四月十二日


まだ空が明けきらない、深夜とも早朝とも言えない時間に目が覚めた。窓から入ってくる光が朝か夜かを決めかねて、いつまでたっても過ぎていかない、一瞬で永遠の時間がそこにあった。顳顬を貫くように広がる間隙にまかせて微睡んでいると、気づけば烏と、甲高い声の朝の鳥が遠く近くに鳴いていた。


 四月十三日


彼女は部屋で掃除機をかけていた。古くなった掃除機のホースが変に絡まるのを傍目に見ながら、苛立ちを握りしめ、前後に動かしている。後ろで引きずっていたはずのホースを踏んだと思うと、次の瞬間には身体が左へ倒れていた。みるみる内に左手首が腫れ上がってくる。じんわりと鈍い痛みが、身体の深いところでふくらんだ。骨折していた。橈骨遠位端骨折というらしい。彼女は近所の、かかりつけの病院でレントゲンを撮った。手首の骨がずれて、黒い隙間ができている。骨がずれてしまった部分は、医者がある程度元の位置に戻してから、手術した後ボルトで固定すると、そう彼女は説明された。


 四月十四日


苛立ちは確かに、蟠を巻いてそこにあった。その不安定さに怯えながら、彼は浅い息を吐いて右へ左へ彷徨いていた。彼は苛立ちの、処理の仕方を知らなかった。崩れかけたものを直す、その方法を築いてこなかった。窓を開けると、変わりがちな早春の空気が雨に流された後の乾いた青があった。彼は蛆のような不安を掻き消すためか、こいつ苛ついてやがる、と吐き捨て笑った。無理に動かそうとした頬が、肉が骨につっかえて澱みになった。


 四月十五日

 

春霞、近くの家々はいやに鮮明に映っているのに、遠くの山は空の色を一枚塗り重ねたようにくすんでいる。空のレイヤーが山の上に重ねられている。どこかで間違えたデッサンのよう。


 四月十六日


寺の向かいにある部屋の窓から街灯の灯りが柔く差している。彼は隣に横たわる彼女の額に、汗で濡れてへばりついた黒髪が、残灯に照らされてぬらぬらと光っているのを見た。彼は指先で彼女のその前髪を撫ぜた。指先に冷たい感触と風呂上がりのような湿りが広がる。彼女の額からまた、狂ったようなにおいがふくらんでくる。彼は彼女の額をこそぎ取るごとく、その額に鼻を擦りつけ、彼女のにおいを貪った。


 四月十七日


窓の外に桜の木が生えている。薄白い桜色の花が散りかけて、赤赤い萼と緑が混じって乱れている。白く霞む花の頃でも、青々とした若木の頃でもない、美しくも、瑞々しくもない四月の終わりがあった。艶な生の蠢きが芽を出し、命を醜くふくらませている。 彼は隣に横たわる彼女の、その豊満な裸体が、存在を丸々と布団の上に留めているのを見ていた。疲れ果てた身体を床に押し付けるように眠っている彼女を、決して見たくはないものを、彼は目を見開いて覗いていた。


 四月十八日


お前はけうとがりながら、彼女の艶やかな汗のにおいを喰む。ああなんと業の深い行いだろうか。彼女は今も、唯一許された安らぎをふくらませて、お前の隣で寝そべっている。お前は、その額にへばりついた黒髪や、産毛の生えた腿などよそに、汚れた肌着のにおいを探している。そこに彼女の姿は見えない。お前は情欲を探している。狂ったように嗅いでいる。鏡を見ればお前はきっと、狂気の残滓を瞳に見つける。その眼は何も映さない。


 えりはあれから姿を消した。ゆめはノートを一日に一度、日を繰るようにめくって読んだ。あれから一週間経っても彼女は現れなかった。えりが死んだと聞いたのは、それから、半年と少し経った後のことだった。

「どうしてあんなことになっちゃったのかしらねえ。ニュースにもなってたけど」母はスマホを見ながら言った。

「ねえ、それって、いつのこと?」

「あ、あった去年の七月の終わりごろ。その少し前には、ゆめが病院にいて……」

「七月、病院……」

「そうそう。まあ、あなたが健康で何よりだけど」母は安心の顔で笑っている。

「あんまり人の家に入り浸って、迷惑かけないようにね」

「人の家って?」ゆめは母に聞いた。

「よく話してるじゃない、叔父さん。元気にしてる?」

「叔父さんって、かず、さん?」

「もう、まあいいわ、元気そうなら」母は呆れたように言った。

「そんなに、話してたかな」ゆめはあれから、えりが姿を見せなくなった半年前のあの日から、叔父の家には行っていない。

「ちょっと、大丈夫?調子悪いなら言いなさいよ」

「うん、身体は全然、大丈夫……」

 ゆめは部屋に戻りノートを開いた。そこには変わらず叔父の、えりにとってもゆめにとっても、叔父の日記のような、あるいは下手な詩紛いの文が並んでいる。えりは、死んだらしい。叔父は、死んだと思っていた。私は、去年の七月には病院にいて、その頃にえりは、死んだ。じゃあ半年前のあの子は、一体誰だったのだろうか。私の妄想……ゆめはもう一度、叔父の家に行くことにした。


 四月二十二日


会いたい、が画面上で跳ねた。

彼は大学卒業後に東京へ出て行った。わたしは彼と定期的に会っている。この前の年末にも会ったばかり。なのに、会いたいと言われるだけで、もうあなたのことばかり考えている。こんな人に、恋したならよかったのに。


 四月二十三日


雨を、待っている。今にもこぼれ落ちそうな雨を必死に抱えこんだ雲の向こうに、濁った月の光が浮かんで消えた。雨が来たら、部屋に戻ろう。彼女はいつの間にか、望まない雨を待っていた。今まで隠れて見えなかったものが、一時に姿を現したみたいに、雨音が辺りに走りはじめた。雨を、待っていた。彼女は青ともグレーとも言えない曇空をしばらく見上げ、明かりの消えた部屋に戻った。


「お待たせ、珈琲しかないけど、良かったら。なんか久しぶりやね」一登の声を聞いて、ゆめはノートから目を離した。

「あ、ありがとうございます」

叔父は少し笑って、部屋の隅にあった座椅子に座り込んだ。文机に積まれた本と、ノートを床に下ろしかけている。確かに叔父はそこにいる、とゆめは思った。

「牛乳とか、入れる?」

「あ、すみません、じゃあ、お願いします」

「はいよ、ちょっと待ってて」叔父は台所へ向かった。

「すみません、これ、ずっと持っちゃってました」台所から戻る叔父の方にゆめはノートを見せた。

「ああ、それか……うん、ありがとう、はい牛乳」叔父はノートを受け取りぱらぱらと捲っていく。何かを考えている風に、ゆめには見えた。

「これ、ゆめちゃん持っててくれる?」

「いや、でも……」

「ええよ、えりも喜ぶやろうし」

「えりちゃんが?」

「うん」

 ゆめはノートを受け取った。静まった叔父の部屋は、あの頃よりも整理されているような気がした。埃っぽさはなくなって、代わりに、挽きたての珈琲豆の香りが漂っている。ゆめはノートを開いた。


 四月二十四日


不安と苛立ちと焦りと、怯えの混じり合った彼女の声は掠れ、行き場を失っていた。乱れた言葉を吐き出して並べてみると、彼女の声は心地よい怠さにのぼせふくらんでいく。その時に、あの不確かな言葉たちは、自身の姿を見つけてしまった。彼女から声は消えて、周りの音だけが聞こえてくる。心臓の音、血の流れる音、風の音、草の音。確かに言いたいことがあった。並べられた言葉たちは、何食わぬ顔で漂っている。彼女は彼らを失ってから、その事に気がついた。


 四月二十五日


待っている。わたしは何かを待っている。その時が来たら、わたしは命を捧げます。身体が顫える何かを、わたしはほんとうに待っている。ほんとうに、わたしはそんなに狂っていない。悲しいけれど、狂っていないの。剥き出しにする狂気もなければ、目玉を潰す勇気もないの。こっそりと引き出しに隠した期待は、なくなったふりをしてるだけ。結局何も変わってはいない。あの頃のわたしが醜くいるだけ。みぞおちが窮屈にふくらむので、潜り込んだベッドの中でわたしは息を吸ってお腹を張った。みぞおちが外に押し出される気がした。


「こう言うのって、どうやって書くんですか」ゆめはノートを開く度に、えりが遠ざかっていくような気がした。叔父書いたいくつもの文は、何かを伝えたかったらしいのだけれど、ゆめには見当がつかなかった。えりは、何を考えていたのだろうかと、ゆめは思う。えりはもう死んでいる。私の知る、一年以上も前に。

「うーん、人のことは分からんけど、僕は思ったことを書いてるだけよ」

「じゃあ、これとかも実際に起こったこと?」ゆめは先程読んだところを見せた。一登は黙ったまま、知らないものを見つめている。

「覚えてない?」

「ん?ああ、そうね」

一登は言いながら、自身の辺りに散らばった紙をまとめて机の上に置き、床に投げっぱなしの本を片付け始めた。ゆめは牛乳を入れた珈琲を、一口飲んだ。叔父の丸まった背が横目に見えた。


 四月二十六日


山が燃えている。比叡山の頂上付近から、仄白い煙がうねりながら昇っていくのが彼女には見えた。その日は雨上がりの朝で、四月の靄が洗い流されすべての気色が輪郭を取り戻したような朝だった。山の木は雨を吸っていないのかしら。彼女は訝りながら、窓の外でなお燃え上がる緑をぼんやりと眺めていた。


 四月二十七日


雨がやんでなお雲の溜まっている空気が、部屋にまで押し寄せている。彼女はじっとりと纏わりつく睡気を跳ね除けようとし、発熱前の気怠さのようなものに包まれて、湿気と人の温気に眉を顰めた。山はまだ燃えている。白煙に包まれて新緑が霞んで消えた。


 四月二十八日


海の京を泳ぐ


谺する鼓の音と

無数の泡沫に耳をあずけて

壊れかけた階段をのぼる


明けきらぬ白い塵のカーテン

まだ まだと繰り返すあの子


東雲に這う青蟲

萌ゆるその背に爆ぜる吾が青 


「えりちゃんは、ここよく来てたんですよね」

「よくってほどじゃないと思うけど、来とったよ。ずっと本読んでたね」

「他にどこかよく行ってたところとか、覚えてたりしますか?」

「うーん、御苑にはよく行ってたかな。散歩してたみたい」

「散歩……」

 えりはゆめについて何も知らず、ゆめはえりについて何も知らない。死んでも、何も分からず、生きていてもなお、何も分からない。えりの死は確かに、彼女を、あるいはその幻想を、ゆめの元に現れさせた。その死を認識してようやく、えりの輪郭は定まった。けれどそれは、ゆめにとっての輪郭でしかない。それは死んでなお彼女のものではなく、ゆめの、あるいは他の誰かのものだった。死んでも、死を踏みつけることはできない。ゆめはあの日を思い出す。私の元に現れた彼女は、この部屋の真ん中に立っていて、よく見ると、左耳が無かった。


 四月二十九日


「わたしは、今のままがいい」

次の日には、彼女は青蛙になっていた。てらついた皮膚のへばりついた滑らかな凹凸のある身体を撫ぜるように見渡す。蛙になっていることよりも、そのことに大した驚きのない自分を、彼女は訝った。


 四月三十日


どこか知らない場所にひとり置いていかれたように、急に心音が輪郭を濃くしていく。隣の寺から鳩の声がする。読経のように淡々と流れていく。窓の外からまだ肌寒い風が染みて頬を撫ぜた。今までわたし、何してたんだっけ。とにかく前へ引き込むような心臓の動きが収まったあとも、その顫えの跡を見つめて静かに待ち望んでいる自分を彼女は怪しんだ。


 五月一日


公苑の日向にはもうすでに

夏が揺らめいている

あなたは四月を忘れて

姿をみせた ながいながい夢

砂利の音と焦燥に

左上へ頭をもたげる

粘りつく首筋の汗が

新緑の葉に撫ぜられて

遠く近くちらちら光る

まだ見ぬ夏に逸る心臓 


 日がまた傾いていた。ゆめはノートを閉じた。叔父の方を見ると彼は文机に向かい、ノートに何か書きつけている。

「何書いてるんですか?」小さくもないゆめの声は一登に届かなかったようで、静かさは一層強まった。ゆめはそっと近づき背中越しにノートを覗いた。


 五月二日


彼らが向かった時にはすでに遅く、狭まった三叉路には血まみれの牛が横たわっていた。左手にある部屋の中を覗くと留守番電話の点滅がちらちら光っている。「かいくん、あれ」彼らは部屋の中に入って、古びた平たい家庭用電話の受話器を手に取り耳を澄ませた。かいくんが受話器に耳を当てて何かを聞いている間、彼女は部屋の隅にあった脚の長い椅子に腰掛けていると、昼下がりの鈍い睡気に襲われた。こんな状況で、だめ、彼女はまぶたの降りかかるのを必死に堪えようとした。けれど一体、今まで何をしていたのか、どうしてここに座っているのか、なぜ眠ってはいけないのか、何も思い出せなくなった。彼はまだ受話器を耳に押し付けたまま黙っている。ああ、眠い。

 はっと目を覚ました。窓から埃っぽい光が漂っている。部屋の中は静かで物音ひとつしない。なんだ、夢か。彼女はベッドから起き上がって台所へ向かい、眠気覚ましのコーヒーを戸棚から取り出そうとしながら、どうしてコーヒーのしまってある場所を知っているのか訝った。そして、わたしの部屋なんだから当然でしょう、と浮かんできた結論に納得した。何かを忘れているような、薄膜に包まれた甘たるい記憶のある気もした。けれどその記憶の、特別いいものでもないような気もして、忘れかけた夢の景色と一緒にコーヒーを飲み終えると、いつも通り学校へ向かった。


 ゆめはやはり彼女のことを思っていた。叔父の書いた文章をえりが話しているような、そんな気がした。

「叔父さんはさ、どうしてこんなの書いてるの?」

「どうして、か……目的があると、困ってしまう、な」叔父はぼそぼそと話した。

「理由もないのに、書いてるの?」

「そうやなあ……」叔父はまた困惑しながら、

「強いていうなら、えりのため、かな」

「えりちゃんのため?」

「うん、彼女は、もういないから」叔父は常に繰り返している言葉のように呟き、それから首を少し曲げ苦笑し、

「ゆめちゃんも、きっと書けるよ」と言って口を閉じた。


 五月三日


紙屋川を渡る一条橋を通り過ぎ、なんとはなしに振り返ると、川上の方で浅い水がちろちろと蛇行している。五月の新緑の陰にうねる曲線が、脊椎のように滑らかにのびていた。川下を覗いてみるとその流れが淀んで小さな山をつくっていく。ひとつ浮かんで、ひとつ消える。消えたはずの山は気づくと同じ場所にじっとしている。老婆の皺を思い出させた。その段々を、項垂れた鯉のぼりが気怠げに登ってくる。口から全身に流れ込む水に陰気な光をてらつかせている。鯉のぼりは橋を潜り、のそりとこちらを振り返ると、そのまま浅川に沿って泳いでいったか、すぐに木陰に隠れて見えなくなった。


 五月四日


ぎらぎらとてらついた瓦屋根が住宅の密集した中に浮き出ている。負ってまもない火傷の痕のように、彼女の目にやけに鮮やかに映った。肘にできた瘡蓋を弄りながら、あの日見た鯉は、さては本物だったのかしら、と彼女は訝る。目の先には瓦屋根が、その鯉の鱗のように揺れながら生臭く捲れていくのが見えた。


 五月五日


そのヒョウは優しいヒョウでした。人間の子どもが近づいてくると、いつも口から喉まで大きく広げて細くて長い空洞をつくります。子どもはその中に入り暗闇を潜り抜けるのを楽しむのです。ある日、五歳くらいの男の子がヒョウの前にやってきました。ヒョウはいつものように口を開けて空洞をつくります。子どもは口をよじ登って中に入ろうとしましたが、手を滑らせて奥の方まで転がり落ちてしまいました。子どもは泣き乱れヒョウのからだを叩くと、ヒョウは驚いて暴れる子どもを吐き出しました。そのままヒョウは我を失い、目の前で倒れ込んだ子どもを切り裂いてしまいました。あれから数時間……

暗陰に身を潜めて息を殺したまま、わたしは窓の外を覗っていた。もう数十人は死んだ。隣の廊下の暗がりにも、血だらけの姪が倒れている。リビングには八人集まっていた。残りはもう殺されてしまったのだろうか。もしもあいつがここにやって来たら、真っ先に隅にあるあの窓から抜け出そう、とわたしは冷たい頭の中で繰り返しながら、気づかれないように、ばれないようにと窓の方へにじり寄っていく。

 

 叔父の家から帰ったその夜、ゆめはえりとの約束を思い出していた。あの時はゆめが彼女に、書こうと提案した、彼女の消失と共にうやむやになっていたことを。日記みたいなのに、しようかな、とゆめはノートを開いた。


  五月六日 天気 曇り

ああ、こんなふうに誰かと、心地のよい緊張の中で、話をしたのはいつ以来だろう。疲れを全身で捉えとどめながら、知らぬ間にわたしは頬を緊めておかしな表皮を晒している。そのことに気づくのは、いつも彼女に見られた後だった。彼女の声が谺して首の後ろ辺りにへばりつくと、左の肩甲骨に覚えのない痛みが残っていて、なぜか呼吸のままならない身体を反らして、それからまた背を丸める。彼女との会話を思い出して胸を痛めているのか、それとも肩甲骨の痛みがうつってきたのか分からなかった。肩を落とすとまた、息の詰まるような濃い痛みが走った。


 書いている間、ゆめはえりを思っていた。彼女のことを思い、近くにいた時よりも余程強く、彼女を知ろうと試みた。書き終わってしまえば途端に、彼女を忘れてしまうのではないかと心底恐れながら。では書き始める以前、彼女はえりを覚えていたのか、どこから始まり、どこで終わったのか、と既に筆が止まった間隙の中で、ゆめは断片としての彼女を、絶望の中で思った。外はいつの間にか雨が降り始めていた。

 ゆめは外に出た。アスファルトが街灯に反射して規則的な波紋のように乾いた光を映している。点々と光るそれらを頼りに歩いていると、視線の先に人影が現れた。いつから前を歩いていたのか、ゆめと同じくらいの背丈の人だった。傘もさしていないようで、ゆっくりと、けれど少し足を緩めると暗闇に溶けてしまいそうな不安な速さで、ゆめは彼女との間に流れる大きな波に引かれていく。ちょうど彼女が見え始めた街灯の下まで来た。彼女はそこからちょうど三つ目の、街灯ところを歩いていた。ゆめは彼女が、こちらが後ろにいることに気づいているように感じた。ゆめは足を速めた。彼女の背が徐々に迫ってくる。ゆめは彼女を追い抜こうと隣に並びかけ、横目を止めた。えりだった。彼女は濡れているためか、痩せぎすの野猫のように細っていた。ゆめはえりを家に引き連れて帰った。えりはその道中、何も言わなかった。

 ゆめは静かに自分の部屋に戻り、えりに着替えを与えた。それから一階へ足音を立てないようにして降り、温めた牛乳をえりに渡した。えりは黙って受け取った。ゆめは思案する。彼女に何を尋ね、何を尋ねないのが正しいのかを。えりは、確か死んだらしい。ただ、ゆめはそのことを母親から聞いただけだったし、ここにいる彼女と母親の言う「えり」は、別人ということも考えられないこともない。二人は同じベッドに横になった。ゆめはいくつかの質問を投げかけてみた。が、えりは何も答えない。ただ黙ったまま、ゆめに委ねるように目を瞑っている。拒絶も反発もない。

 えりは、ついに何も話さなかった。眠る裸体は、そのままの姿でゆめの前に放り出されていた。青白い乳房も、予感を残した腿も、何ひとつ、語りはしなかった。彼女について知りうるのはただ、あのノートと、その周辺に纏わりつく幻惑だけだった。そしてそれらは、彼女をゆめに限りなく近づけると同時に、決して一つにはなれないこと、分かり合うことのできない、その孤独を、静かに供え、何も与えず、何も奪わず、ただゆめにとっての異質な肉体として、彼女は横たわっていた。

 朝、ゆめが目を覚ましたのは、えりがもう家を出た後だった。外は昨日と同じ雨が降っていた。

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