今日、うち来なよ、とゆめから連絡があった。ノートはとりあえずえりが持っていたが、あれ以来、一度も読んではいなかった。机の端に置かれたノートが幅を利かせて威張っているような気がした。えりはノートを手に、そのままゆめの家へ向かった。

 最寄りの地下鉄に乗り、五駅で乗り換える。それから普通列車で六駅行くと、最寄り駅に着いた。ゆめが迎えに来ていたから、そこから家までの道程はあまり覚えていなかったが、歩いて十分くらいだったように思う。茶色い屋根、くすんだ白い壁、玄関脇の鉢植、うさぎの置物、ピンクの三輪車、土のついたビニールのボール、玄関口の写真立て、多肉植物、ピンクの靴、先の擦れた革靴、それから、ゆめのパンプス。家には誰もいなかった。

「叔父さんと叔母さんは?」

「妹とどっか出かけてったよー、私も誘ってくれればいいのにね」

そう、とえりは階段を上るゆめの脚を眺めながら、その血管の青い錆のような色を思う。ゆめはどうして、これが読みたいのだろう。階段を上がって左に曲がった突き当たりの部屋のドアノブに、ゆめの手がのびかけていた。廊下は暗く、その為かゆめの入っていく部屋は、えりにはとても明るく感じた。彼女は眉を顰めながら、ゆめに従いて部屋に入った。

「じゃあ、前の続き読もっか。それともえりちゃん、もう先に読んじゃった?」

「いや、あれから読んでないよ」えりはちらとゆめの方を見やった。木製の椅子に腰掛けている。学習机と一緒に買ったものだろうか、所々塗装が剥げていて、随分と古そうに見えた。

「そうなんだ、あんまり興味ない?」

「いや、そういう訳じゃないけど、ゆめちゃんと読もうかなと思って」

「あ、そうだったの?ごめん待たせちゃった、じゃあ今日はいっぱい読もう!」と、ゆめの出した手にえりはノートを置いて、またゆめをちらと覗くように見た。ゆめはすでにノートを開き、以前の続きを探していた。あった、と言ってゆめは軽い咳払いをした。それから、詠みはじめた。


 三月二十八日


なくなってしまった

すべては分かってしまう

闇を見続けられたらいい

いつまでも続くと思えたらいい

何もかも見通して

先の先まで分かってしまった

幻はもうそこにはない

あるのはほんの小さなこと


穏やかで微かな世界の秘密を

洞穴の中で覗いていればいい

見えなくていい

分からなくていい

何も知らなくていい


それでもまた

知りたい

知りたい 


 四月三日


大きな流れのその外で

小さな花を愛でている

速く過ぎ去る昼の真中で

黙ったままの言葉を綴る

世界を他所に水をやり

沈黙は音を奏でない


 ゆめが一つ目の文を読んでいる時すでに、えりは辟易していた。この諦観したような台詞に。それから、こんなものが良いといわんばかりの顔で、二つ目の散文まで一度に読み終えてしまった、目前の彼女に。

「なんか舞台女優になった気分」ゆめは軽快に笑っている。

「前よりもなんか、穏やかっていうか、そんな気がしない?」

「うん、まあ、そうかも」

「えりちゃん的にはあんまりだったか」

「いや、そんなことはないけど」ゆめの声が曇ったからか、えりはゆめの顔を見て答え、それから目を逸らした。出窓の前に飾られた、テーマパークのぬいぐるみと目が合った。この部屋は、えりの子どもの頃から、少しも変わっていなかった。

「ちょっと考えてただけ」少しの間があった。えりは、慌てて言葉を続けた。

「えっと、だから叔父さんは、こういうことを思って、そのままこれを書いたのかなって」

「詩って、そういうものじゃないの?」

「そうかも。でも叔父さんもう死んだし、その時の気持ちとか分からんから、どうやったのかなって」

「私も詩とか書いてみよっかなー、えりちゃんも一緒に書いてみない?」

「こんなの書けないって」

「ねえ、書こうよー、お願い。えりちゃん本好きだし、絶対書けるって」ゆめの顔に影が寄っていく。潮が満ちるように、いつの間にか、深く濃く。

「近い近い。書く、書くから」クローゼットの戸に背を追いやられ、えりは答えた。ゆめは笑った。

「よし、じゃあ来週の同じ時間に見せ合いっこしよ、場所はうちでいい?」

「分かった、うん、来週……」

「難しく考えなくてもいいよ、気楽にさ」

 ゆめはえりの顔を覗き込むようにしている。それがえりには心底恐ろしかった。ゆめが恐ろしいのではない。その覗き込むような目が、まるで他人のように、いや、そんな名前のついたものではなく、名付けられない蠕動のような気色の悪さを孕んだその目が、えりを常に怯えさせている、ある社会の何かに似通っていた。えりは、その何かを恐れていた。彼女は黙って頷いた。

「じゃあ決まりね、次も詠んでみていい?」

「いいよ、ゆめちゃん元気だね、仕事は?」

「今日土曜だよ?休み休み」ああ、そっか、とえりは素っ頓狂な声で返事をした。

「どっか遊びに行けばいいのに」

「えりちゃんと遊んでるからいいじゃん」

「私は、別にいいんだけど」ゆめは笑って、またノートを開いた。


 四月四日


椋鳥が飛びまわる庭で

彼は首をもたげて空を見ている


どんな姿勢で立っていればいいのか

どこに向かって歩けばいいのか決めかねて


春は惑う

夢か幻か


乾いた靄に包まれた彼に見えたのは

子どもの瞳と擦れる炭素の黒だった


彼は書けない。好きでもない、嫌いでもない。

他の何か、でもないかもしれない。


ただ、削りカスだけが残っていくのを背で追いながら、

空の青を、楢の緑を、人の紅を、全身で受けるすべてを、

彼は書けない。


「どう?」ゆめは窺うようにえりに尋ねる。

「んー、どうだろ、分かんない」


 四月五日


顳顬が鈍い痛みを鳴らす。足元だけがくっきりと重い。死にたくないという彼と、いずれ死ぬというわたし。

息を吐くと、眼鏡の内側が白く曇った。靄がかかっているのは、わたしだけなのかしら。濃厚な霧が遠く近く漂っている。温い塊と混じり合って、わたしの居場所が曖昧になっていく。一体この身体はどこから来て、これからどこへ向かうのだろう。

誰かにとっての正しさは、誰かにとっての間違いだ。正しくあろうとするならば、これを受け入れなければならない、彼は言った。もしもどの正しさも選べないのなら、正しくなることなく死ぬだろう。わたしは、正しくも間違いにもなりたくないな。上手く形が作れそうにないから。嫌だなあ。甘ったるい嫌が纏わりついて離れない。


「これさ、わたしって、誰なんだろうね」ゆめが言った。

「うん……」えりはつり革を掴み損ねたように、叔父の以前までの輪郭を失いかけていた。


 四月六日


昔は自然に触れていた時の流れに、ぽつりと置いていかれている。その寂しさが僕らの中の一つなのだろうか。正月に、盆に、結婚に、葬式に、血の繋がりを浴びていた。祖父母と兄弟、そして従兄弟の二人が映った二十年くらい前の写真は、色が擦れて甘い匂いを広げている。この曖昧な、けれども絡みつくような繋がりが、かつては確かにあったのだ。僕は思った。そして同時に、その憎らしい絆しが、もはやどこでも手に入れることができないということの確かさも、その写真の乾いた甘い色に愈々明らかになっていく。そのことにただ何となく、悲しさに似た何かが、静かにふくらんでいくのだった。


 えりは、叔父の言いそうなことを辿ろうとした。けれどえりの中にいる叔父は、もっと寂れて、臭いのない、田舎の河原のような人ではなかったか、と思った。その叔父とはどうやら、似ても似つかない僕や、私が、ゆめの声に乗って現れては消え、そしてまた……


 四月七日


湿り気のある部屋

粘っこいにおいがふくらむ


西の山に水気の多そうな雲

子どもの声が谺する


浮かび、広がる

上か下か、右か左か

どこから聞こえているのか分からない


頭の中で響いている、少女の声が

誰かとくすくすと喋っている


けれどその子の声は聞こえない

少女はあちこち動き回った


僕の足元で笑っていたかと思えば

気づくと僕の背後で首をすくめて隠れている


少女は泣くのを我慢しているような

妙に強張った笑い顔をしていた


「これ、ほんとに何が言いたいのか、よく分かんないや」ゆめは投げやるように言った。えりは、何も言わなかった。


 四月八日


昨日、新生活を始める学生らしき人が隣の部屋に越してきた。手伝いに来たその祖母と母、そして父が部屋の中や外やを彷徨いている。わたしは部屋で小説を読んでいた。網戸をして、白いレースのカーテンを引いていた窓からは、昼下がりの温い光が差している。わたしはちらと窓の方を見やると、祖母がわたしの部屋を覗き込んでいた。網戸に顔が貼り付くくらいに近づけていた。腰が曲がって顔の奥に祖母の背が見えた。その背の曲がり方が、いやに滑らかで、ぬめりとして気味が悪かった。結局、学生自身はいつまで経っても現れなかった。今も隣の部屋で新生活の準備を進めているのだろうか。彼らの表面に、取れない油汚れのようなつながりが纏わりついているのを、あの時のわたしの目は捉えた。


「これ、日記みたいだね、ほんとにあったんじゃない?」

「かもしれない、現実っぽいね」

「祖母とか母とかさ、叔父さん家族的な人よく書いてない?」

「そういえば、そうかも」えりはゆめの横からノートを覗いた。文字で読んだ文は、ゆめの声の印象と違って、温みのある臭いの立つような、人臭のようなものがある気がした。

「読み方違った?」

「あ、いや、大丈夫だよ」

「そう?こんなに沢山書けてすごいよね、まだまだある」この人は書くことが好きなのだ、とゆめは思った。そしてそれは良いことだとも。だから、その数秒の間、えりが苦笑の表情を浮かばせていたことにも、全く気づかなかった。後にえりからこの時の話をされてようやくゆめは、この時のことを思い出したくらいで、ゆめにとっては、この日のことは大したことではなかったのだ。人は誰もが常に、忘れた日々を死んでいる。そしてその忘却を、いつもいつも、恐れている。


 四月九日


演じるのが下手なあなた

決められないわたし


うってつけの理由があるはずなのに。嘘が嫌なの?嘘は嫌だけど、嘘とも言えないもの。でもほんとでも、きっとない。わたしの知らない間に、たくさん嘘は生まれてる。わたしも知らない嘘が、たくさん。見えないふりをしてるだけなのかも。買い物帰り、灰色がかった毛玉を見かけた。手のひらに乗るか乗らないかくらいの大きさだった。毛玉は今にも動き出しそうな様子で蹲っている。わたしはしばらく、その丸まった毛玉を眺めていた。けれど彼は、いつまでたっても動かずにいた。


 えりはこの時、この日のことを、自分のことのように思い返していた。まだ肌寒い薄暮の帰り道だった。すでに叔父は死に、それは私に与えられた。目的も意思もなく、ただ文の中に漂っていたそれを、私は容赦なく受け取らされた。叔父は死んだ。けれど、叔父は死ぬことも、生きることも、できなかったのではないか。えりは黙って、ゆめの声に耳を委ねていた。


 四月十日


雨が何かを叩く音が四方から聞こえる。温もりの中で、少し冷えた身体が定まらずにいる。身体の表面の、その更に外側だけが微かに震えていた。彼女は言葉にする。彼女は向かい合う。彼女は決意する。苦しまないように逃げていた、わけではなかった。考えないようにしていた、わけでもない。考えないようにする、ことすらも考えてはいなかった。わたしって能天気なのかしら。冷えた彼の手が少しだけ柔らぐ。そうして彼女は、彼に背を向けて歩き始めた。身体の震えは、どこにもなかった。


「お別れみたいだね」ゆめが言う。

「違うよ、出会ったんだよ」えりは反論する。ノートは捲られる。日はすでに、西の空に傾いていた。


 四月十一日


 鯉の表面から剥がれ落ちたぬめりが、古池を照らつかせている。ぬらりとした水だった。足元に集まる鯉の群。水面に浮かぶその口元の、でらでらした橙色。口の両端から生えた四本のひげ。眺めていると、口先十センチくらいが、滑らかに伸びた。右の方に一匹だけ岩に張り付いて、狂ったように苔を貪るやつがいる。どこの世界にでも、こういうやつはいるものだ。

 気づけば膝の上で、猫が震えている。いや、震えているのはわたしの膝かもしれない。混じり合ってどちらのものかわからなくなった。息をしている。わたしも彼女も。猫は年老いている、ような気がする。猫に詳しいわけではない。三毛だろうと虎毛だろうと同じことだ。目元には治らずにこびりついたかさぶたが垂れていて、右耳は半分欠けている。彼女はゆったりとわたしの膝に座って、静かに寝息を立てている。近づいて、離れて、ぬるい体温が混じり合う。少し肌寒い朝方のベンチで、わたしは彼女の毛を撫でる。


「どこかの公園かなあ、えりちゃんわかる?」えりは塑像のように黙っている。ゆめが肩に触れると、えりは見知らぬ誰かのような顔でこちらを見た。まるで狭い歩道ですれ違い、お互いを避けるために目を合わさざるを得なかった、そんな不可避の伝達をゆめは感じた。えりはすでに、何事もなかったかのような顔でゆめに疑問の顔を向けている。

「えっとさ、この鯉とか猫とか、どこかの公園なのかなって」

「御苑、よく膝に乗ってくる猫がいるから」

「へえー、そう、なんだ」

「なんか、かわいいね、一緒に寝るとか憧れるなあ」

「かわいくないよ、一緒のふりしてるだけ」

ゆめはえりの方を見た。困惑と嫌悪を手元に隠しながら。

「どうしてそんな言い方するの?」

「どうしてって……」えりはゆめの顔の、右の方をぼんやりと眺め、それからまた正面に向き直った。

「そう、思ったから」

「急に、どうしたの?」

「何が?」

「えりちゃん、怒ってるの?」

「ねえ、ゆめちゃん、わたし、いつか死ぬんだって」

「何、急に……そりゃ、わたしもいつかは死ぬけどさ」

「叔父さんが死んで、叔父さんとわたしは、同じ人じゃないんだなって。死ぬ瞬間になっても、わたしは、誰かにはなれないんだなって」えりの顔が、うっすら白んでいくのにゆめは気づきかけた。ただ白というより、澄んだ透明に近い色だった。けれど目を逸らせば、ゆめは全てを忘れていた。

「これを読めば読むほど、叔父さんは、いなくなっていくの」

「私たち、こんなに違うから」えりは砂のような笑いを漏らした。

「違うからこそ理解し合うのが人ってものじゃない」ゆめは少し口を歪めながら言いやった。

「そうなんだろうね……私、もう帰るね。ノート、ゆめちゃんが持ってて」えりは立ち上がり、部屋から出ていった。開いたままの扉からは暗闇が覗いていた。

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