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伊富魚

I

 

 七月三十一日

 

 暮れ泥む凪いだ海と金平糖のように静かな砂浜で最後の息をしている。人は見かけによらぬものらしい。滑り台の階段の手摺に掴まっている人と眼が合った。驚きの表情にもなりきらない、薄く整えられたあの人の眉は眼よりも先に彼女を捉えて、怖気をふるいかけたか一瞬身震いの気配を含んだ。これは少し幻想かもしれない。身体は既に地面に向かって飛び込んでいる。彼女の落ちる前に地を覆わなくてはならない。柔らかな何かを、夏の熱とコンクリートのふやけたにおいが不快だ。顔を擦るかもしれない。あるいは滑りきらずに首を巻き込んでこれまでかもしれない。しかしこんなことを考えていたのも果たして飛び込んだ後だった。背後に彼女の飛び込むのをじっと見ている影がある。どうやら彼女の抜け殻のような、あるいは残像というのがいいだろうか、そんな風に見える。私は二人いたのだったか、三人、それとももっと多くの……いや、そんなことはあり得ない。私は確かに今、彼女の死の際に飛び込んでいる。私は私だろう。ならばこの影は一体誰か。影はこの二人すらも、中空で覗いているという……

 死の際に飛び込んだにもかかわらず、いまだに、彼女のことは思い出せない。彼女のことは、何も知らない。

 その公園は郊外の住宅地の中にあった。四つ辻の一角につくられた簡素な公園だった。どうやら二〇〇〇年代の初頭にこの区画の建売住宅とともにできたらしい。荒涼たる娯楽施設ほどうらさびしいものはないが、そういう場所には自ずと蘇生の兆しも同時に含んでいるものだ。私の生まれた町の公園ではない。育った町でもない。歳を重ねて居ついたこともない。しかし何かを憶えているような気もする。子どもの頃、おそらく五歳か六歳あたりのことだ。ちょうど今のような夏の盛りだった。整理された区画の中を、誰から逃げるともなく走っている。同じような面をした平らかな家々が両側から迫りかかるように聳えている。ちらちらと後ろを振り返りながら、自分以外誰もいないことを確かめて、また陽炎の中を駆けていく。淡い海の中層のようだと今なら思ったかもしれない。あの光景の端にあった公園だ。右手に見えてくる。コンクリートの外壁の谷から突然現れたのだった。彼女は誰もいない公園の真ん中に一人で座っていた。ノートを地面に置き、必死に何かを書きつけている。異様な光景だった。

 やはり私は、彼女のことは何も知らない。おそらく知り合いですらなかっただろう。まして恋人なんてものじゃない。しかし私は、この身を彼女の元に投げ出している。どうしてこうなったのだろう。

「どうしたん」うつむきかけた顔を上げると珈琲のカップを両手で持った彼女が、口元にそれを近づけながら、訝しげに見つめていた。数秒のことだったらしいが、わたしのことずっと見てたよ、と彼女は笑った。物書きが稚拙な文を恥じて黒でかき消すように、私の肌は湿った。

 笑いはじめが肝心だ。慎重に、それから真剣に、その動きを見つめていなくてはならない。下手をすると崩壊へ振れる。外では腐食しかかったコンクリートを背に、蝉が脚をばたつかせてもがいている。たしか腐敗は、内から進んでいくものらしい。裂け目が見えはじめた時には、建物自体すでに手遅れになっていることも少なくないという。そんな狂気の境にある。排水溝を流れさる際の、渦巻く汚水の姿が僅かに浮かびかけた。笑い損ねた顔ほど醜悪なものもない。それだけでなく実際には、意識は自己を覆い、相手をよそに、常にその笑い顔を気にしているということもある。なんと淫らな行いだろうか。

 対話というよりもむしろ呟きに近い。自己の内から出るか出ないかの境に置かれた言葉のようなものかもしれない。近年の会話に尊敬語と呼ばれるものが薄れてきているという誰かの苦言は、この方面からみるのがよいかもしれない。単に老年を敬う気持ちの欠落などとするのはいささか短絡的だろう。コミュニケーション能力の劣化、とは言えなくもないけれど、内面を保持しきれずに、それを自身のそばに囲い込みながら、ガラス張りのショーケースに陳列された宝物のように話す類のもののようだ。対話を知らぬ若者よと仰るが、ごもっともで正しく、対話の中の沈黙をよほど嫌っているらしい。人と向き合っている最中、ふとこの張り詰めた沈黙が降ってくる。この仮定こそ、当人にとっては空恐ろしいものだろうが、この時、彼女は静かに狂っていく。といっても、普段の生活を保持しようと奇妙な反復を繰り返す、極めて静かな狂気だろう。彼女は沈黙を叫び始める。切迫した用のあるが如くスマホを触るのは、あるいは生の反復を、淫らに確かめているのかもしれない。それから、カップに手を伸ばして、渇いてもいないはずの咽喉に珈琲をおし広げていく。私はどうして今、彼女と一緒にいるのだろう。私は、なぜこんな、理屈臭いことを並べ立てているのだろう。これは本当に、私の記憶だろうか、と窓の外を眺めている彼女の横顔から、そんな疑問がふと浮かぶ。この光景は、いつ頃のものだろうか。それともまた、私の幻想なのだろうか……珈琲の湯気がうつむいた顔に貼りついて冷えていく。夏は盛りだった。窓の外を見ると、涼しげな空に雫の反射のような白い光点がちらちらしている。雪の降っている午後、山中の旅館でもこうして窓を眺めていた気がしてきた。向かいにいるのは……そこで、ぷつりと跡切れた。うたた寝のあとのような気怠さが降り、睡気が後から湧いてきた。これが彼女の、最後の記憶だった。


 ノートの表紙を、えりはもう一度見返した。「声のはじまり」と書かれた薄い青色の表紙は、かなり色褪せている。こういった装飾なのかもしれない。薄く残った埃を厭いながら、えりはそれを机の隅に戻した。カーテンから昼下がりの光が差し、机の四隅を照らしている。

「面白くなかった?」

「うーん、ゆめちゃんがどう思うかは分からんけど」

ゆめは置かれたノートを取り、パラパラとめくった。

「へえ、なんかいっぱい書いてあるね。これ叔父さんのなんでしょ」

「多分、そうやと思うけど」

「こんなに書いてさ、作家とかになりたかったのかな」

「さあ、叔父さん自分のことあんま喋らんかったし、それに、こんなにって言うほどの量ちゃうよ、たぶん」

「えー、そうなの?えりちゃんは何でも知ってるねえ」

「はいはい、もういいでしょ、帰ろ」

えりが部屋の戸の方へ向かいかけると、ゆめはえりの右腕を掴んだ。

「ねえ、これもう少し読んでいこうよ。いいこと書いてあったらさ、本にできるかも」

 

 今年の七月の末に、このノートの持ち主、つまりえりの叔父は死んだ。原因は事故であったそうだ。独り身で京都に住んでいて、えりは時々彼の家に寄って本を読んだりしていた。八畳ほどの部屋の隅に座椅子と文机を寄せて胡坐をかく背中と、残りは、本棚か床に雑然と積み上げられた分厚い本ばかりが、えりの記憶に留まっていた。今日、死んでふた月と少し経った叔父の家に来たのは、祖母から、つまりは彼の母親から、本いっぱいあるしえりちゃん欲しかったら持ってってええよ、と電話があったからだった。上京区にある彼のアパートは、埃を除けば簡素で質素な部屋に見えた。

「いいけど、夕方までやからね」

「わかってるって、あ、詩みたいだよ、じゃあ詠みまーす」ゆめは咳払いして息を吸いこんだ。


 三月一日


春の予感を乗せた陽に

冬の名残を含んだ風が

ほてった肌を快くなぜる


昼下がりに光る芝の上に

他愛のない声を放る季節

寂しさをほんの少し照れ隠して

温い昂奮と別れる季節

ほんのり薄白い膜が視界にかかる

ふわりと痛くて優しい季節


耀葉が靡いて風が鳴る

白い天井に揺らめく波に

風が気づいて吹きはじめる

粒まじりの風に此春が舞う

そういう風にできている


僕は窓から

淡く澄んだ空に覗いて

どこから届いた大きなくしゃみを

冬にひとつ 春にひとつ


「なんか、優しい感じだね叔父さんの詩」

ゆめは長く息を吐いて目の前に掲げていたノートを下げ、えりにちらと目をやった後、もう一度ノートに目を戻す。えりは本の積まれた隙間に座り込んで黙っている。

「優しい感じっていうか分からんけど、なんか、鼻につくなあ。叔父さんってこういうの好きだったっけな。あとさ、キヨウ?って何」

「キヨウはねえ、「カガヤク」に「ハッパ」で「耀葉」だと思って読んだんだけど、なんだろう、分かんないや」言いながらノートをえりの方へ向けてみせた。

「へえ、なんかカラフル、知らんけど」

「カラフル?」

「陽とか葉とか波とか風とか、聞いてたら分からんかったけど、文字で見たらカラフルやなって」

「えー、なんかえりちゃん、詩人みたいだねえ」

えりは顔を上げた。ゆめは話しながら、次の瞬間にはノートの方に目をやっている。

「一人で書いてそのままにしてあったんやし、単なる雑文だよ」

「そうかなあ、でもなんか、卒業式のこととか思い出すかも」

ゆめはページをめくりかけて、それからくしゃみをした。

「へへ、じゃあ次ね」ゆめの声は丸くて大きい。喉につかえることなんて知らない声だな、とえりは思う。赤子の泣き声のように、そしてその笑い声のようにゆめは詠む。まるで息をするように自然で、無知で、それが全てであるように。


 三月二日


春の亡霊に拐かされて

遠く近い鈍痛が脳髄に谺する

強張らないでわたしに委ねて

彼女の声に恍惚を知る

家から五分の河川敷で

転がり唱えた言葉は

いったいどんなだったかしら

土に身を鎮めて

完璧な自然と眠ればいいの

それともこの地に足を張って

欠けてばかりな僕と生きればいいの


 ゆめは、そのまま次を詠み続けた。


 三月五日


春の雪は

痛ましいほど

軽い

落ちることも止まることも

許されない

春の雪は

ひどく白い

悲しいほど 

白い


「さっきより、悲しくなっちゃったね」

「ほら、もうやめときって。死んだ人の詩なんか」

「だってさあ、これ私たちが見つけなかったらもう捨てられてたんだよね。正直良さとかは全然分かんないけど、わたしはまだ生きてるし、詠んであげたい」

「そら今後どこでも詠まれへんやろうけど、詠んでほしいと思ってたかどうかも分からんやん」

あ、それもそっか、とゆめはキョトンとした顔でえりを見た。

「まあでも、叔父さんのこと少しは分かるかも知れないし、ね」

えりはゆめの顔をちらと見て、それから叔父のことを思い起こしかけた。十年くらい前まではよく両親と一緒に遊んでいたと、ちょうど数日前に叔母から聞いた。えりが六歳、ゆめが十三歳の頃らしい。その頃の曖昧な記憶では、叔父はいつもえりの視界の端の方で何かを眺めながら、たまに一人で笑ったりしていた。ゆめが叔父に寄っていって話しかけると、ぼんやりと見遣りながら、慎重に言葉を選んで話していたような気がした。あの人は一体、何をしていたのだろう。えりは白いカーテンの揺れるのを見ていた。その為か、次を詠みかけるゆめの頬の、ひどく赤いのに、何となしに気づいた。


 三月八日


今までなら一人きりで

歩こうとしただろうこんな道を

あなたと二人で歩くことができたなら


足元にこんもりと出っ張った

広葉樹の根のあることを

伝えることができるだろうし


澄み渡る青空と

緑陽の視界に目を細めて

自ら頬を綻ばせる様を


何の躊躇いも用せず

あなたに投げかけることもできるのだろう


あるいは酒に酔った時のように

あるいは全力で走った後のように

声の箍がふわりと外れた


最後のあとにだけ搾り取りうる

純粋で濃厚な一滴


その苛烈な一滴が

手に入るような気がした


 ゆめの背に血のような陽が浮かんでいる。その影の濃くなるにつれて、じわりと辺りが遠のくような気がした。

「ふう、暑くなってきちゃった」

「窓からの風だけやと、さすがにね」

「叔父さんはさ、何考えてこれ書いたんだろうね」

 死人の考えを追うことの無益さを、えりはすぐに思いかけ、今も緑陽の視界に……とつぶやくゆめを侮笑しかけたが、死んでいることと生きていることの区別だって大してついてやしない、と思いなおし……叔父の詩をもう一度詠み直してみる。

「二人で歩くことができたなら、ってことはさ、この時一人で歩いてたってことなのかな」

「広葉樹の根とか出てくるし、森とか山とかにいたのかも」

「あとさあ、声の箍って何なんだろ?タガで合ってるのかな、何となく流れで読めちゃったけど」

合ってると思う、と言いながら、えりは叔父のことを思った。叔父も、声が出せなかったのだろうか。それとも単に、詩の中でだけの作者に過ぎないのだろうか。最後のあと、とは一体何だろう。叔父の死んだあとにも、何かが待っていただろうか。あるいは今も……

「疲れちゃった?」ゆめの顔が覗き込んできた。

「あと一つくらいにして、残りはまた今度にしよっか」

「そうね、もう夕方やし」えりは身体の重くなるのを感じながら、ゆめの息を吸う喉の動きを見やった。


 三月二十五日


子どもがふたり、わたしの両隣で寝ている。もう夜も更けて淡い青が広がった部屋に、四歳くらいの男の子と、まだ男か女かもはっきりしない赤子。左側にいた男の子が寝返りをうつ。昼間放散し損ねた重みを投げつけている。ところでわたしには、この二人が誰の子どもなのか全く分からなかった。


 叔父には子どもはいなかったはずだ。完全な空想の中の話だろうか。男の子の寝返るのを見て、それから赤子の方に意識がいく前に、誰の子どもか分からない、と雑な終わりで投げ捨てている。どうしてもっと、彼らを真剣に見てやらなかったのか、とえりは、怒りにも似た、しかし的外れな笑みを漏らした。

「なんか、寂しそう」

「実際に誰の子か分からなかったのかもよ、不倫してたとか」

「えー、叔父さん嫌い」ゆめは闇穴に落ちたように答えた。

「いや冗談やけど。まあどうやろ」

「まあいいや、とりあえずノートは持って帰って、また明日ね」ノートの閉じた音に目を上げると、ゆめはカランと笑っていた。


 十月五日 天気 晴れ

歩く。遠く遠く歩いていく。裸足の指の隙間に細かな砂が擦れる。一歩、また一歩前へ投げ出す。前ってどっちのことだったろう。立ち止まって辺りを見回しても、どこも砂、砂、砂……もう止まってしまいたい。けれど止まれない。なぜ、なぜだったろう、歩きはじめた頃を忘れ、歩き終わる時季も忘れた。それから、それから……


 先が書けずに、えりは椅子にもたれて息をついた。音のない部屋に、椅子の軋みはよく響いた。どこかで、振子時計のような音が鳴り始めていた。


それから、星が消えて、丘が消えて、砂も消えて、足も消えて、それから海に変わって漂いはじめる。留まる丘はなく、踏みしだく砂もない。何もない。それから、ついに、死んでいる、となるのです————


 あのノートの中身を書いた叔父が本物なら、とえりは、彼の生きていた毎日を想像しようと試みるけれども、それは肉体としてあった叔父の、骨張った背中とは少しも噛み合わない。ただその肉体の奥に開かれてあったであろうノートの中には、この日読んだ文がちゃんとそのまま、ぼやけている視界の焦点が、水晶体によってピタリと合わせられ、えりの閉じられた目に映るのだった。叔父の顔は、ノートに屈んだ影でよく見えなかった。見られもしないノートを書いて、何か意味があったのだろうか。叔父は、まだ生きたかったのだろうか。部屋の灯りを消して、窓を開けた。どこからか車の音が聞こえる。信号の光が差し、部屋の中に散っていった。救急車の音が、遠く近くでうねりはじめる。海の底に響く声のように。それは漂い、漂い、そしてわたしのところまで届いて、わたしの身体をうねらせ、震わせ、それから、素知らぬ顔して去っていく。えりは震えの行き先を決めかねて、呆然としていた。すでに四時を過ぎていた。夜はまだ明けない。

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