五月二十七日


街灯の灯りもない畦道で、蛙の群れが無造作に飛び跳ねています。雨降りのように、耳中を動きまわっていました。それはとても不規則で、じっと動かないでいた蛙が、突然跳ねはじめたり、ペタペタを跳ね続けていた蛙が、息を潜めたりします。わたしはどうしたものか、足先をぴくぴくと、小刻みに動かしていました。疲れているのかしら。左の眉が歪んで、眉間には硬い皺が寄っていました。視界の外でも蛙の跳ねているのが分かって、そのことが余計に、わたしの呼吸を浅くしました。それから、口元に出来たばかりのにきびのあるのに、わたしはようやく気がついたのでした。


 五月二十八日


雨が降ると、そこにあったはずの山が、きれいさっぱり見えなくなる。山は今もそこにあるはずなのに、わたしのいる場所からは、何一つ見えなかった。雫の滴る草葉も、潤んだ腐葉土も、いつもの彼女の姿も。隠したのは、一体誰なのでしょう。このじめっぽい夏の霧でしょうか、それとも、わたしのくすんだ瞳でしょうか。


 五月二十九日


昔々に嗅いだような、懐かしいにおいを辿ってみてください。わたしは雫の滴る草葉のにおいと、潤んだ腐葉土のにおいの跡を追いかけます。そっと目を閉じて雨空の中を飛んでゆき、山の、まばらに生えた雑木を避けながら、疲れのしらない脚で全速力に駆けていくのです。次第に、息が弾んで、胸が、痛くなってきました。視界がぼやけて、目の奥の、その、また奥の方に、意識の集まるのを感じます。頭は動いていないのに、わたしの意識はますます冴えていくのに、顫えるほどの快感を、わたしは味わうのでした。あなたは、いかがでしょうか。人目も憚らず、何の意味もなく走り回ったのはいつ以来だったでしょう。あなたとの交わりとは、このようなものなのかしら、とわたしはまだ感じたことのない快感に、とろりと思いを馳せるのでした。


 五月三十日


どれも正しくはなく、どれも間違いではない。あなたと肌を添わせた夜に、ようやくわたしは生まれたのでした。いつの世も、欲には罪が付き纏い、愛には死が同衾する。ああ純粋に、なんの打算もなく、意識が吹き飛ぶほどの鼓動を重ねるあなたは、今どこで何をしているのかしら。わたしはあの日から、降り続いた雨の打つ音を聞いているよ。


 五月三十一日


部屋の隅で喪服に着替える彼女の背中を彼はぬめりと観察する。無数に生えた産毛と、輪郭という輪郭のない茶黒いしみ、それから黒ずんだ毛穴が彼の視界に色を与えた。総毛立つ感覚を覚えながらも、決して他にはない、ただならぬ魅惑を感じたのは、これが初めてではないと思った。一体いつからだったろう。いやもしくは、この朽ちゆく人間の腐敗の臭いが、彼の喉奥から噴き出すような情欲を掻き立てるのだろうか。ただ今の彼には、そんなことはどちらでもよかった。彼女の背中から湧き立つそのすべてが、彼の脳髄を顫わせた。


 六月一日


とす、とす、とす、そして濡れ髪

狂おしさと鉈の鼓動が

今を消し去って

すべてを詰め込んでいく

鼓膜を内から鳴らすのは

あなたの欲の臓

平静のために締め殺した赤子から

あなたはその瑞々しき手を離す 


 六月二日


わたしはくだらない

わたしは落ちていかない

今いる場所が谷か崖か

ときどき分からなくなってしまう

ただとどまったままの

くだらないわたしはそこにいる

くだったほうがいいのかしらん

くだれば幸せになれるのかしらん

どうしてくだらなくてはいけないの

くだりたいなら勝手にしてよ 


 えりは、どんな人だったろうか。もう既に、彼女を忘れている。何を覚えていられるというのか。何を語れるというのか。彼女の目か、耳か、それとも髪か、腕か、その雰囲気か。忘れた。えりはいつも過去の人であり、思い出した彼女もまた、いつか死んだままの彼女だった。なら私は、えりを書かないほうがよかったのかしら。沈黙のまま眠っていた彼女を、その墓穴から掘り返し、腕を捥いで踊らせただけだったのかしら。もう、分からない。


 六月三日


落ちてゆくものよ


昏い昏い沼の底まで

息もできずに朽ちてゆくものよ

やつれていくあなたの顔

とろけるように眺めていたけれど

しばらくでやめて立ち上がり

ゆるゆるとわたしはキッチンへ向かう


落ちてゆくものよ


明い明い陽の奥まで

声も出せずに朽ちていくものよ

だからわたしはあなたなんてきらい

いつになってもあなたになれないわ 


 六月四日


触れるということ。薄い布地からふくらむしこりを上からつるりと撫ぜる。ここにたべたものが入っている。ぬくみがある。触れさせられている。いつか節だった左手が半球に沿ってぬるぬると動く。ぬくみ。彼女の意識が掌から腕に這い上がってくる。てらてらしたかえるの卵を想像して怖気をふるったのを、それと気づかれぬように、私はそっと手を離した。


 六月五日


みどり色のガラスに透けた光が、部屋の床にぶつかって溶けて出している。私は起きがけの身体に水道水を含ませて、台所からペティナイフと小さなまな板を取り出した。今朝は甘夏を食べよう。甘夏は食べるのがむずかしい。みかんなんかより余程むずかしい。まず上下をある程度厚みをもって切り落とす。それから白いわたの縁を斜めに切り落とすのを、八方で繰り返す。裏返して同じことをする。その時に果汁が飛び散って目に入る。これがひどく滲みる。すでに酸いと分かる。縁取りが終わったら半分に切る。あとは薄皮を捲るようにしてむしゃむしゃ食べる。甘夏は酸いくて好い。唇が麻酔後のようにふくれている気がする。卓の上にある切り落とされた甘夏色の山を眺める。がわのなんと厚いことかしらと、私はその果実の食べる手間を笑った。それからすぐに立ち上がり、散らかった甘夏の皮を、ささとごみ箱に捨てた。


 六月六日


器としてのわたし

楽器としてのわたし

死のにおいを響かせて

わたしは軋みを増していく


死んでいる

死んでいる


わたしの時間は

平たくのびている


死んでいる

死んでいる


あなたによって甦る

わたしは息を吹き返す


死んでいる

死んでいる


それがわたし

いまのわたし 


 六月七日


あのとき食べた米の味を忘れた

いつか聞く鳥の声も忘れた

いま撫ぜている脹脛の硬さも

たちまち忘れかけている

こんなに何もかも忘れていく

わたしは生きているのかしら

かつ消えかつ結びて

わたしは水面に溶けてゆく

死者の言葉を語り

わたしは息を吹き返す 


 六月九日


しんでいく

しんでいく


ぼくはいつもしんでいく


きのうもすでにしんでいたし

きょうもぼくはしんでいく

あしたもおなじにしんでいく


しんでいくっていうのはきっと

いきていくっていうことなのだ 


 六月十日


わたしのこえはふるえてる

わたしのこえはまがってる


わたしのこえはあなたをふるわせ

わたしのこえはあなたをゆがめる


きずつかぬようにこわばれば

あなたのゆびはおどり


ふるえたゆびをちかづけると

あなたはそっとくちずさむ


わたしのこえはふるえてばかり

ふるえはあなたをなみにのせて

ちかくとおくへはこんでくれる


わかっているの

わたしはなにもきずつけられない


もううんざりだっておもったって

わたしはかわらずわたしのまんま

このよはいつでもわたしのまんま


ああわたしのこえよ棘よ

あなたをふるわせだきしめん 


 六月十一日


死の予感

つもらない雪

春のぬかるみ

あるきにくいな


このよに身を投げても

なかまにははいれないし

くるってないてさけんでも

このよをみてるのはわたしなんだ


このよをまるごとつくりなおそう

わたしのなかにあなたをつくろう

きっとまだ道はあるのだと


 六月十二日


何かがはずれれば一時にふれてしまいそうな、ひそかなあやうさが彼女の周りに潜んでいた。彼女のあやうさをつくりだしているのは、おそらくわたしだと気づいていた。夜、シャワーを浴びながら、わたしは、彼女の狂いゆくのを、どこまでも見届けると覚悟したように、腕を組み静かに一塊を見つめる、自身の背中を、その背後からまた、見つめているのである。わたしは、何度も、繰り返している。


 粘りを帯びた日常を繰る。何度も繰る。あなたの狂気とわたしの理性が共振れて、一時に崩れ込んでいく、あのあやうさを抱えている。けれどもまた、日々を繰り返す。コーヒーを淹れる。何度も、淹れる。わたしは一日を繰っている。

 街を歩くと、その喧騒の角に、沈黙を待っている。蝉の鳴き声の中に、静まりが落ちてくる。振れては静まり、また何度も繰る。この世にはいないというあなたが、まだここで音を奏でている。その音律を響かせている。リズムがあり、わたしはあなたに振れて、振られている。死んでいたのはわたしのほうで、いま息を吹き返したのではないかと訝るほどに、あなたの言葉はいまを垣間見せる。ややもすれば曇ってしまう愚かなわたしのまなこを、あなたはどうして導いてくれる。


 六月十四日


あの世からこの世を眺めている。この世の明さと騒音に、あの世が静まっていく。四千年前の人と二千年前の人と、千年前の人と、百年前の人と数年前の人と、それから現在の人が混じり合う。混じり合いひしめいている。過去の現在は未来と重なり、彼らはひとところで混じり合うが、決して溶け合わない。あの世の声が聞こえる。はっきりと確かな感触で降りてくる。時おりこの世からくぐもった声が聞こえるけれど、あの世に響いてはこない。薄膜の、隔ても隔てられもしない境がある。愚鈍なわたしはあの世にできる限りいたいと祈る。あの静まりのはじまりはどこかと、今更ながらわたしは思う。あなたがいるのがあの世なのか、わたしがいるのがあの世なのか、ついにわたしは分からなくなった。読みかけの本を閉じ、喫茶店を出た。暮れかかった夕空に照る信号の光がちらちらする。目のこごりに、耳の傾きがまたひどくなる。連なる車の騒音が途切れるのを、わたしは横断歩道の前で、じっと待っていた。


 六月十五日


痕を残したような熱さと柔らかな冷さの境に迷い込んだ。どちらからやってきたのだったか、これからどちらへ向かうのだったか。昼下がりの仄暗さは、頽れそうな快さを運んで、かつてからこの場所にいたような心地にさせる。それとも私は、元々ここにいたのだったか。やっとの思いで帰ってきたような気にもなる。辺りを見回すと、死んで生きている人たちが宙に浮かんでいる。喧騒が響いているのに、今更耳を傾けた。百年前の現在で、八百年前の物語が踊っている。隅の方で静かに茶を啜っている壮年の男がいる。座り机の前でただ静々と茶を啜っている。私は首をもたげてその光景を眺め、ここはあの世かしらと内心微笑みながら、店主に怪しまれないように渋面をさげて堪えていたと、あの頃は思っていた。

 古本の迫るような本棚を眺めていると、山崖の地肌と途切れ途切れに重なる。あれは数年前の夏、兵庫の田舎の山の中でのことだ。何の見栄えもしない一本の木の前に立っていた、と思う。過去はなんと確定しがたいものだろうか。これは私の記憶だろうかと、心底疑う気を起こすことがある。そんな人のいるのを知っている。その度に私は、私の過去を思い彷徨うのだけれど、これも作り話かと、疑いながら生きていくのは難儀なものだと、早々に手放したものだった。そんな過去の出来事も、ひと所に混じりあって、私を使い外へ飛び出そうとするのである。

 一時にとりどりの喧騒が霧散した。山の静まりが降ってくる。全身が崩れそうになる。膝が腐葉土に落ちかかるのを、こわばらせることでなんとか耐えていた。静まりには常に重さがあった。私はその重さを確かな感触で味わっていた。しっとりとした痛みに似ていた。はじめに強張り、そして雪崩れる。どうしてあの場で立っていられたか、普段の生活に戻った今になって強く思う。あれは過去のことだったのだろうか。それとも現在のことなのだろうか。あるいはこれから起こるかもしれない、未来のことなのだろうか。整理されているのか、乱雑に積まれているのか判然としない本棚の中の死者の喧騒が静まった頃、私はじりつくコンクリートの反射した光に目をやり、あの世かこの世かあるいはその間かへ黙ったまま翻り、歩を進めた。


 六月十六日


十八、九歳の青年が、私の背中についてくる。夕暮れ時だった。その日から今もなお、私は静かに歩き続けていたことを思い出した。高々と揚げられた、この街の名前の入った看板をくぐる。以前よりひどく廃れた商店街の隅を、どこへ向かっているのかも決めかねて歩いている。西日が終の灯りを迸らせた。街灯が闇を恐れるように空を支えている。私は歩いた。歩を何度も何度も繰り返し前に出しては、商店街の終を待っていた。終の看板はどこにも見当たらない。

 名前も知らないその青年は、「特別になりたいのかもしれない」と言った気がした。「どうして特別になりたいのか」「どうしてかわからない」青年は考えている風のまま、商店街の角の長椅子に座り込んだ。私はそんな妄想を起こしかけた。青年は今も私の背を、じっとりとした足取りでついてきている。あの頃はたしかにそんなことがあったと私は思いふけりながら、特別の興味もないように、また終の看板を探しはじめた。青年は音楽を流しながら、今も長椅子に座り込んでいるらしい。そのもたれかかった背に見覚えがある気がした。ふやけたような緩い背中が醜く丸まっている。私は一体、何の話をしているのだろう。思い出してもやはり見も知らぬ青年だ。まして私の過去とは関係あるはずもない。けれど確かに見たことのある背中だった。あの背中は、決して過去のものではない。青年は今もなお座り続けている。ずっと前から座っているような気がする。この既視感は何なのだろうか。私はそれから無事に、青年のことを忘れていた。あれから六年経ったはずだ。私は京都の、安いボロアパートの一室にもぐり込んでいた。あの商店街はあれからどうなったのか、私は、何も知らない。


 六月十七日


何とはなしに鞄からルーズリーフを取り出した。それから私は、今目の前にあるものを書こうとした。たとえば目の前に白い壁がある。その縦横に拡がる白をしばらく眺めていると、今まで見当たらなかった罅が浮きでてくる。黒ではない、灰というほど優しくもない色の罅が、四方にはしる。ほんの数十年前のことだ。土木師によって塗りたくられた薄明い白はかつちりに撫ぜられ、かつ人垢になぶられ、私の前にいきなりあらわれた。はて、私は目の前のものを書いていたはずであった。たとえば、目の前にある紙を見る。烈しい白に活字がすました顔で並んでいる。『新古今和歌集』の文字が目に入る。

  

  春の夜の夢の浮橋とだえして峯にわかるる横雲の空

 

 およそ八百年前に詠んだ歌を、こそりと誦じてみるものの、あの頃の思いがそのまま蘇ることはなかった。過去が現在と重なり、すでにまったく異う過去を思っている。そしてまた過去を書き始めている。過去という未来を現在思っていた、とでも言えばいいのだろうか。すでに思われたことを今思い、思いおえた。せき立てるような過去を私はまた現在へ押しやる。けれども現在はすでに見当たらない。

 一体何を考えていたのだったか。過去を、書くという過去を含んだ営為の中であらわす間に、また記憶のない無事な現在が過去に喰われながら、けれども確かに色を、音を混じらせながら見えない罅の中に融けていくのであった。

 罅の中に融けていくとは、時間を罅の中に、いや罅そのものとすることであろうか。罅は私にとって過去であり、やがて訪れる未来であり、そしてまさに崩れていく現在である。目の前にあるのは、真っ白な壁であり、また真っ新な更地であり、死んでいく罅である。これらは文字通り重なっている。私はその間を、際を行き来する。駆け跳ねる馬のように無邪気な、七歳の少年が横を通り過ぎていく。彼の背は少年そのものであったけれど、同時に青年の気怠さを含んだ猫背でもあり、まだ知らぬはずの、痛みに快く頽れる壮年の背でもあった。少年が振り返ることはなかった。夕日の電線にかかる、商店街の端を、なお余る漲りを放散するように消えていった。

 目の前にあるこの罅は、その入り口なのだろう。求めよ、さらば与えられん。声の振るとともに、私は一時、あるいは何千年の間、あの時通り過ぎていった少年と出会っていた。それはすでに起こったことで、過去だった。でなければここに書くこともできはしない。けれども私はしっとりと、少年の息を背に浴びている。現在の私の背がひんやりとした気がした。あれは四年前、梅雨の明けたと周囲の人が口にした頃、しぶとい夏のはじまった時だったか。

 

 肩甲骨の下の痛みか、あるいは心臓の裏の痛みだろうか。意地の悪い顔を覗かせている、と感じることが昔からよくあった。そのせいか、その度に息が詰まる気がして、不快な感触の記憶が張り付いている。冷い顫えが肌をはしった。危機のそこまで迫っているような、あるいは雷雲が、その抱え込んだ光の降らすのをじいっと待っているような、その際に、いる。私はその頃、京都のボロアパートの四角に区切られた部屋に住んでいた。日がな一日机の前に座っていた。何をするでもないその背中を、私はなぜか見つめている。私の記憶を思い起こしているはずなのに、どうしてその背ばかりが思い出されるのか。これは一体誰の記憶なのだろうと、訝る私もまた、過去に飛ばされた、ある人間の一人だった。過去と未来は一時に現在を呑み込む、ただ、消化はしない。


 六月十九日


 記憶の片隅にも上らない片田舎のバスに揺られて、運転席の真後ろでさも目的ありげに、窓縁に肘つき黙りこんで外を眺めている。まだ夕刻にもならない時間であった気がする。ただ勢いの止まぬ雨煙のためか、ひやりとした仄暗さが漂っていた。私の他にも乗客のいた、気もする。振り返って彼らの顔なりを見ることもできたはずなのけれど、私の身体は動かない。じいっと窓の外を見ている姿勢には、どこか遠くへ向かう旅人の風が纏わりついていた。時おりバスは古びた停車場に止まる。辺りには緑と、迫ってくるように背を広げる山の見えるのみである。が、一人や二人は支度の音を立てはじめ、しばらくすると私の横を通り過ぎ、雨の中を迷いもなさげにバスを降りると、バスとは反対の方へと歩いていく。

 また雨足が強まってきた。私は突然、すぐ降りなければならない、という気に陥りかけた。私はこのバスの行方が、急に心底気に掛かって、「このバスは街の方へ向かいますかね」と、目の前で、ハンドルを小刻みに動かす運転手の背に話しかけた。「分かりません」と息つく間もなく、銅板のような平たい声が、その背の裏から返ってきた。私は声の反響を聞きもせずに、すぐさま、椅子の隅に置いていたサンドイッチを夢中で頬張った。早く降りなければならない、身元のはっきりとしない不安が、私の口を余計に膨らませた。水溜まりから跳ねる飛沫の音が、耳元で鳴る。するとだんだんと、降りなければならない不安よりも、降りてしまった後の恐怖に身を竦ませるように、頬張った口顎の動きは鈍くなり、私の眼は居場所の定まらない虚になりかけた。ちょうどその時、バスの停車音が鳴り、一人の乗客の降りる音が聞こえはじめた。気づけば私は、傘の上に雨音を響かせながら、バスの遠くへ去っていくのを眺めて立っていた。目の前には田が広がり、雨だか霧だか分からない白煙が、夕暮れ前のまだ明るい中空に籠っていた。四方を見渡してみるけれど、どこへ向かえばいいのか、全く分からなかった。

 あの雨の音が、ビニールと草葉を叩き、沈黙を降らせるあの音が、夢の中の出来事か、いつかの記憶の断片か曖昧なまま怪しげに甦ってきて、私は窓縁に肘つきながら、今日が何日だったかを、訝りはじめた。


 六月二十日


深く、深く、静まっていく。深海は、恐ろしさと同時に綻びを、安らぎと同時に緊張を齎すものだった。この静まりを感じたのはいつだったかしらと、あの頃の私は視線を宙に浮かせながらまどろんでいたらしい。

記憶は他者と混じり合い、私のものだけではない、より大きな過去になると、私は思っていた。二歳くらいの、まだ少女ともつかない幼い子どもが私の目の前を走っていく。持て余した内の力を迸らせている。

さらに赤子に重なる死の顔が浮かび上がってきた。生は同時に死を引き連れてくる。この赤子はきっと、この顔で死ぬのだろうと、なぜか私は思ったものだった。


 六月二十一日


祖母の家の机の引き出し、二米四方はあろうかという大きな机である、その側面につけられた引き出しを覗いた。とりどりの写真が目に入る。無造作に、しかしながらある静かさを含んだその写真たちを、私は一枚一枚取りだしていった。最近は現像された写真を見ることも少なくなったな、思いかけて、ほんの数年前であれば、カメラで撮った写真は、そのまま写真屋かなんかで現像していたような気がしてきた。確かに私の手元の写真には、二〇〇八年の私が写っていた。いちどきに、過去のようなある記憶が巡りめぐった。けれど、どれだけ記憶をめくってみても、今目の前に写っているこの私が、私と同じ人物であるという確信がもてなかった。私は次々と、写真を重ねていった。


 六月二十二日


(現像した写真はいい。物理的に過去をそのまた過去に混ぜ込むことができる。)

鮮やかに彩色された、ある家族写真の上に、日を浴びて褪せかけた一枚の写真を乗せた。当時二歳の私の上に、二十七歳の未婚の母がそっと乗せられる。過去はきちんと並んではいない、ということに今更ながら気がついて、私はその過去の曖昧さに、底知れない不安を浮かべかけた。それから目の前に盛り重ねた写真の束をさっとひとまとめにして、記憶の中で綺麗にまとまらないうちに、引き出しの中にしまい込んだ。


 六月二十三日


深く、深く、静まっていくの。海は、恐ろしさと同時に綻びを、安らぎと同時に緊張を齎すものだと、ある人が言った。そんな静まりを感じたのは、いつだったかしらと、あの頃の彼女は、視線を宙に浮かせながらまどろんでいたらしい。倒れ込んでしまいたくないのよ。倒れ込んで眠っているのも、倒れていたのも忘れて燥いでいるのも同じことよ。そう言いながら彼女は、深い深い真空の中へ落ちていく様子で座り込んでいた。沈みこむ彼女の肩を彼は、しかたのないことだと、黙ったまま眺めやっていたものだった。それが今、つい今し方まで同じことを繰り返していた彼女は、さも何事も無かったかのように、過去のことを話している。まるで別の誰かの噂話を、冷ややかな目で眺めるような、そんな遠い固さがあった。彼女は急に立ち上がると、彼の方も見ず、何か急ぎの用のある人のような早足でその場を去った。遠ざかっていく彼女の背をぼうと眺めながら、彼には彼女がもう見えなくなるような気がした。いやそれどころか、もうすでに彼女が消えてしまったような錯覚に、彼は陥りかけた。


 六月二十四日


木蔭の内から、ちょうど空の方を覗いていた時だった。蔭と空の境がうねうねと揺さぶられている。空はその端でさえ、陽の光を含んで遍く輝き、温い目蓋はなすすべなく沈んでしまうという。その輝きはあまりに自然であった。その中を、彼女はよろめきながら、けれど視線は決して私から外れることなく近づいてきている。彼女は半ば閉じかけた二つの唇を微かに歪めて笑いながら、「私は全部分かってるわよ」と腰を後ろへ退げかけた。そしてその場に留まろうするように、身体を小さくこごめて固まった。私は彼女の姿に苛立ちかけた気がした。そしていつの間にかしっとり睨めつけられた目を逸らし、宙を曖昧に見つめた。ある静かさの中に、ただ一人埋もれていこうとする彼女を肌に感じ取った気がして、私は木蔭の外へ彼女の手を取ろうとした。けれどそれもまた錯覚でしかなく、私は出しかけた手を止めて、今にも消えそうな彼女の姿を、逃すまいとスマホを構えた。


 あなたは、何も知らない。それは途切れ途切れの、断続した記憶ではなくて、一度きりの私を、その一人ひとりを必死で束ねた記憶のまとまり。それをあなたは狂気と言う。彼女の凝縮した重みが、匂いとともにふくらみ始めていた。私はあの頃の彼女が、消えては浮かぶ曖昧な陰であったような気がした。しかしそれも一時に消えてとらえられずに、忘れてしまった。私は、何も知らない。


 六月二十六日


初めてあなたの名前を聞いた時、まったく知らない人の感じがしたの。けれどそのあと字面を見た時、あなたがさらさらと紙ナプキンに黒いインクを添わせて、みるみる文字が浮かんできた時に、ああ、あの人だってすぐに分かったの。私、あなたのこと音で憶えてなかったのね。彼女はそう言って、いつか何もかも曖昧にして漂わせてしまった私を、懐かしむように、戯れるように弄んでいた。


 六月二十七日


言葉が荒みかかっている。もう止めることもできなさそう。言葉に欺瞞がこびりついている。どうやら根が分からなくなってきたみたい。私は浮き上がって、下を見るのを忘れてある場所まできていた。妄想でも、安心がどこかに落ちていた。今ちょうど、崩れかけの積木が足下でぐらぐら揺れている。土地勘のない見知らぬ土地に彷徨う不安がぬめりこんでくる。この落ちていく感覚を、ありのままに味わうことができるのは、私たちだけなのかもしれない。あなたに伝えることができるのも、私たちだけなのかもしれない、と思いこんだ。これから生まれるあなたへの波打つ襞のうねりと、痺れるような小さな振えを感じている。落ちる落ちる、その境に、落ちかかっている。もう、そこまできている。大きな波が、そこまできている。腹の底で地響きのなるのを聞いた。あなたの声が、それから聞こえてきた。ああ、音は遅れて聞こえてくるのだ。私は、カラカラの喉を鳴らして笑いかけた。音の聞こえる前に口を閉じたけれど、笑いはその場に残ったように。漂い遊んでいる気がした。


 六月二十八日


何が起こることはすでに決まっていて、その残滓が今、見えているのではないか。これから起こることの名残が、この夕焼けであり、靄の中の白光なのではないか。この黒々とした赫を、私はこの生の最後に見るのだという気になりかけた。私は、もう死にかけているところなのではないか。その淵に、境に、際にいるのではないか。そんな妄言を、断片を束ね漂わせている。


 六月二十九日


死んだことに気づかずに生きている。終わったことにも気づかずに鳴る雷のように。瞬間の突き抜ける光ののち、のそのそと鳴る雷のように。私は今もまだ、死んだことに気づかずに生きているのではないかしら。光をのらりくらりと追いかける音のように、死んでいる身体を追いかける声そのものなのではないかしら。私は、いちどきに死ぬ瞬間に掻き込まれて、おしまい、綴じられるのではないかしら。稲光ののちに、遠く音の鳴るのを、気づけば耳を傾けて聞こうとするように、死んでいる私は、最後に私の声を聞こうと、待ち望んでいるのではないかしら。その一瞬の破片の、産声の上がりかかった最中に、その際に、この文字を書き込んでいるのかもしれないと空想を働かせると、思いに浮かぶ、ひとところにぎゅうぎゅうに詰め込まれた私の姿が、その顔があまりに滑稽で、よく生きているものだと笑ったのでした。


 どれもこれも、死に床へ至るひとときの出来事のように、ひらかれた時間が収束してゆく。その際を私はひたひたと歩いている。あの日の私のみる夢、いや記憶を繰り返しているのである。二十六の私は、十にも満たない幼い少女の手を引き、丸い背の老女を眺めやっている。私は朦朧としかかる意識の中で、そんなことを思い出していた。ああ、これは往生。生は、死の前口上なのではないか。緞帳の上がる音が聞こえる。まばゆい光の照る舞台で、私は、結局私になれなかった。

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