Episode 2 【蜃気楼の夜】
【蜃気楼の夜】
──外は暗い。また夜がきた。
ここ数日、彼らにとって、夜が消えたも同然。かつて征した漆黒の夜に、ただ息を潜める事しか、出来なくなったのだから──
小さな足音が廊下に響く。ゆっくりと進む足音。眠そうな瞳……──
そう眠たそうにしているのに、やはり足音の主は、廊下を歩き続けていく。──女はそのまま歩く。そうしてしばらく廊下を進むと、そこに一人の男がいた。
男は開けた窓から外を眺めながら、タバコを吸っている。
女は少し駆け足で、男の元へと向かった。
「……純くん」
「ドール? ……」
ドールが駆け寄って来た事を知ると、純はすぐにタバコの火を消した。
「まだ起きてたのか?」
「だって純くん、どこかに行っちゃうから……来ちゃった」
「タバコ吸いに来ただけ」
「……ドールも吸うぅ!」
「は? お前ただの好奇心だろ? ドールには合わない」
いつもの事ながら、何も分かっていない様子のドールだった。
「なぁドール、もう眠いか?」
「ぅん……眠いけど眠くないよ」
「どっちだよ?」
「ドールまだ寝ないよ」
「……なら良かった。場所移して、少し話さないか?」
一体何の話をしようと言うのか? ──
さておきドールが、嬉しそうに笑った。また、遊んでもらえると思っているのだろう。
──こうして純とドールは、二人で屋上へとやって来た。
「わぁ! すごーい!」
ドールは屋上からの景色に、はしゃいでいる様子だった。
「お前寝ぼけてんだから、屋上であんまり暴れるなよな……」
「ドール、もう起きてるよ」
濃紺の夜空を背景にしながら、ドールが笑顔で振り向いた。
「いいから、座れよ」
純に手招きされて、ドールが駆ける。
〝話をする為に〟と、二人で屋上のベンチへ座った。
「ねぇ純くん、何かお話ししてくれるの?」
「お話しというか……聞きたい事があるんだ」
「聞きたい事?」
「……もし言いたくなかったりしたら、別にいいんだけどよ……」
純は聞きづらそうに話す。
「それってなに?」
ドールが不思議そうに、純に真ん丸い瞳を向けた。
「……ドールは、本当に
「え?」
ドールが首を傾げた。仲間以外の何に見えるから問われるのか、それが分からなかった。
「例えば、誘拐されてきたとか……」
純からしたら、やはりドールがレッド エンジェルの仲間である事が、信じがたいのだ。
「誘拐?! ……うぅん。違うよ。キャットもアクアもウルフも、ドールのお友達なの」
“お友達”という言葉が、ドールにとって仲間という意味なのは、明らかだった。
「けど……ドールは違うんだよな?」
「ん? 何が?」
「ドールは実際、組織の一員として、仕事をする事はないんだろう?」
「……ないよ」
「よかった……」
純は胸を撫で下ろした。けれどドールは、不安な表情をする。
「ねぇ純くん、もしもそうじゃなかったら、純くんはドールの事、嫌いになっちゃうの?」
「……何を言ってるんだよ?」
すると純が、ドールの頭を自分の方へと抱き寄せた。
「そんな訳ねぇーだろ……」
安心したように、ドールの表情が、穏やかで心地よさそうなものへと変わる。
そのままスッと、ドールが純の膝に頭を乗せて、寝ころぶ。そうしてドールは目をとじたまま、呟くように話した。
「ドールね、キャットたちの事は好きだけど、もう嫌だの……怖いの。あの組織が怖いものだって……知ってるんだ」
純は瞳をとじたドールへと眼差しを落としながら、ドールの話へと耳を傾けている。
──そうしてドールは、更に呟いた。
「はじめから、純くんと逢っていたかった……」
ドールの瞳から、静かに涙が流れた。
純はただドールの言葉を聞きながら、優しくドールの頭を撫でている。
しばらくすると、ドールは小さな寝息を立て始めた。
「……寝たのか?」
「……――」
ドールからの返答はない。ドールは心地よさそうに眠っていた。
その寝顔が可愛らしくて、ついドールの事をじっと見ていた。──そうして少しすると、ドールが起きないように配慮しながら、そっとお姫様抱っこをした。
「仕方ねぇーから、部屋まで連れて行ってやるよ」
寝ているドールにそう言ってから、純は部屋へと向かい始める。
起こさないように、ゆっくりと歩いた。ゆっくりと階段を下りて、ゆっくりと扉を開ける。
だんだんと自分の行動が、不思議にも思えてくる。息を潜めて慎重に、あまり揺れないように気を配りながら歩く──何をそんなに守りたくて、慎重になるのか……──それは、心地よさそうに眠るドールの事を、このまま寝かせてあげたかったから。それだけだった。それだけの為に、こんなに必死になっている、自分が不思議だった。
自分にとって、ドールがどんな存在なのか、それを考えてみても、よくは分からないのに……
──そうしてなんとか、ドールを起こさずに部屋までたどり着いた。
月明かりのおかげで、部屋は真っ暗闇ではない。なので、電気をつけなくてもベッドの位置が分かる。
そのまま光をつけずに、ベッドへとドールを連れて行って、そっと寝かせた。そうしてドールに布団をかけてあげようとした。その時……
──コツン……
ちょうど寝返りをしたドールの手と、布団をかけようとした純の手が、小さくぶつかった。案の定、その衝撃でドールが薄っすらと瞳をひらいてしまった。
純は小さく舌打ちをして、ドールとぶつかってしまった自分の手を、不機嫌そうに見ている。
あれだけ起こさないよう連れてきたのに、最後の最後でヘマをやらかした、自分の手に苛立っているらしい。
──だがそうして純が自分の手とにらめっこをしているうちに、ドールがベッドから身体を起こした。
「ごめんな。起こすつもりなかったんだけどよ、この手が……この手というか、俺の手が……」
手を見せながら、純がベッドにいるドールを見た。
開いた窓から入りこむ風が、彼女の綺麗な髪を優しくなびかせた。
──月の光が差し込む……
まだ夢を見ているかのような、彼女のおぼろげな瞳……
瞳はおぼろげで、その身は壊れそうなくらい、儚げに見えた。
けれど、いつもとも違う。 雰囲気が、表情が……
──何かの筋が、スッと通ったような感覚。
今のドールの表情や雰囲気は、子供のそれとは違かった。子供には見えなかった。
起きて間もない無意識の感覚が、本来の表情を覗かせていた。いつの日か昔、ドールが忘れ去ったのであろう。本来の表情……──それは、無意識の潜在意識の中に残っている、もう一人のドールだった。
「……手?」
ドールがしっかりとしない意識のまま、首を傾げながら呟いた。
その声も、いつもより落ち着きのある、大人びた声だった……──
「あっ……そう、手。……起こしてごめん……」
また声も大人なのだから、純は再度困惑したようだ。分かっていた気もするが、こう確証を得てみると、やはり驚く。
するとドールが、前に出していた純の手を、両手で包むように掴んだ。
「手、大きいね」
ドールは眠気が覚めないまま、自分の掌と純の掌を合わせて、大きさを比べ始めた。
「あっ、こんなに大きさ違う」
ドールが純に笑いかける。いつもよりも、上品で大人っぽい微笑みで……
そんなドールの微笑みが新鮮すぎて、純はドールが笑いかけたのに、笑顔になれなかった。見入ってしまっていたから。
「……純くん?」
純が反応してくれないから、ドールは一瞬、寂しげな表情をした。一瞬寂しげな表情をしてから、スッと、合わせていた手を引こうとした……
だか今度は、純がそうはさせなかった。引っ込めようとしたドールの手を掴む。掌を合わせている形だったので、指と指を絡める形になった。
ドールはいきなりの事に少し驚いたらしく、寂しげだった表情を、その驚きの表情へと変えた。
「「…………」」
指を絡めたままの沈黙。“この時間の感覚”。──それがどんな感情なのか、二人ともよく分かっていなかった。
「ごめんっ」
我にかえって、純が絡ましていた指を解いた。
ドールは離れた手を、名残惜しそうに見ている……
「なんだろう?」
「なにがだ? ……」
ドールが自分の手を、胸の位置にあてた。
「
ドクドクと、いつもより大きく脈打つ心臓。さっきまで指が絡んでいた場所を、すごく熱く感じる……──けれど、ドールには意味なんて分からなかった。
「はぁ? “ここ”って心臓じゃねぇーかよ。大丈夫なのか?」
「うん……病気かな……どうしよう……」
ドールがあわあわと、不安な表情をした。
「どんな風に変なんだ? 苦しいのか? ……」
「苦しい? 分からない……何だか可笑しい……いつもより、ずっとずっと動いてる。……ドキドキする…〟」
「は? それって病気じゃないんじゃ……──」
「病気じゃないの? 良かったぁ」
ドールが穏やかに安堵の笑みを浮かべる。
純はもう一度、ドールの手を取った。再び、指と指が絡まる……
「なに? 純くん……」
「いいから……心臓、どうだ?」
「え? ……ダメだよ。また可笑しくなった……」
ドールは困惑し始める。なんだか心がくすぐったいのだ。
──純は指を絡めて、もう片方の手で、そっとドールの髪に触れた。
変に緊張するドールが、一瞬ピクリと動く。
「純くん……?」
ドールが呼んでも、純は答えない。
答えずに、そのまま、スッとドールに顔を近づける──
ドールには何がなんなのか、分からなかった。けれど、緊張がおさまらなかった。心臓はもっと可笑しくなる。顔が熱くなっていくのを感じる……──
──……唇と唇の距離が近くなってきて、自分の中でもソレを求めた気がする──
優しい夜に包まれながら、ドールは初めての気持ちを感じてた。
唇と唇が触れたか触れないか、少しだけ触れている……──
……だがそんな時、タバコの残り香が、微かにドールの鼻をかすめた……──
「くしゅんッ……」
──ゴチンッ☆!!
ドールがくしゃみをした。そしてその勢いで、純に頭突きをしてしまう。
「はっ?! じゅっ純くん!!」
「…………」
無言で視線を反らし、とりあえず、ぶつかった額を押さえる純。
「純くん! 大丈夫?! ごめんねっ……」
「大丈夫……お前こそ大丈夫か? ……」
「ドールは……あれ?! 痛くないやぁ! ドールっ鈍いのかなぁ?」
そう言ってドールが、テヘッと笑った。
純はまたドールをじっと見ていた。純は目を丸くして、言葉を失っている。ドールの表情や雰囲気が、いつも通りに戻っていたから。
不思議な感覚だ。目の前のドールは子供にしか見えない。一瞬、自分の行動が可笑しかったんじゃないか? と、そう思った。……だが、やはり違うだろう。確信した。
ドールは何事もなかったかのように無邪気に笑って、布団にまた寝込ろんだ。
「ドール……お前、さっきの事、忘れた訳ではないんだろ?」
ドールがまた子供のようになってしまって、一気に空気が変わってしまった。先ほどの事を、ドールに忘れ去られてしまったような気分だった。
「ん? ……覚えてるよ」
きょとんとしながら、ドールは当たり前のような顔で言った。
「俺が何をしようとしたのか、分かるか?」
するとドールがまた、テヘッと笑う。
「なんとなく分かるよ」
「ホントか?! 説得力ねぇぞ」
「純くん座って!」
「……ん?」
「「…………」」
すると……
──〝チョン!! スリスリ〞……
「「…………」」
「……は??」
唖然と、目を点にする純だった。
純を座らせたドール……──何をするかと思えば、鼻と鼻のてっぺんをくっつけてから、なんだかスリスリとしてきたのだ。純、呆然である。
そして相変わらず、ドールはニコニコと笑っている。
「これでしょ? 純くんがしようとしたこと♪」
「は? ……てか、この鼻チョンってやつなんだよ?!」
実は、ドールはまったく分かっていなかった。
「え! 純くん知らないの?! チョンってやって、お鼻とお鼻をスリスリするの! コミュニケーションだよ! 〝こみゅにけぇぇしょん!〞──この間テレビで、可愛い動物がやってた!」
「…………」
「純くん??」
「…………」
「?!」
……するとだんだんに、純が失笑し始める。
「どうして笑うの?! 純くん!」
「お前、面白すぎだろ」
「わっ笑わないでよ……」
なぜ笑われているのかは、ドールには分からなかったが、なんだか恥ずかしくなった。
そして笑いながら、純は恥ずかしがるドールの頭を撫でた。
「分からねぇよな。ドールはそれでいい」
純はいつもみたいに、ドールの事を抱き締めてあげた。やはり、ドールは抱き締められる事が好きなのか、すぐに心地よさそうにウトウトとする……──
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何も分からなかった。
高鳴る気持ちの意味も。
鼓動が早くなる意味も。
この温もりを心地よく感じる意味も。
何も分からないけど、確かに今は、幸せを感じている気がしていた……―――
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