五月七日


ねっとりと濃い雨のにおいと、艶のある葉の表皮を晒しながら、萌葱の色を広げていた山々が、べたつく緑に雪崩れていく。いつからかこめかみに生温い汗が吹き出ていることに彼女が気付いた直後、重たるい睡気が脳みそにへばりついた。彼女は急いで部屋を出た。目の前の小道を少し歩くと大通りが延べてある。粘り気のある生臭い青のにおいが彼女の鼻をついた。


 五月八日


彼女の身体は瞼を閉じたまま、まだ張りの残る左の肩甲骨を中心にして、静かさを保ったまま横たわっている。もうすぐ日付が変わる。睡気はあるのに、むしろ冴えかえっていく身体の気怠さながら、最後に話すのはあなたがいい、彼は白飛びした画面に文字を起こした。それが声になることはない。大切な言葉はみな、厚さ8.1mmの箱の中に丁寧にしまってゆく。口端と頬の間に伸びた緊張で、随分と気色の悪い顔になっている。次第に青みを増す暗い闇の中で、肩甲骨にかかる一点の重みが煩わしく彼は、床にへばりついた身体を鈍く翻した。


 五月九日


朝、起きて台所にあるポットを火にかけている間、彼は昨日のことを思い出そうとしていた。茶色の輪の中でふくらんでいく焦げた肌色の泡が、決まった場所をもたずに揺れている。その頼りのなさが、いかにも自分の声のようで、滴るコーヒーを眺めながら滞りそうな息を吐き出した。心臓の締まる音がした。そのことだけが、感情を声にできているように彼には感ぜられて、温い悲しさがまた一つ、ぷくりと浮かんだ。


 五月十日


昼下がりの陽が差してらついた緑に目が眩む。緑のどぎつい樹々はいやに鮮明に映っているのに、背景の何かぼやけたものには、いつまでたってもピントが合わない。塗装の剥げかけた外付きの階段を上りながら、このままいつまでも屋上に届かない夢を見ているような気がして振り返ると、五月の勢いだけ羽織った風が背中を突いた。


 結局、えりの行方は分からなかった。昨夜の彼女は、確かに一年前の秋に叔父の家にいた、あの人ではあったと思う。となると彼女はえりではなく他の誰か、ということだろうか……確かにゆめは、今までに彼女の顔をまじまじと見たことはなかった。一年前のあの日以前に会ったのは、その五年前の彼女の両親の葬式で、その時の彼女はおそらく小学五年生くらいだったから、雰囲気が変わったと言われれば、そう思われなくもなかった。思い出してみても、彼女は自分のことをえりだと名乗ったことはなかった。ただ彼女のことを母に尋ねるのも、ゆめには憚られた。どちらにせよ、彼女はもう家を出てしまっている。叔父の話した通り、もしかすると御苑にいるかもしれない、とも思ったけれど、生憎の雨で外に出るような気も起きないままゆめは机へ向かい、ノートを開いた。


 五月十一日


晴れた日の午後、彼女はひとり鴨川沿いを歩いた。地底から湧き立つように川の両端に伸びる緑の中を、鮮やかな紫色の花が狂おしいほどに咲いている。五月の風が頬を撫ぜて、熱を意識しはじめた肌を柔らかく冷ましてゆく。彼女は歩きながら、昨日のことを思い出そうとしていた。昨日だったか、去年だったか、もっと遠くのことだったような気もする。わからない、きみのこと、今もきっとわかっていないのだけど、だけど、そばにいても、いいかしら。いつかそんな言葉を彼女は聞いた気がした。か細く顫えた優しい声だった。けれどそれ以外のことは何も浮かんでこない。どこで聞いたのかも、いつ聞いたのかも思い出せない。そもそも本当に直接聞いたのかしら、誰かの思い出を勝手に奪って、まんまと味わっているだけではないのかしら。あの人は、一体誰だったのだろう。どうしてわたしは、泣いていたのだろう。彼女は決して見つからないと分かっている宝物を探るように、宙に目を泳がせながら川の音に耳を預けていた。


 五月十二日


傍にあった橙色の塊は、触れるとその輪郭だけ世界が区切られたように冷たかった。辺りに鮮やかな果実の香りを滴らせている塊の中心にあるくすんだ窪みを嗅ぐと、いつかの彼女が好きだといった枝の緑の匂いがした。


 ゆめはノートの中の「彼女」と自分を重ねる。いつか私も、こんな風に、川沿いを歩いたことがあったのかしら。そう思う反面、誰かの思い出を勝手に奪って、まんまと味わっている、という言葉に、ひどく怯えさせられた。ゆめは自分を疑った。これを書いた人、つまり叔父を疑い、そして、えりを疑った。以前、一年前よりも前に、どこかでこのノートを見てはいなかったか、彼女は記憶を巡らせた。が、やはり一切の欠片、その断片すらも、見当たらなかった。「彼女」は決して、ゆめではなかった。


 五月十三日


最後に聞く声はあなたがいいわ。

何をそんなに舞い上がって、言いかけた彼女の顎に僕は手を伸ばしてその輪郭を激しく捕らえた。一瞬に彼女の目に怯えが広がるのが見えた。しっとりと潤んだ彼女の白肌に節ばった人差し指と中指をかける。それから彼女が逃げ出さぬように、拇指でその顎を挟みこんだ。首の付け根と背中の間あたりが虚に顫えるのを感じた。僕はすやすやと冷えていく脳みそで、彼女の歪んだ顔をなお締めつけてゆく誰のものかも分からない強張った手を、次はどうなるのかと訝りながら、ぼんやりと見つめていた。


 五月十四日


世界から消えていく君の手を握り、肉のこそげた節ばった甲を柔らかく撫ぜる。乾いた粉のようなにおいの束の、彼女に纏わりつくのが見えて、あわてて、振り落とそう、と僕はもう片方の手を伸ばすけれど、ふざけたくらいに瑞々しい、その肉塊は、彼女のにおいに触れることもできずに空を虚しくさらうばかりだった。


 五月十五日


この手があなたのすべてを吸い取っていくのだと気づいたときには、もうすでにあなたはいませんでした。無情に、淡々と、あなたが衰えてゆく姿を、爛々と潤んだ瞳でわたしは見つめていました。痩けた顎をかろうじて抱いた、ひび割れ、欠け落ちそうな肌に、あなたの、水にもなれず油にもなれない、瑞々しい肉の塊をただはわせていました。けれど、わたしがあなたを思えば思うほどに、あなたの身体は無惨に崩れていくばかりで、わたしはあなたの欠片の、床に剥がれ落ちる度に、尚一層あなたの肌に触れては涙を流すことしかできませんでした。あなたは、きっと気づいていました。わたしが、あなたを、恋うていることも、そのあなたを、つちくれに、変えていくことも。わたしはいつも、いつも、何も知らないのでした。唯一知っていたのは、あなたの、わたしに向けた、白く消え入る、光のような笑みだけでした。


 ゆめはノートの文字を目で追いながら、喉の奥に、無音の音を鳴らしていた。それはすでに死んでしまった文、書かれたその時には既に死んでおり、いずれいつか訪れることになっていた文に、彼女は繰り返しの生を与える。彼女は誦む。それは彼女に開かれていた地平であり、終わりも始まりもない、つまりは目的を持たない空間であった。それは、恍惚……


 五月十六日


優しく消える普通を生きる。腐りと鎖、錆、鉛。苔、ぬめり、こな吹き、皹、皺、照り、嘘、虚ろ、嫌なことほど憶えている。確かに、鮮明に、禍々しく、記憶を侵している。あなたは、消えてしまってもいいのかしら。あなたがいなくなったら、わたしは何を憶えていられるかしら。


 五月十七日


彼は静かに彼女を見つめていた。その瞳は花を慈しむような春霞の中に爛れた光を底に潜ませていた。彼女は手足を動かそうとするけれど、感覚がどこにもない。彼を助けないといけないのに。声が出ない、力は入っているはずなのに、それはどこにも響かない。虚しく、誰の助けにもなれない彼女の目は見開いて、彼を睨んでいる。顫える口元から、声ではない、息ですらない怒りが漏れた。それから彼女の紅い紅い唇は、歪みを湛えたまま、頽れるような姿を見せた。


 五月十八日


べたつく肌を重ね添わされたような顫えが胸の上あたりで起こった。萌葱の映える景色はいつの間にか消えて、濃い鬱々とした緑の季節になった。彼女は全身に纏わりつく、調子を崩す前に現れるどっちともつかない半端な気怠さに首を傾けた。いっそのこと高熱でも出てしまったなら気分がいいのに、雨の降りそうで降らない五月の曇天を窓の外に眺めて、彼女はそんな雑い言葉を呟いたりしていた。


 ゆめにとってノートはもはや、読むために必要なものではなく、単なる紙に過ぎなかった。彼女はただ、以前からの言葉を、それがいつなのかは分からないけれど、その言葉を詠んでいるのだった。彼女の声は一際大きかったにも関わらず、家の誰も気がつかず、外にも届いていないようだった。


 五月十九日


頭痛がする。許されない欲を隠した彼女の前で、彼らはへらへらと笑ってやがる。彼女にとってそれは大したことではなかった。ただ、そばにいたかっただけなのに、彼らは崩れ、消えていく。彼女はそんなことがしたかったのではなかった。逃げないで、行かないで。どうして、どうして。どうして、こんなことに。僕は彼女を分かってあげられない。どうして僕は彼女でなかったのだろう。


 五月二十日


夜明け前、瞼に染みた薄明かりに目を覚ましました。けれどまだ起きてはいません。瞼は瞑ったまま、外の音だけを聞いていたのです。遠くから鳥の鳴く声がしました。わたしは気持ちその方向へ身体を押しやるようにして、その声に耳を傾けました。それは不完全でした。けれど同時に、しっとりと潤んでいました。切れ切れに、けれど止まることなく鳴き続けています。決して美しいわけではありません。麗しく流れるような、透きとおるような声でもないのです。けれどわたしは彼女の声を待ち焦がれています。一体誰の声なのでしょうか。リズムもメロディもない彼女の声を、もう一度でいいからわたしは聴きたいのです。その声のさらに遠くに春の終わりが鳴いています。美しく、柔らかく、鳴いています。わたしには、その声が酷くつまらないもののように聞こえました。いつもならその美しさを真似て口笛を吹いてみたりするというのに。朝の憂鬱のせいかしら、と訝りながら、わたしはもうすでに白みはじめた窓外をよそに、軋む身体をのけぞらせて再び夢の中へと落ちた。近く遠くで寺の鐘声が聞こえた。


 五月二十一日


朝鳥のちちちと鳴く

まだ暖めやらぬ空気の中

あなたは無事眠りについたでしょうか

わたしはこれから目を覚ましますが

あなたはゆっくりと瞳を閉じるのでしょう

楽しめたでしょうかと思うより

どうして心はざわついてしまうのです

過ぎてゆく時のせいでしょうか

いつかあなたの時間の河に

わたしを重ねられたらいいのに


 五月二十二日


 わたしはいくらか、いえ、ここはできる限りと言いましょう。必死に言葉にしてきたのです。母に、父に、兄に、妹に、先生に、友達に、恋人に、そしてあなたに。記憶にものぼらない言葉の端々がぽろぽろとこぼれていったかと思います。

 けれどもわたしの中にあるしこりは、日を増すごとに固くなっていき、あるいは柔らかくなっていき、果して元の形を忘れてしまいました。わたしが欲したのは、決してこんな情けないものではないのです。語った言葉がみるみる嘘へと変わっていくのです。いえ、そもそも本当であったのかどうかも疑わしい。事実、今書いているこの言葉ですら、一体どんな風にあなたに映るのか、緻密に、慎重に考えて選んでいるのです。わたしの言葉ですから、それが分かってしまうのです。ですからあなた、決して安易に信じませぬよう。


 ああ、どれがわたしの言葉でしょうか。わたしが発するものの至る所に、誰かの影とわたしの醜い自尊心が這いずり纏わりついているのです。ああ、あなたのその小さな胸の中で溶けて消えてしまえたなら、わたしの言葉は、そのままあなたの言葉になるのでしょうか。そうならあなた、わたしを食べてはくれませんか。けれど美味しくないかもしれませんね。ああわたし、美味しかったらよかったのに。

 おかしなことを言ってしまいました、けれどあなたは分かってくれるでしょう。わたしが剥がそうとすればするほど、言葉は幾重にもなる地層のように嘘と実を織りあっていくのです。いっそ何もしなければ、これ以上哀れな醜態を晒さずに済むのでしょうか。いえ、こうして生きていく限りもう止められないのでしょうね。あなたはきっとわたしと同じように、嘘と実とをみだりに弄ってきたに違いありません。そんなあなたに惹かれたのですから、あなたもわたしも変わり者ですね。だからこうして話しているのです。

 

 わたしがこの世で望んでいるのは、たった一輪の蒲公英なのです。


 はあ、こうして何か、分かったようなことを言いながら、実のところは、ただただあなたの、その一輪であって欲しいと、どうかどうかと、今もこうしてぶるぶると震えながら、黙って祈っているのです。あなた、文のまことは口の嘘言に敵いませんか。嘘言の縺れをほどくことは、叶わないのでしょうか。わたしはこれからも文を書きます。たとい次の瞬間には、嘘がまことに、まことが嘘に変わってしまったとしても、言の端々を拾い集めて、また何度でも書き直しますから。ですからあなた、わたしは、いつまでも傍にいるのです。手のひらに触れた甲の皺を柔く撫ぜるだけの日々になっても、遠く、声の届かない身体になったとしても。ですから、あなた、心配せずとも、大丈夫ですよ。それから、今更ですが、あなた、愛していますよ。


 五月二十三日


 物語は冷たく残酷です。すでに決した終わりへの轍を踏むことしかできません。はやく読もうと、遅く読もうと、途中で止まったとしても、道が分かれることは二度とないのです。けれど、これから始まる物語も、きっと、あります。結末の決まっていない物語が、ここにあるのです。わたしの書く物語は今ここで定まってしまうけれど、「その先」が、きっときっとあるのです。不確かであいまいな語りきれない何かが待っている。それはかなし、うれし、うるはし、にくし……あるいはわたしのいまだ感じたことのない何か、かもしれません。わたしはそれを想像すると、これまで知らなかったあなたの表情に出会った時のように、頬に、両腕に、そしてこの胸に、ぞわっと撫ぜるような刺激が駆けていくのです。わたしはこの感情もまた、いつか物語ることになるのでしょう。教えてくれたのは、あなたです。わたしはあなたを、恋したのです。


 五月二十四日


恋は昏く、愛は明い。暗がりの中でまぐわえば、仕舞いのにおいが滲んでゆく。自然な流れの中の二人に、恋のにおいは決して立たない。しがらみもなく、あけすけで、すずやかな二人。私はその交わりのまた底にある、どろりとした暗がりを思い出していた。昔々のこと、私は深夜のベッドの中で、彼のしっとりとした手を青白い肌に添わせ、その意識に追いつかない胸に、それから蒸れた下腹に添わせることで、まだ名も知らぬ恍惚に入っていた。じっとりと昏い、人には言えない秘めごとのあるのを、私は幼いながらに分かっていた。そしてそのことがまた、私の底の底にある暗がりを、濃く、濃く、ねばりつかせるのであった。


 五月二十五日


小暗い部屋に、一人ぼんやりと座っていた。まだ眠るような時間ではないけれど、特段することもない。雑然とした床がいつからか照らされているのに私は気付いた。薄白い床に硬い光の烈しさがある。はてと外を見やると、月の光であった。けれど眺めた時にはもう光は淡く溶けていて、先程の烈しさはどこかへ消えてしまった。翳りのない、風の耳を覆う、嵐の前の夜だった。あなたは一体どこにいるのかしら。


 ゆめは、書けない。それはある誰かのものであり、誰のものでもない。えりのものでも、一登のものでも、まして、ゆめのものでもない。これから現れる、いや既に現れた文章もそう、いつかいずれ出会うはずのものであり、常にすでにあったものでもある。七月三十一日、えりが死んだ日まで。それから、ゆめが死んだ日まで、ゆめは決して、書けはしない。ただ言葉だけが、言葉によって開かれる。

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