第2話 深淵


 私は奴を見て腸が煮えくり返る思いだった。奴の醜悪な面を見て、ため息をついた。なぜ、こんな思いをしながらも奴をコソコソと嗅ぎ回らなければならないのか。こんな事は辞めて奴に直接罵声を浴びせてやりたい。そう思いながらも、こうして監視を続けるのには、ある人との約束があるからだ。  あれは五年前、私が大学の入試は向けて必死に知識を詰め込み、一点でも多くの点を取ろうと藻掻いていた時のこと。奴も受験生であった。奴は優れていた。模試ではいつも成績上位であった。そんな姿を見て、私はいつも奴を目標とし、がむしゃらに勉強をして模試を受けては、目標を意識しながら成績を少しずつ上げていった。追いつき追い越すまで、そうするのだと思っていた。

 

 初めはにわかには信じられなかった。誰もがどうしてと思うだろう。だが、私は確かに見たのだ。先生に分厚い封筒を渡しているのを。とはいえ、これだけではまだはっきりとしたことは分からない。だが、思い返してみればおかしな点はいくらでもあった。定期試験では奴の席を通りがかった時には机上の回答用紙に違和感を感じたり、普段の授業では寝ていて、いつも口を開けば下らぬ話ばかり、にもかかわらず、テストでは九十点台を割ったことがなかったり。普通その様な生活をしている生徒は高得点を取ることはおろか、赤点回避がやっとだろう。とはいえ、あやしいと思う根拠はこれだけであった。また、嫉妬も含まれていただろう。別に彼がそのようなことをしていても、私には関係のないことだ。と、その時は考えるのを止め、勉強を始めた。

 だが、これが謬りだったのかもしれない。私には当時、真央という友人がいた。幼い頃から家が近く、よく一緒に勉強したり、遊びに行ったりした仲だった。私達はその人生において多くを共有していた。家族と言っても過言ではなかった。

 

 そんな彼がある時を境に姿を見せなくなった。私は初め、風邪か何かだろうと思い、早く良くなると良いなぁなどと楽観的に思っていた。しかし、一向に姿を見せることはなく、月日が過ぎ去っていった。そうして何ヶ月か経った後、真央が遠くへ引越たことを同級生から聞いた。長い間会っていないせいか、あまり感情が刺激されることはなく、「そうなのか」と妙に納得して終わった。

 だが、一通の手紙が私の下に届いた事で状況は一変する。そこには、私への別れの言葉と奴への恨みの言葉が書かれていた。どうやら、彼も、奴と先生の不正を見て、その場で二人に詰め寄ったらしい。当然といえば当然だが、二人は何でもないと言ったが、彼は引き下がらずに封筒を見せるように迫ったらしい。先生は慌てて封筒を隠し、すかさず彼がそれを追及する。それでも「そんなものはない」としらを切り続けるので痺れを切らして、封筒の中身を見ようと手を伸ばしたところ奴は大声で叫び、駆けつけた他の教師達にまざまざと見せつけるように、真央の賄賂をでっち上げた。「真央君が先生に封筒を手渡しているのをみて、大声を出してしまいました。」などとのたまったに違いない。

 その後、真央は退学処分となり、先生は懲戒免職となった。真央の弁明が聞かれることはなく、その時居合わせた教師共が奴のわざとらしい振る舞いに疑問を持つことはなかった。彼はお世辞にも成績も良くなく、授業をさぼりがちだった。成績優秀で素行も良い奴の言い分を信じる先生。理解できなくもないが、納得はしない。その後は、真央が先生に賄賂を渡し、便宜を図ってもらっていた事にされ、どれだけ悔しかったことか。今読み返しても、腹立たしい限りである。

 真央の父親は、真央が賄賂を渡していたと信じ込み、大変激昂し、遠く離れた地で一から教育し直すなどと、のたまい郷里へと彼を連れ去っていってしまった。(そんなお金は無いと考えれば分かりそうなものだが。)そこでの生活で気を病み、彼は今や完全な引籠りであると母から聞いた。どうやら母の親戚がいるらしく、何をしても行動が筒抜けな田舎なので、話が流れてくるらしい。この話を聞い瞬間、あの時とは違い、ドス黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。

 私は机の奥深くにしまっていた手紙を取り出した。すると、今の今まで気が付かなかった、一枚の手紙に気がついた。そこには、奴の情報が事細かに記されていた。これを見た私は、真央の代わりに復讐をすることを決意した。

 そうして私は、決行の時期、場所、その他の手はずを整え始めた。当時、受験を終え、大学に進学できることが決まっていた為、大学を出てその後、奴と同窓会で再会した時に奴と接触しようと決めた。そうすれば、偶然を装い、当時の事を聞けるかもしれない。大学時代は、サークルやバイトに明け暮れ、とても楽しく過ごした。就職活動は、とても大変であった。というのも、奴への復讐のため、就業時間が柔軟に変更できる会社でなければならなかったからだ。まぁ、自分の理想が高かったのもあるのだけれど。

 入社してしばらくは、慣れないことが多く、上司や先輩には迷惑をかけてばかりだったが、二、三年も経つと、ある程度仕事がこなせるようになっていった。正直、奴への復讐のことは忘れて、楽しく過ごしていたように思う。

 私は幹事に奴が出席することを確認し、計画を練り始めた。復讐、というものだから重々しい気持ちになるのだろうか、と思ったが、そんなことはなく、むしろ少し愉しささえ感じていた。

 同窓会当日、私は仲の良かった友人達と歓談しながら、奴と接触する機会を伺っていた。奴は酒を飲み、少し気が大きくなっているように見えた。

 私は逸る気持ちを抑えながら、奴に近づいていく。すると、私の目の前に立ち塞がる者がいた。不審に思いつつも、脇から通り抜けようとした時、「やめておけ」と言う声が聞こえた。困惑しながらも、私は歩みを進める。早足で、あたかも旧友に再開するかのように。

 奴に声をかけた。奴は、やや困惑しながら、やや他人行儀な返答をした。奴が私を知っているか走らないが、分からないのならば好都合だ。 

 と声をかけようとしたものの、私は人と話すのが苦手なのだった。どうしたものかと困っていると、そこへ友人が声をかけてきた。

 救世主である。利用するようで心が痛むが、適度に会話に参加し、情報を引き出させてもらおう。

 話を聞いていると、どうやら友人は、奴と知り合いであるらしかった。冷や汗が流れる部分があったものの、大方知りたかった情報は、聞き出すことができた。奴に反省などなかった。私は復讐を実行することに決めた。

 私は、それを元に奴の身辺を精査する事にした。奴は独り身で、駅近の小さな借家に住んでいるようである。近所づきあいはあまりせず、仮に奴が、窮地に陥っても、共に不幸になったり、苦しい思いになる人はいないだろう。いたところで、復讐は完遂させるのだが。私の心が少し軽くはなる。

 奴の勤務する会社は、所謂ブラック企業で、サービス残業は当たり前、それでも終わらない程の仕事量があるらしい。奴はこれで、かなり疲弊し、復讐をする気も失せるほどに、くたびれて、みすぼらしい姿になっていたが、それとこれとは関係ないと思い直し、綿密な計画を立てていった。

 まずは、その事実を会社に報告した。これで、何らかの動きがあるとは思っていない。人手不足で、とても解雇できる状況にないからだ。

 次に私は、ネットを駆使し、事の顛末を公表した。しかし、この情報が広まることはなく、失敗に終わった。奴の勤務先は、大企業の下請け業者であったため、週刊誌に載せてもらおうとしたが、証拠が不十分であるとして、拒否されてしまった。真央からの手紙の中には、証拠になりそうな物はなかった為、自分で証拠となるものを探し出さなければならない。

 そう意気込んではいたものの、全くもって収集する事ができなかったのである。正直予想はしていた。なにせ、その時奴が先生に賄賂を渡していたのを目撃したのは、真央だけであったからだ。当時、学園に在籍していた生徒に当たれるだけ当たってみたが、誰もが知らないと答えるだけだった。また、奴が真央に罪をなすりつけた現場も、後から来た教師陣だけがいたのであった。そんな中、証拠を見つけることなど、不可能であったのだ。段々気持ちが沈んでいくのを感じる。自分に出来ることは何もない、と言われたようで非常に悔しく思うが、どうしようもないものは仕方がない。

 正当なアプローチからの復讐は諦め、手段は選ばないことにした。とはいえ、これはリスクを伴うことだった。考えれば当然のことであるが、覚悟を決めるのには時間がかかった。

 そうして私は再び策を練り始める。慌てずとも、奴は逃げない。情報も大量にある。勝てる勝負である。もっとも、力の持たぬ一個人に対し、奇襲をかけるのだから当然ではあるのだが。なぜか胸が高鳴るのを感じながら、策を立てていた。

 私は奴の勤務する会社に、必要な嫌がらせを続けたり、奴の家のポストに白紙の紙を毎日投函し続けた。すると、奴は会社でいじめを受けるようになり、みるみる内に、痩せていった。さらに追い討ちをかけるように、私は白紙の紙を毎日少しずつ、薄い赤の色に染めていった。ところが、あまり効果がなかったようだ。ある時から、ポストに投函されているものが、回収されずに残るようになった。会社では、それまでにも増して、残業することが多くなり、家に帰ってきても眠るだけであったのだろうと思い、特に気にしなかった。苦しんでいるのであれば問題はない。

 そうしている内に月日は立ち、半年が経つという頃。私は最後の仕上げに取り掛かることにした。その日は早朝から奴を監視し、昼間十二時の時間になったら、奴の会社前でそれまでの悪行を暴露する。大声で。これは私にも被害が及ぶかもしれない諸刃の剣であるが、現状私が考案する策の中で、最大の効果を発揮する。そりゃそうである。公衆の面前で注目を集めれば、糾弾された側の印象がなんとなく悪くなることは、想像に難くない。普段全く関わりのない人間も、興味を示し、ある者は正義感から、ある者は義憤に駆られて、ある者は状況を整理しようと事情を聞こうと動くだろう。そうなれば野次馬が集まることは必然。奴を再起不能にさせるには、最早こうするしかないのだ。

 これから私がしようとしている、事の重大さに押し潰されそうになりながらも、逸る心を落ち着けながら、奴の動向を監視する。毎日残業だらけだというのに、電車の中でも仕事とはご苦労なことだ。まぁ、私がそうさせたのだが。そのうち奴は仕事を終え、眠り始めた。私も、ここ最近は奴の監視で睡眠が取れず、眠りたいところだが、そうもいかない。奴の脱力しきった顔を見て、自分を奮起する。血管が浮き出るほどの、胸の高鳴りを自覚する。とても目は冴えていて、頭は超速で回っている。

 かなりの時間が経ち、奴の会社の最寄り駅に到着したのだが、全く奴の起きる気配がない。奴が会社にいかなければ、この計画は失敗に終わる。とはいえ、私が奴を起こすわけにもいかない。なので、起きるまで待つことにした。私としては、十二時までに会社に居てくれれば良いので、気長に待とうと思っていたら、奴がいない。というよりも、誰もいない。

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