Episode 9 【誘惑】

【誘惑】

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 アナタのその瞳・気に入らないね──


 夢の続きの演出は止して。のままだと、言うのなら──……


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「〝ストップ〟」


 キスする直前で、それを制止させる。

 申し付け、脚を組みながら椅子に座るキャット……──


「ストップ。雪哉」


「あ? いきなり何だよ」


 椅子に座るキャットを見下ろす雪哉。それを見上げるキャット──


「ダメじゃない? 雪哉」


「何がだよ?」


「気付いてないかもしれないけど、アナタ、瞳が少し変わるのよ」


「瞳?」


 キャットは椅子から立ち上がって、雪哉の目をじっと見た。そして不機嫌な声を出す……


「少し変わるの……アナタ、そんなんで私に勝てると思っているの? 何が足を引っ張っているのか、分かっているんでしょう? ──」


 キャットは、雪哉にとっての絵梨の存在が何なのか、それに気が付いている──


「そんな瞳じゃダメなの。 それは、大切な何かがある瞳だよ」


 キャットの言葉につい聞き入る。そう、核心を突かれた気がして……──


「アンタの役目は、大切なものがあると、務まらなくなる。……“昔のようには、上手くいかない”。──そうでしょう?」


 見透かしたような言葉を吐いて、キャットは優雅に笑った──


━━━━【〝CATキャット〟Point of v視点iew 】━━━━


 気に入らないけど、人魚姫の存在は、私にとっては都合がいい。

 ずいぶん大切にしているみたいだけど、雪哉の役目からしたら、人魚姫は脚引っ張り──


 大切なものがある奴の瞳は、何か違う。


 そんな瞳をする奴には、この役目は身が重い。


 雪哉が冷静に振る舞おうと意を決しても、それを乱す事は容易い──


 わざわざ、人魚姫の目の前でキスをしたのは正解だね。


 人魚姫の存在が雪哉の中にある時点で、〝この勝負、私が貰った〟。


 ──弱みを掴んでいる。


 雪哉は冷静な顔をして、私の話を聞いてる。……──あくまでも、張り合うつもりかな? そんなんじゃ、アンタの負けだって──


「人魚姫が気掛かり?」


「……人魚姫?」


「そう、人魚姫よ」


 ……何故だか、真面目に“何の話しだ? ”、みたいな目で見られた。──知らない訳ないでしょう?


「人魚姫……」


「知ってるでしょ!」


「知ってる。 人間になるやつだろ?」


「「…………」」


 真面目な顔で、そう言われた。話が通じてない……挑発のつもりで言ったのに……


「違うのか?」


「……ち……違くない」


 ──もうこの話は止めよう。挑発してやろうと思ったのに、拍子抜けよ。……人魚姫の本名、思い出せないし、この話題は伏せるしかないか……


「──続き。もう一度キスするチャンスをあげる」


「お前キス好きだよな」


「悪いわけ?」


「悪くない。ただ……――」


 “ただ”、何よ? 何その態度、何だか腹が立つ……


「ただお前、本当はもう俺に惚れてんじゃねぇーの?」


 ──意地悪な言葉ね。なぁに? 余裕のつもり……? ──


「……惚れてなんてないけど? この勝負はまだまだ続く──」


「どうだか?」


 ──私が睨み上げていると、いきなり腕を引っ張られる。一気に近くなった距離。視線が絡む……──


「なっ何よ……いきなり……」


「なに取り乱してんだ? キスって言ったじゃねーか」


 確かに言ったけれど、勢いがすごいし、いきなり過ぎるのよ……


 ──絡んだままの視線。


 ──その髪色、アンタ似合いすぎる。男のくせに、綺麗……──マズイ……見とれる……ダメ……──


「……ス、ストップ……」


「……今度は何だよ」


 ──“危ない”……とっさに雪哉を止めた。負ける訳には、いかない……


「ストップ……ダメ」


「何がダメだって? もっと近くに来い……」


「……ゆっ雪哉……!」


 また、更に腕を引っ張られた。──何? いつもと違う、妙な違和感……──


 雪哉は私の背に腕を回して、至近距離で私の目を見た。そして私も、感情を探るように、雪哉の目をじっと見てる……──


 ──待ってよ。いつもと違うの。……海を見ていた時とも、また違う──

 何て言うか……威圧的。いつもは何かと丁寧に、紳士に扱ってくれていた。それが今回は、手荒なの……


「キスしてもらいたいだろ? ……」


 そんな目で見つめられたら……──私は

 ……──体がゾクゾクとして、妙な感覚。……何よアンタ? この私の事を、こんなに手荒に扱おうとする男なんて、今までいなかったって言うのに……


「やっぱり……いいから! キス、しないで平気」


 ……射殺すかのような目で私を見下ろしながら、アナタは私の髪を撫でる──

 この私を口説きたいのか、憎いのか……──それらが紙一重になったかのような、冷たく美しい眼差し……──

 ──私の耳のすぐ近くで、アナタが消え入りそうな、囁き声で言う。


「……我慢するな……――」


 その声、感情を煽る……──


 アナタは悪人──……まるで、獲物に銃口を向けるスナイパーのような眼差しで、女を捕らえて、心を殺そうとするの──……


 ──〝知ってみたい〟……──アナタに射貫かれた後の、絶望のような快感を……──


 ──嗚呼、けれどそうだ。今はまだ……──


「……――……」


「……待たない」


 いつもより強引なアナタの振る舞いに、ムダに心臓が跳ねてしまうの……


 ──心は思い通りにはならないのに、アナタと私は、ゲーム感覚で身体を交じ合わせるような関係だ。


 ……下手したら、本当に病み付きになってしまいそうだね──。


 いつまで経っても手中に収め切れないような人を、欲望任せに食らう事が出来る……──至極の喜び・なかなか飽きはしないね──


 ──ああ、駄目だ。〝酔いたい気分を消し去って〟──


 けれど、少しだけ酔ってしまおうか? ……


 違う。ダメ……〝ダメ〟──


 流されるな……──酔ってしまえたら……どれだけ楽? ……──


 ──〝矛盾した思考が交差する〟──


「…………」


 ──けれどそうして、アナタという悪いお酒を舐めてしまおうかと悩んでいると……──唇の触れる直前で、雪哉はその動きを止めた。


「……え? ……」


「……そんなに言うなら、待つ」


「…………」


 素直にそう言って、雪哉は私から離れた。

 ──なんて冷静な表情。この結果、〝気に入らない〟。……──


「まだか?」


「何が……?」


「“待て”って言ってたじゃないか? 早くしくくれ」


「…………」


「早くしろ。俺は大人しく待ってるから、お前からキスしろ」


 ──散々ドキドキとさせておといて、散々思考を弄んでおいて、これ、わざと? ……──

 ……さっきの雰囲気を思い出すと、自分からアクションを起こす事に、いくらかの恥じらいを感じる。


****────


 いつもより強引な雪哉に、キャットは動揺し、思考を弄ばれている。

 ぎこちない足どりで雪哉へと近づくと、唇に一瞬触れるだけの、軽いキスをした──


「……それだけか? らしくねーな」


「そんなこと言われても……」


「何だ?」


「……──もしかして、怒ってるの?」


「怒ってなんてねー……」


 確かに雪哉はいつもよりも手荒な雰囲気だ。機嫌がいいようには、決して見えないだろう。


「どうしてそんなこと聞いたんだ?」


「……だって雪哉、いつもより手荒だし……」


「そういう事じゃねー……」


 今度は、そっとキャットを自分の方へと引き寄せた。


「俺の機嫌が気になるのは、惚れたからか? ……」


「惚れてなんてないって……!」


「何ムキになってんだよ?」


「なってない……!」


「無理するな」


「……っ……」


 ──耳に生暖かい感触。 強がりなキャットを煽り、焦らすように、雪哉はキャットの耳を軽く咥えて、舐めている。


「……ゆき、や……」


 自分の耳を舐められる音、呼吸の音──

 聴覚の機能を持つ耳に響いてくるそれは、やたらとリアルに胸を高鳴らせた。

 熱を帯びる舌の感触は、夢見心地に、心地好い。  

 吐く息はそれを後押しするように、キャットの思考を酔わせていく──

……──また、禁断の美酒を舐めたくなって、キャットは生唾を飲み込んだ──


「もう無理するな。いいじゃねぇーか? ……──俺に、身も心も落としちまえ……可愛がってやるから――」


 雪哉はキャットの事を、優しく抱き寄せる。

 キャットは両手を胸の位置にしたまま、抱き締められていた。困惑の表情を浮かべながら熱を帯びる自分自身にすらも、彼女は困惑する……──


 体を少し離して、キャットの髪を背中側に流した。真ん中から始まって、鎖骨をなぞるように動いた手が、首に触れる……──


 首に当てられた唇。──……キャットはピクリと身体を少し動かした。

 服の中に入った手が、生身の背中に回る。

 キャットは脚の力が抜けて、その場に座り込んだ。困惑の表情で、雪哉を見上げる……──


「今更、何だよその反応?」


 思い返せば、今までは何かと、キャットが雪哉にお願いするような形だった。それが、今回は少しだけ違う。


 雪哉が自分からはあまり動かないのは、絵梨の事が気掛かりだからだと思っていた。 ──だからこそ、キャットは困惑した。


 絵梨の事を思えば思うほど、悲しみが募る。だから、その心に付け入る事が出来ると思っていた。


 ……だが、今の状況はまるで違う。どちらかと言うと、主導権を握られている。


 ──さっき服の中に入り込んだ手が原因で、衣服が若干乱れてる。キャットは無意識に、それを正した。


「なに直してんだ」


「え?」


「〝服〟」


 正すように服に添えられたままの自分の手、それを見て、雪哉の言っている事を理解する。


「……ごめん」


 服に添えられた手を離して、座り込んだまま、後ろ側の床へと両手を突いた。


「──俺が脱がしてやろうか?」


 瞳を泳がせてから、キャットは再び自分の服に手をかける。今度は服を脱ぐ意味で、手をかけた。

 だが雪哉はそれを待たずに、キャットを押し倒した。


「雪哉……服、まだ……」


 その問いに雪哉は答えない。


 片手が胸元を撫でる。そのまま、深いキスをした──


 雪哉は目をとじていた。その雪哉の事を、キャットは目をとじずに見ている……──


 雪哉は真剣な表情で、一心にキスをしている感じだった。


 何度も絡んで、何度も離れる舌。──激しいキス。……まるで、何かを求めるかのような……──


 ──ここまできて、キャットはようやく、雪哉の気持ちが理解出来た気がした。


 やはりキャットは目を開いたまま、冷静な眼差しで雪哉を見てた。──そして、腕を回した。


 キャットが腕を回すと、雪哉が唇を離した。──絡む視線。


 キャットは小さく呼吸を整えてから、ゆっくりと微笑んだ。


「……――?」


 回す腕の力を強めて、身体を引き寄せる。

 雪哉はキャットの身体に額を付けて、顔をうずめた。

 ……──暫くこうして、きつく抱き締めている。

 ──キャットは今まで、手荒で不機嫌な雪哉に圧倒されて、ペースを乱されていた。けれどここまできて、キャットはようやく自分のペースを取り戻しつつあった。

 ──キャットの口角は、嬉しそうに吊っている。


「もういいじゃない。 身も心も、私にちょうだい。愛してあげるから――」


 そう言うと、回していた腕を解いた。身体と身体にまた隙間が出来る。

 ──そして、スッと上下が入れ代わった。腕を突いて、雪哉を見下ろすキャット。片膝を立てて、キャットを見上げる雪哉──


「無駄だよ。雪哉……雪哉はホント、いい男。……それは、女をその気にさせる事なんて、容易いよ。けど、こんな役目を背負っていたら、本気で愛してなんて、もらえない──」


 雪哉はただ、キャットの言葉を聞いている。別に、取り乱す事もなく、まるで、“分かっている”とでも、言うように……──


「だからもう、期待なんてしない方がいい。。雪哉が思い描くように、幸せになんてなれない」


 キャットは羽根のネックレスの、チェーンをなぞる……──雪哉はその手を、そっと掴んだ。


「私なら、愛してあげるよ……」


 ──雪哉は一度、固く目をとじた。……まるで、誰かに言ってもらいたかった言葉を、この女の口から聞いてしまった事に、躊躇うように……──

 雪哉は再び、瞳をひらく。すると、雪哉はキャットへと問う──


「……教えてほしい事がある。何故かいきなり、気になったんだ……」


「何?」


 ──“愛してあげる”……その言葉には、否定も肯定もしていない。まるで何か、選択を迷っているかのように……──


「人間になって、声が出なくて……その後、どうなるんだ? ……俺、途中までしか知らねぇ……」


「人魚姫の話?」


「なんか知らねぇけど、今、知りたくなった……」


「いいよ。教えてあげる」


 キャットはフッと含み笑いをしながら、雪哉の唇を指でなぞった……──


「人魚姫は、泡になって消えるよ。そうならない為の手段があったのに、それをしなかったから」


「手段?」


「そう。王子様の心臓を突き刺せば、泡にならずに済んだの。 ……でもね、人魚姫にはどうしても、それが出来なかった」


 羽根のネックレスをいじりながら、キャットは話し続ける。


「──だから、泡になる事を選んだ」


「幸せになれなかったのか? ……」


「消えちゃったもん」


 そこまでキャットが話したところで、雪哉が体を起こした。

 そのまま吸い寄せられるように、キャットは雪哉の首筋に吸い付いた。だが雪哉は、そのキャットを静かに離す……


「「…………」」


 雪哉に離された事が意外だったのか、キャットは首を傾げる。


「痕、残るから止めろ」


「残そうとしたんだけど?」


「止めろ」


「何言ってんの? 雪哉は、印付けてるくらいが調度いい」


「何だそれ? ヤダ」


「……もう付いてるから、別にどうでもいいわ」


 雪哉の首筋には、うっすらと青紫色の印が付いている。キャットはその印に、優しく口づけた。


「印を嫌うのは、まだ、期待してるからでしょ? ……無駄って言ったじゃない」


 ──雪哉は不快そうに、表情をしかめた。

 キャットは服を脱ぎ始める。生身の白い素肌が、あらわになる。


「雪哉も……──」


 キャットは雪哉を促す。雪哉も上半身の服を脱いだ。


「……──私がヤッてあげるよ?」


 キャットは雪哉の心臓の位置に手を当てて、そっと口角を吊り上げる。


、空っぽの気分なんでしょ? 私が、何もかも忘れさせてあげる――」


 雪哉のベルトを解くと、彼女は彼へと、奉仕し始める。


「──ねぇ、雪哉」


「何だよ?」


「人魚姫、可哀相だよね」


「可哀相だ」


 するとキャットは、雪哉の目をしっかりと見ながら言った。まるで、言い聞かせるかのように──


「王子様と、出会わなければ良かったのにね」


「…………」


「きっと、人魚姫の運命の人は、他にいたんだよ。その人なら、人魚姫を幸せにしてくれる」


 ──まるで、あのの事を話されているかのように感じ取れる。……雪哉の瞳が、哀しみを帯び始める。


「そうだな……――」


 何処か寂しそうな声で答えた雪哉を見ながら、キャットがクスリと笑う。


「──ただの“童話”の話。 だから、そんな哀しそうにしないで」


「……哀しくなんてしてねぇ」


「雪哉、立って……」


 立ち上がるように促すと、彼女はその白く細い腕を、しなやかに彼の腰へと絡めた。そうしてから、今度はその口で、奉仕する……──


「クロネコ……」


 “キャット”とは呼ばずに、彼は彼女を“クロネコ”と呼んだ。

 呼ばれた事に気が付いて、口に含んだまま、彼女は上目で彼を見ている。 ……──彼は、彼女の頭を軽く撫でた。……──


「ありがとな。イケそう……――」


 すると、雪哉に褒められたのが嬉しかったのか、彼女は笑った。嬉しそうなキャット。……だが、表情が引きつる雪哉……


「笑うな……はっ歯が当たる……」


「あっ! ごめん」


 ハッとしたキャットは、口から離して答えた。


「「……」」


「「…………」」


 一瞬、二人で沈黙である。


「……雪哉、イケ――」


「イケ、……そうだった」


……」


「“”……」


「「…………」」


 そうそれは、途中で笑って止めてしまったから、〝パーになった〞、と言う意味である。


「うっかり、離しちゃった。……」


「……今度からは、至ってから褒める事にする」


「「…………」」


 二人の間には、また妙な沈黙が走るのだった。

 キャットは雪哉以上に悔しそうだ。唇を噛み締めて、雪哉を見上げた。


「今度こそっ……!」


 再び彼へと、奉仕しようとした。


「クロネコ、もういい」


 だが雪哉は、キャットの肩を掴んで止めた。

 キャットは雪哉の言葉を聞いて、焦燥にかられる。彼女は呆れられたと感じているから……──


「そんなっ……雪哉! ……今度こそ、ちゃんとするから……!」


 キャットはそう言って、雪哉を見上げる。──雪哉を見て、キャットは呆気に取られたようだった。


「もう、いいから……」


 雪哉は呆れてなんていない。雪哉はキャットが想像していたよりも、ずっとずっと、穏やかな表情をしてた。


「…………」


 キャットはつい、雪哉に見入る……──


 雪哉はキャットの髪を撫でる。膝で立っているキャットへと目線を合わせると、雪哉はキャットを抱き締めた。


 素肌に触れるネックレスが、少しひんやりとしてる。


 ……──静かな部屋で、お互いの存在だけを感じていた。


 心臓の微動さえ、微かに感じる。


 抱き合う二人には、お互いの表情が見えない。


 ──キャットは自分の鼓動よりも、雪哉の鼓動の方が穏やかな事を、感じている。〝雪哉は心を踊らせてなんかない〟。……けれど、回された腕は何かを逃さないように、必死なように思えた……──


 乱れる事なく鼓動が穏やかなのは、“心が空っぽ”だから……──そう、感じた。


「……雪哉」


「なんだよ……クロネコ」


「……さっきから、なんでそんな呼び方?」


「こっちの方が呼びやすい」


「……四文字とか、言いずらくないの?」


「“キャット”の方が言いずらい。小さいヤとツが、面倒……」


「そんなに!? ……」


 抱き合ってるキャットの肩が、ピクピクと動いている。可笑しそうに、キャットは笑っていた。


「……なに笑ってんだ?」


「なんだか、面白いから」


 回していた腕を解いて、雪哉を見た。雪哉もキャットを見る。


「別に、なんて呼んでも良いけどね」


 何故だがキャットは、少しだけ嬉しそうにそう言っていた。そうしてやはり嬉しそうに、もう一度、雪哉に腕を回す。


「……本当の名前を捨てた日から、心に馴染む呼び方なんて、ないんだから──」


「捨ててなんかないだろ? ……きっと―─」


 抱き合っている体勢から、二人は徐々に、崩れ出す。そう、ゆっくりと……――


 床へと沈んだ身体。


 瞳を少し細くして、キャットは雪哉を見上げた。


 見上げた先には、空っぽの心をした、端麗な顔立ちの男がいる。


 それを見たら、自分の下腹部が反応してしまったのを感じた。恥じらいと事実から逃れるように、彼女は固く目をとじた──……──再び目をひらいても、欲情する心と体は何も変わってはいない──

 自分に少し呆れながらも、もう、どうしようもない。


「今宵も夢を見ようよ」


 雪哉の心臓の位置に、手をかざす。


「空っぽでしょ……私たち、どうせ騙し合いのゲームなの。お互いを利用して、当然……──」


 すると雪哉も、キャットの心臓の位置に触れた。


「お前も、ココんとこ、何もないのか? ……」


 キャットは目で頷いた。……──虚ろに雪哉を見上げる。


「雪哉……――」


 明日も明後日も、荒んだ世界で生きていくの……


 だから、空に月が現れて、世界が闇に影を潜めたら、皆、誰かと身を寄せ合う……――そうして、安心したいの──


 ──“一人じゃないと感じたいの”──


 ──“今を生きるのに精一杯なの”──


 ──何が真実で、どれが嘘? ……──


 そんな事も分からないまま、ただ呼吸をして、生きていく……──


 最果てを突き上げられて、 自分の中の、荒んだ世界が揺らぎ始める。……──


 現実から目を逸らす事の出来る、この瞬間──


 朝、瞳をひらいたら魔法は消え去っていて、再び荒んだ世界で生きていく……


 まだ、眠ってしまいたくないと思いながらも、意識が徐々に遠退くのを感じた……――――


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