのなんと不実であることか。現実と呼ばれるこの隙間から、彼女を覗くことができるのなら。それは理想であるよ、けだものは諭すように言ったようだった。けれどその獣はもう、私の頭にはなかった。ただ彼女に出会った日のことが一瞬甦りかけて、けれどその記憶が本当に私のものかどうか怪しくなったと思ったすぐさま、彼女は嘘のように消えさっていた。


 七月四日


目の前に、鈍重な襞の束が降りていることに、いきなり気づいた。いつか上がるはずであるその幕を、私はいつから見ていたのだろう。やはり、遠く過ぎ去った記憶の底から私の前に降りていたのか。いきなり幕が上がる。そしてすべてが束ねられる。終わりと始まりが束ねられる。それからいきなり解けていく。死んでいく中に生まれるのである。こんな時の来るのを、私はなぜか知っているような気がした。すでにどこか経験したことのある、ああ、遂に来た、と零すようなある恐れが降ってくるようだったと、いつか私は話した気もした。そんな記憶が一瞬、飛来しかけた。けれど私は、まだ知らない。私はいまだ、幕の前にいるはずであった。鈍重に見えた幕がいまでは半透明の薄膜に変わりかけて、すぐさま元の重さがふくらんだ。その襞の、起毛と紅い艶の見える近くまで迫っていた。私は、ただ幕の上がる予感だけが、頼りない現実と共に浮かびかけては消えていく、こんなことを何度も、何度も繰り返している気がした。私はいきなり目を覚ました。見知らぬ白い床があった。細く鋭い痛みを、細胞の内に包みこんだまま生きていることを、今更といった感覚で思い出した。そしてその感覚も誰かの、扉を打つ沈黙の音にのまれ、何かを掴み損ねた不安と共に過ぎ去ってしまった。


 七月五日


大喝采の音が聞こえる。ある人は立ち上がり、鳴れよ鳴れよと拍手を注ぎ、またある人は感涙に咽び屈みかかっている。幕の引きかかるその、光の降る舞台を見つめ、もう仕舞いだという思いも起こり終えたその際。ようやく、沈黙は現れる。

その老人は目が曇っている。そしてその耳は聾しているらしい。というのも、老人は村では誰もが知っている耄碌で、誰が話しかけても返事はなく、彼の近くで大きな騒ぎがあったとしても、少しの振り返りもない。ただ毎日、村の縁にある小路を、明け方から夕の沈む頃まで歩くらしい。その丸まって山のようになった腰にはもはや人の気配はなく、ある人の言うには樹木の隙間を縫って歩く獣、狗や鼬や狐のようなものに見えるらしい。やはり老人は狂っているようだ。私がそんな彼への手紙を見つけたのは、今でも偶然としか思われない。

夏の盛りの頃だった。夕暮の熱に浮かされてか、膨れあがった積乱雲が、雷音と打ち叩く雨音を連れてきた。私は茹だる熱気を前に、雨止みを待つ大勢の人の中にいた。まるで幕のようだな、と思った気もしたが、すぐに不快な暑さにかき消された。雨は止む気配もなく降り頻り、コンクリートの匂いを持ち上げる。


 七月七日


大きな地響の合図を切に

世界は一点に収束していく


まさにその瞬間が訪れた

死の床に向かう幾重にもなる


雑多な可能性の記憶へ

最後は沈黙で答えよう


一日の終わりに人が

床へ引かれていくのは


死の予兆かあるいは名残か


 耳鳴がして、一時の沈黙ののち、その震えはやってきた。震動が音を置き去って時間ごと私たちを揺らした。そしてあの日に帰る。日常へと帰る。そんな空想を起こしかけた。窓際の席のうたた寝は、時折何かとんでもないものを見せる。見てはいけない、私は空恐ろしくなって、机に大様に突っ伏した。それは私を、外へと追いやった。


 七月九日


やはりまだ、門の前である。私は沈黙を守り、ただ静まる。叫ぶでもなく、求めるでもなく。池に落ちる波紋の、一切消え去るのを、私はじっと待っている。ある借り物の力を弄しながら、罪深き思考を繰り返しながら、私はただ沈黙し、その声を待つ。望んではならぬ、それは破壊を生むであろう。退がってはならぬ、それはますます遠のくであろう。ならば私は沈黙する。まだ、門の前で、静まりを待っている。


 七月十一日


なぜ書いているのか。卓越した文を残せるわけでもなく、自身が悦に入るような、そんな麗句を書けるわけでもなく、数分前の、恥の煮詰まったような言葉の羅列を見ることになる。一人で恥じ、一人で苦悩する。古典の、遠く鐘の響くような讃歌を前に、手も足も地に臥すのみである。ながら、尚もこうして呆れながらその手を借り、標を辿っている。河底をひたりひたりと彷徨う蟹を思う。誰にも気づかれぬまま、静まりの中を歩いている。河底にいることにも気づかずに。その河底のほんの欠片、ほんの少しの徴だけでも、どこかで触れられたら。夕の暮れ方に降る驟雨を思う。轟音が静寂と一体になり、その大粒の滴を浴びながら。


 七月十二日


静々と降り続く雨の中に、燦々と照る太陽を思う。生きている只中に死を思い、苦悩の中に恍惚を思う。今まさに起こりつつある睡気に、十年以上も前の祖母の家が浮かんだ。仏間に寝そべり、銀色に翻る地面と、消えるのを待つクマゼミの声を思う。そうして、遠くのことを思う。過ぎ去ったものは平気でいまを覆い尽くそうと、あくまで穏やかに現れる。昨日の睡気は、実は十年前から来たのかもしれない。放散しきれない熱気にうなされながら、どこか喜悦の表情を浮かべる少年が、先祖の前で寝返りを打った。八月の半ば、一時を少しすぎた頃だったと、およそ記憶にも覚束ないことをなぜか確信のあるように彼女は自身のことを話した。私は、彼女が自身の過去のことを鮮明に憶えているとは、これまでつゆほども思ってはいなかった。誰かからの伝聞と空想を混ぜ込んだ物語が、彼女の中で記憶になっているのだと。けれども彼女は、あれは確かに私の祖母の家で、あの少女は、間違いなく私だった、といって聞かなかった。


 七月十三日


記憶か、その声音に思い出されたのは、なぜか鳥の群れだった。一時の静まりののち、私ごと宙へひらめかすような羽撃きが、記憶の中で高鳴った。その羽撃きの、やむかやまぬかの際に、照る日の白さに滲んで、蜩の声の鳴る記憶へと切り替わった。十歳の頃。夕の暮れかかった祖母の家の仏間から聞いた、あの蜩の声のような気がした。畳か、あるいは仏間そのものに染み付いた香の匂いが、忘れていたあるものを、突然思い出したかのように鼻に昇ってくる。いきなり、曽祖母が思い出された。曽祖母、といっても話したこともほとんどないはずだったけれど、滑らかな稜線のような背骨と、丸い毛玉のような姿を、あるいは妖怪だろうか、とあの頃の私は思っていた。彼女の亡くなったのはいつ頃だったか。おそらく、ちょうど十年前のことだったはずだ。茹るような夏の夕べだった。私は毎日、部屋の隅にただ座り込み続けていた。実際には、そんなことがあろうはずもなかった。私は高校に毎日通っていたし、部屋の風景、といっても風景と言えるほどのものはなかったけれど、その記憶も私にはなかった。けれど時々、そんな私を送ってきた時間が、過去のどこかにあったような、忘れている記憶が、実はあるかのような気にさせられる。今に現実になる……目の前に曽祖母が蘇るような、そのほとんど記憶にものぼらなかった声、白むような掠れた息と、乾ききった唇の動きさえも鮮明に映り迫ってくるような気がして、そのあまりの生々しさに、私は怖気を振った。


 七月十四日


蝉の声と、雲と、青空。ああ、今に静まるぞ……光に包まれるぞ。戦争も知らない私が、どうしてこんなことを思うのか。無雑作に林立する樹木の奥に、入道雲がグロテスクに見えはじめる。どこか遠い記憶のようになりかかる。あれはまだ幼い、二つか三つくらいの頃だろうか、両親に手を引かれて、私はどこか遠い島にあるひまわり畑の中に迷い込んだ。目の前の生々しい緑を前に、私はある獣のような興奮を覚えた。いつのまにか親の元を離れ走り回り、それに伴う苦痛に恍惚としていたのだろう、と今では思う。それから恍惚の跡絶えた瞬間、帳のような静まりが降りかかり、いきなり薄緑色の毛の生えた筋が幾本も宙に伸び、私を覆いつくそうと迫りかかってきた。それは幾千時間にも感じられた。その緑の皮膚から沁みる滴が、薄毛を飲み込みながら重力とともに垂れていく、その反射の中にいる私を見つめて過ごしたことも、ずっと前にあったような気さえした。普段のことと思っていたあの生活こそ、はざまの出来事だったのではないか、私は巡り、また戻ってきたのではないか、とも思わされた。けれど私はふたたび怯え、耳を凝らす。喧騒が聞こえはじめる。その後目も意思を取り戻しはじめる。動きを失ったひまわりの管と、土塊ばかりが目に映る。怯えのまま光のほうへ私は走った。ひまわりの中を抜け、さらに遠くへ。振り返るとそこには、あの風景があった。蝉は鳴いていたはずだった、人の喧騒も、辺りの種々のさわめきも、確かにそこには存在していた。けれどもそれらは、静まりの中に融けているらしい。一枚の絵のようにその風景は映った。ぎらぎらしたひまわりのかしらのひしめいているのが、浮き出たかと思えば途端に焦点がずれて、伸ばした手のひらが、瘤の膨らんだ雲に触れた。そしていきなり、母親の声が左上の方から降ってきた……

後に私は両親と片時も離れておらず、手すらも離してはいなかったらしいことを聞いた。ただその無雑作らしく整列するひまわりに相対したまま、見るか見ないかして立っていただけだったと、それもほんの数秒だった、と母は懐かしげに話していた。


 七月十五日


リズム、あるいは音律。拍子とは異なる、潤滑な脈動。私たちは音を基礎として、言葉も行動も興している。そしてそれらには質量がある。質量への憧憬が言葉と行動を興させる。例えば文字を書くとき、書き始めから書き終わりまでの間にある記憶の逡巡を思う。そこには重さがあり、生まれる文字に、吐息に、摩擦に、時間に、重さがあるのである。そして音律。喧騒の中で静まりを待っている。静まった後でも。今もなお。


 肌寒い夏、かさつく肘を軽くこする。土塊が思い出される。砂場の囲いに土塊を置く。じっと見つめる。明るい蔭の中にいた。その上を蟻が通る。所々に穴が空いている。湿った砂場である。少女が陽の下で私を呼ぶ。動物のように滑らかに腰を上げ、躓きかけた足をなお前に押し出して、少女を追った。白い地に潜りかかると、日差しが消えはじめた。少女はどこに行ったのだろう。不快の恍惚、あるいは恍惚の不快があった。熱と絶頂の只中、私は草むらの方へと走っていた。肌寒い夏、目の前の書きかけの駄文を見やった。熱はまだこもっている。


 七月十七日


言葉がなくとも、人々が分かり合える世の中になって久しい。私たちは最適化されたデバイス(その形体は人によって様々だけれど、私の場合は網膜に融合するレンズ)によって、最適化された世界を描き、当人も意識し得ない思考のようなものによって「対話」が行われる。身体同士のやり取りがそこにはある。言語では実現し得なかった直接的な交歓がある。みな言語というものを忘れてしまった。言語は文化ごと解体され、意思や情報は、直接脳に届けられるようになった。異なる文化や言語というものがあったのだと世界中で共有される歴史で、私たちは知っている。では言語とは一体何だったのだろう。ふと私は思う。煩わしいものだったのだろうか、齟齬というものが起こるのだろうか。その手間のかかるものを、必死で束ねてきた人々の心は一体どんなだろう。そうして私は、本という過去の遺物を探り始めた。検索をかけても、もうほとんど手に入らない。昔は自然と幽体を分けていたらしい。歴史情報から本を探して、その幽体を手に取る。そこにある。手に触れた感触もある、紙の鼻を撫ぜる匂いもする、擦れる音も、当然聞こえる。けれどこれは幽体なのだ。当たり前だ。物質を求める必要がない。分ける意味もなければ価値もない。ああ、こうして一人で考える時に、言語は必要なのかもしれない。現に私はこうして言葉を連ねている。日本語という。他にも言語は数多くあったらしい。話す機会も、必要もなかった。私がしてきたことといえば、ただただ歩くことくらい。それから草原に寝転んで雲を眺めている。もう一度検索した本を開いてみた。太陽が隠れて明るい暗さが広がる。いきなり睡気が降りてきて、私は本を落としかけた。幽体は一時保存されて消え去るはずだった。けれどそれはなぜか消えず、私の額をくしゃりと小突いた。暗闇の興奮がふと起こりかけた。本を取って頭を起こすと、夢から覚めたような身体の軋みを感じた。目の前を、グロテスクな夕日が沈みかけていた。


 七月十八日


 さて、別れは死だけではない。むしろ生きたままの別れの方が、余程多い。顔もはっきりと浮かばない彼女の、その曖昧な枠線だけが鮮明に映ることがある。私はいつ、彼女を見ていたのだろう。もはや遠く過ぎ去った記憶のように、切れ切れの断片になった静止画を、今更のように巡る。別れと共に記憶は鮮やかさを蘇らせるのか、この行先も持たない役立たずを、今に塗りたくってやりたい衝動に駆られかけたが、それ程ですらもなかった。それからそのことに半ば呆れ、半ば哀れみ、すでに重い睡気に組み伏せられている。意識の隅で、小虫が壁を這っている気がした。


 七月十九日

 

何かを含むというより、同一であるのかもしれない。赤であり青でもある。いつかの哲学者が話していた言葉を思い出す。同時か少し遅れてか、いや既にそこにあったものか、古びた厚本の匂いがたつ。本もまた物であり、匂いであり、記憶であり、幻想であるのかもしれない。有であり無である。生であり死である。全であり一である。私はいつの間にか白い壁を擦り歩く黒虫に変わっていた。そうだ、薄暗く黒い湿った温い栖へと今日も帰るのだ……


 七月二十日


終に殻を追われた

ふやけた半端な翅と

変態しかかった生の腹をもって

湿った枯葉に落ちかかる

滴の地面に触れる音が谺する


枯葉の上を歩く夢か

七日の命だという

生まれかかって死にかかる

溝の口に讃歌の降る

一音だけが尾を引いている

あの日から今もまだ鳴っている

始まりも終わりもなく


 七月二十一日


街の喧騒の中にいると、微かな一音が尾を引いて残ることがある。

 蝉しぐれの降る、御苑の中を歩いている最中、ひとつ、抜け殻を見つけた。久しく間近に眺めた記憶もなかった。手に取ってみると当たり前のことながら、軽い。背中の破れ目は乾燥しているのに、腹や目や口元の透けた薄毛は、今でも動き出しそうに滑らかに見える。今降りかかった静まりの中に、この抜け殻の主もいるのだろうか。主はすっかりここになおしがみついている彼を、忘れてしまっているらしい。いきなり方丈の中心で丸まり、胡座をかいている背中が浮かんだ。どうやら俗世を離れた修行僧らしい。坊主頭がくたびれて、痩せこけた首の白さが、暗がりの中で際立っている。そこでもやはり蝉は鳴いていた。今よりも少し先の、八月の盛りの頃だ。開けた扉から刺す光が室内を一層暗くした。蝉の声が遠くなった気がした。しがみつくのも辛かろう。どちらも同じことだったな。修行僧は背中越しにひとりつぶやいた。

 こうして御苑を歩くのも随分と久しぶりな気がしてきた。歩きながらものを思っていると、ひたすらに虚構を生み出し続ける淫らな輩のような心地になりかかったが、ではどうして人は物語を書いてきたのかと思えばおのずと、讃える歌に行き着くことになる。音が、最後の最後には残るものなのかもしれない。記憶は音と、それからにおいから起こってくるものらしい。今思い返してみても、どうしてあの音が聞こえたのか、蝉の落ちるその微かな音を、耳があざとく拾った。

 あれは昨年の、八月の終わり頃だったか、同じく御苑を歩いていた。日も暮れ方になりかかりそろそろ帰路に着こうかと大股に、苑の北側にある門へと歩きかかった。左耳だった。蝉の喧騒も、遠くに車の走る音もあったはずだったが、たしかに何かの落ちる音がした。果実などではない。生き物の落ちる音だと分かった。生命の酸いにおいが強まっていた。ふらふらと左隅に走る側溝へ近づくと、なにともわからない、かたちの定まらない生物がいた。頭部はどうやら蝉のようだったが、翅はない。腹部は頭部に対してあまりに弱々しく萎れている。上を見上げると抜け殻が、葉の裏になおしがみついている。こちらの方がよほど健康にみえた。よろよろと枯葉の中を這っている。生まれて間もなく死にかかっている。実のところ死にかかっているのは、私なのではなかったか、という疑問が浮かびかけたが、呆れた空想と苦笑した。先程見た抜け殻の主も、今に死にかかっているのだろうか。ならば抜け殻とはいったい何か。鳴かずにしまうを如何とするか。下手なことを考えているうちに、暮色が濃くなってきていた。なお這いずる艶かしい生物を横目に残しながら、北門へ向かう。


終に殻を追われた

ふやけた半端な翅と

変態しかかった生の腹をもって

湿った枯葉に落ちかかる

滴の地面に触れる音が谺する


枯葉の上を歩く夢か

七日の命だという

生まれかかって死にかかる

溝の口に讃歌の降る

一音だけが尾を引いている

あの日から今もまだ鳴っている

始まりも終わりもなく


 いつの間にか、耳裏を蚊に刺されていた。掻きながら、やがて響き始めた喧騒の音を、さも懐かしげに聞いている。鳴きもせずに溝を這っている、あれはどうやら彼らしい。微かに、枯葉の音が蘇り、消えた。


 七月二十三日


逸れてしまった意識を辿り

重みを得てにおいは立つ

虚構に暮れてはいけない

現実に耽ってはいけない

堪えなくてはいけない

振れない間の破れ目

そこに神はいない

黒い河のようなものらしい

しかしそれともまた言えない

生ではなく死でもない

あるわけでもなくないわけでもない

どこかで聞いた文句の浮かぶ

法師の泡沫さえ消えかかる際

水馬の波はまた連なりはじめる


 七月二十四日


毘沙門天が、京に睨みを利かしている。ほの暗い秘堂は、木像にいくらか湿っている。その東の隅に目をやると、観音は立っていた。はじめは女に見えた。笑っているのか。男が今にも戦に走り出しそうに宝鉾を、湿った掌で握り直しているのを、やはり笑みを含んだような顔で、少しうつむき気味に、滑らかに静かに立っている。私も気づけばうつむきかけ、入り込んできた足の指をそのまましばらく眺めていた。赤子の足だった。遠くの民家に火の爆ぜる音が聞こえかかって顔を上げると、観音は変わることなく口をつぐんでいた。あたりは蝉の帷に溶け始めていた。


 七月二十五日


笑ってやってください。そして最後に泣いてください。彼女の言葉をふと思い出すといきなり、白く床に臥す人の姿を思い起こした。私だろうと思ったが、どうやら違うらしい。私は部屋の西隅の上方から彼女を見ていた。時はむしろ過去のように映った。朝ぼこりが畳から浮き上がって辺りを柔んでいる。笑うことをしなくなってから、どうにも人との付き合い方が分からなくなったような気がする。馬鹿にする人がいなくなったという憐れなことになっていたのに、今更ながら気づきかけたか。などとまた浮浪者の戯言のようなことを呟いたか、あるいは思っただけだったか、不確かに、私は彼女の待つ病室へと歩いていた。もうここに通い始めてから半年が過ぎていた。昼下がり、茹だる熱気も感じない閉じられた室内で、蝉の声が聞こえた気がした。どこか、昔聞いた読経に似ていた。


 七月二十六日


栖から這い出ると、その空の広さに恐れおののいた。そんな獣が、昔の物語にいやしなかったか。中空の白の破れ目が、戦前には見られなかったと知った時には、ああ人間よ、なんと淫らな業であることかと目が眩む気を味わったものだ。いや、そんなことはいい。ただ日の長くなってきた夏の夕べに残る熱を、空調の整った部屋から這い出してきて浴びた心地よい気疎さを、私はここに連ねてみるのである。この背を曲げたように丸い生き物の腹底で私は恣意に、しかしまた不意に、終わりを知らない流れに抱きとられながら、楽天を、そして軽みを、解体しようと試みる。


 七月二十八日


明みは眼を盲くさせ、昏みは瞳を開かせる。二項対立の解体から歩を進めて、あるいは退いて、それらの正と負の解体を試みたという話を考えかけたが、ここに正と負という二項を用いていることにすでに私という書き手の程が知れていることだろう。つまりはこういうことである。死と生、夜と朝、闇と光。人類に流れる快いものと快からざるもの。ところで、日本語の負を表す言葉は、どれほど残されているのだろうか。正でないものが、そのまま負であるものになってしまってはいないか。正の背後にはより強く負を感じるという。では負自体を見つめてみるのはどうかと言いかけて、しかしそれでは飲み込まれやしないかと慄いた。凝りをどうにか解いてみようと、溺れながら絶え絶えに、虚と現を並べ、茶を啜っては鍵を打ち、その音の流れにまた呑まれ、食われ、夏の夜の熱に魘されながら、しかしと茶を飲み干し、目的を忘れ、意味を忘れ、場所も、時間も忘れた頃、隣の寺からおういと、痩せてはいるが少年の眼をした老人がひとり、間伸びした声を上げるのが聞こえてきた。不快な朝が白みはじめた。


 七月二十九日


目の前で腹が鳴ると、しばらくしてわれとわが腹も感応したように鳴る。それがしばし繰り返される。夏の、夕立の気配に似ていた。黒々と層を重ねる中空を思いながら、さて腹が鳴った。これは一体、誰の腹の音だろうか。わたしか、あなたか、あるいは……この空間の中に鳴っている腹の共振れは、二人の間の静まりを見せる。恥を覆い隠すように、しかしそれは薄い膜を身に纏うようなもので、むしろその恥を浮き立たせている。やはりここには、ダイナミクスとやらがあるらしい。放り投げられた裸体ともいうが、あまりに淫らだ。


 七月三十日


ジャコメッティの『竿の上の男の頭部』の説明書きに「あえぐように口を開けながら上を向く顔は苦痛の叫びをあげているかのように見え」るとある。しかしこの男、笑っていやしないか。戦後に作られたこの作品は、生の危うさや不安を映し出しているらしい、しかしこの男の、楽天を見るのは間違いだろうか。苦痛と恍惚は重なり合うということだろうか。考えれば、笑いは苦痛であるということか。一人の罪人をこそ、救いの対象であるとした説話が、日本のどこかになかったか。他力本願の果てに、その罪人は笑っていただろうか。しかしその笑いとは、高笑いか、あるいはうつむきがちな、後ろを振り返りながらうめくような、病人の笑いか。笑いの果てに狂気があるなら、常々笑いを是とする我々は、死とともに狂いに向かっているということか。「そこら辺は分からんわ」彼女の声がして本から眼を上げると、向かいから本を覗き込んでいた。エアコンの音と冷気が一度に渡りはじめ、夕暮れのくるのを窓の外に見た。


 耳が飛んでいる。静まりの中を。目の前をハンガーの落ちていくのを、じっと見ていた。その時、蝉しぐれは蔭の中に降り注ぎ、日傘の中に、彼女の顔を窺っている。死ぬ時はこんな風かもしれない。柔らかな、破裂を待つ時間があるらしい。そう呟いたかいなか、窓を見ると空は紅く、天狗の山は白んでいた。盆が近づいてきていた。耳が飛ぶと考えはじめたのは、それから数秒後のことだった。数千の耳が歪に、全体を折って開いてしながら、澄んだ空を飛んでいるのは、いかにも奇怪な妄想にしか思われないが、しかしながらこめかみの傍に居座る耳も、よく見ればたいそう奇怪だった。確か入り組んだ海岸のようではなかったか。そう思いながら耳に手をやると、冷たい滑らかな痼に、自分のものとは思われぬ気がした。落ちたハンガーを拾いにかかると、この木製の、服をかけるために作られたものとわが耳とが等しく、朽ちざるを得ないのをじっと堪えているように、葉蔭に這い上がった蝉が、背の割れるのを苦痛とともに堪えるように、木屑が風に流され、いずれ耳垢になることもあるものだ、と既に色褪せたようなことを巡らせていると、遠くの木陰で蝉が一匹、ジジと鳴いたのを聞いた。それから、私は、あの日に戻っていく————

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