Episode 8 【平行】

【平行】

 心地好い夜風が吹く。広々とした美しいテラスでの事──


「……――はい」


 物思いするように視線を反らしながら、百合乃はグラスとワインを手渡す……──


「サンキュ……」


 それを受け取ったのは聖だ。


 一日目のパーティーが終了した後、二人は自室へ戻らずに、開放されている館のテラスへと来ていた。

 ──『聞きたい事があるから』と、そう話して誘ったのは百合乃であった。自ら誘っておきながら、彼女は先程から、終始気まずそうに視線を反らしているのだけれど……


 ──聖はテラスに設置されたテーブルへとワインを置いて、慣れた手つきでコルクを抜く。そしてグラスへと、いつしかの紅葉の色のようなワインを注ぎ込む……──


 百合乃はうつむき加減であった眼差しを上げると、控え目にそんな彼を眺めている。


「……今日、どうして私に電話したの?」


 そう、瑠璃と絵梨を会わせる為に、聖は百合乃へと電話をした。

 聖はグラスの中へと視線を落としながら、表情一つ変えない。聖は、当たり前に答えるのだ……


「絵梨と一緒にいたのが、百合乃だったから」


「……そういう事じゃなくて……」


「……??」


 ──なら、“どういう事”なのか、それが分からずに、答えを求めて聖は百合乃へと視線を向けた。


「……だって、この間……」


「あぁ、その事か……」


 百合乃が言っているのは、あの乱闘白麟との乱闘の翌日の事。 

 ──あの時、百合乃の部屋で二人は、自分たちの感情の食い違いに気づかされた。あの日から、二人の中に何かのわだかまりが出来てしまい、あまり顔を合わせなくなったのだ。

 それが、絵梨を探す為とは言え、いきなりの聖からの連絡に、百合乃は驚いたのだ。連絡をしてくるのならば、聖からでなくても良かった筈なのだから。


「嫌われたかと思ってた」


「嫌う訳ないだろ」


「なら……――」


 ──グラスの中の、ワインが揺れる……──


 ──音もなく吹く夜風……


 ──冷静な瞳で、百合乃を眺める聖。


「なら……」


「なら、何だ?」


 ──そうその冷静な瞳は、冷たくも見える……


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ──〝何も変わってはいないね。そう、やっぱしアンタは、〟──


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 その瞳に百合乃は、期待するのを止める。


「何でもない」


「悲しそうだな」


 百合乃は俯いたまま、ゆっくりと頷いた。


「俺のせいか?」


「…………」


 ……──物思いに更けるように、おもむろにグラスの中を揺らしてみた。──それを眺めながら、聖も少し悲しそうな瞳をしている。


「俺はこうして百合乃を悲しませる。きっと、百合乃はそのうち、俺から離れて行くんだ」


「……そんな……何言ってるの? ……だって私は聖のことが……」


「だんだんには、離れていくだろ?」


 ──『だんだんには』、百合乃は言葉を失う。


 〝噛み合っていなかった感情〟。


 一人は、恋したから、隣にいたいと思っていた。


 もう一人は、まるで兄弟のように大切だから、隣にいたいと思っていた。


 その気持ちが噛み合っていないと知った時、きっと離れていくのは、“恋愛感情を抱いた方”だろう。──そう思った。


「……聖の気持ちは、変わらないの?」


「……俺らって、お互いが大切だけど、その“大切”は、似てるようで、全く違うよな」


 “全く違う”。だから、そんな簡単に変えられない。遠回しにそういう意味だろう。


「…………」


 百合乃は言葉に詰まる。そう言い切られる程に、何故こんなにも、を共通にしている筈の感情が、全く別々のレールの上にあるのかと──……


「百合乃が俺から離れていく。何だか、スゲー悲しい」


「聖……私は離れたりしないよ」


 〝突き放しておきながら、どうして、そんな事を言うの?〟……──百合乃は溢れ出す感情を止められなくなって、聖の背中に額を当てて、その背中を抱き締める。──聖は表情を変えない。


「スゲー悲しいけど、だからって、感情が噛み合ってないまま、百合乃を俺に縛り付けるつもりもない」


 冷たいのか優しいのか、よく分からない。。優しさのようで残酷で、残酷なようで、優しくて──……百合乃はやはり、悲しくなる。


「……俺の勝手で百合乃を縛り付けて、百合乃はむくわれない。……そんなの、俺は望んでねーよ。だから百合乃は、他の奴を好きになればいい」


 百合乃に抱きつかれている背中が濡れている事に、聖は気が付いてる。彼女の涙で、濡れている事に──


「ならないよっ……! 他の奴なんて……好きになれない……」


「そんな事ない。俺の代わりなんて、いくらでもいる」


「いないよ……」


 〝いないに決まってるじゃない。当たり前だよ〟って、強くそう思った。〝どうしてそんな事を言うの?〟って──……けれどそう、悲しみに狂って気休めに、彼の代わりを探していた夜もある。〝誰にも代わりなど務まりはしない〟のだと、心の深い部分では、きっと分かっていたと言うのに。──自分を恥じて、自分を悔いた。



 ──夜風にモミジの葉が舞う……まだ青い、紅葉前のモミジ。


 あの夜の紅葉を思い出す……──長い坂の下……胸を焦がすような、赤いモミジ──


 あの時、感じる体温に恋焦がれた。あの秋の紅葉のように……



 ──まだ青い、夏のモミジの葉が、聖の肩に舞い降りた。

 そっと掴んで、聖もあの時を思い出すように、青い葉を眺めていた──


「……――紅葉モミジ


「聖はあの紅葉の夜から、ずっと私の特別だった」


「…………――懐かしいな」


 あの時を思い出しているのか、聖の表情は少しだけ柔らかくなった。


「ねぇ聖……話、聞いて。話くらい良いでしょ……? 私の気持ち、聞いて」


 聖は依然青いモミジの葉へと視線を落としながら、頷いた。


「……初めて会った時は……まさか聖が東のトップだとは、思わなかった」


 聖はあいづちを打ちながら、百合乃の話を聞いている。


「はっきり言って……第一印象は変な奴って思った……」


「……」


「……でも、聖に惹かれた。聖は私にないものを、持っていた……」


「ないもの?」


「うん……私はこの世界が嫌いだ。自分が生まれ育った、この裏の世界が嫌いだ。でも……何の迷いも、狂いもない聖の喧嘩を見た時、少しだけ、この世界を好きになれた――……」


 ──再び風に乗り、紅葉の葉が漆黒の夜空に泳ぐ。


 〝人魚は海に恋をする〟


 綺麗な綺麗な、お伽話の国でなんかではなく、この、荒んだ世界の中で……──


「聖の存在が、私の闇を取り払ってくれた」


 回していた腕が解ける。

 聖は振り返り、百合乃を見た。


「私の闇を……沈めてくれた」


 ──海は全てを優しく包み込む。


 悲しみ、恐怖、憎しみ……黒く染まった全てを包み込む。


 闇を沈めた海は黒く染まる──漆黒のBLACK OCEANに……──


「俺は百合乃が思ってるみたいに、すごい奴じゃない」


 百合乃は必死に、その首を横に振る。


「ねぇ聖は……私の事をどうして見てくれなかったの? ……どうして、恋愛として見てくれなかったの?」


 百合乃の悲しい視線が、聖へと突き刺さる……──


***

━━━━【〝HIJIRIヒジリ〟Point of v視点iew 】━━━


 ──そんなに悲しそうに見るなよ。


 どうして俺は、百合乃を悲しませているんだ……


「どうしてよ、聖……どうして私は……」


 ──“どうして”……どうして俺は、百合乃を恋愛対象として見なかった? ……──


 それは百合乃の事を認めていたからか?


 初めて百合乃に会った日、すぐに黒人魚の総長だって分かった。

 ──俺はあの日学ランを着ていたから、百合乃は俺の事を、ただの高校生だと思ったらしいけどな。

 あの日、“逃げろ”と言われてその通りに帰ったのは、百合乃の勝利を確信していたから。


 ──百合乃の瞳の強さや、凛とした立ち振る舞い……──その時点で、俺は百合乃の総長としての格を認めた。


 真面目に感心した。悔しいけど、“スゲー”って思った。


 当時、BLACK OCEAN五代目の座を、純と陽介、雪哉と争っていた俺は、総長としての百合乃の立ち振る舞いに、余計に釘付けになっていた。


 ──“自分には何が足りないのか?”──


 ──“どうしたら、五代目の座を勝ち取れる?”──


 ──そんな事ばかりを考えていた。そんな時、百合乃に会って、“自分に足りないもの”が何なのか……理解出来た気がした。


 あの時すでに俺は、百合乃を認めてしまった。

 きっと俺は、心のどこかしらで、“もしも百合乃が俺らの総長だったら……”とか、四人でその座を争っていた筈なのに、そんな事を考えていたんだ……


 本当に百合乃が俺らの総長になった時は、さすがに驚いたけどな。だが〝百合乃が総長になった〟というその結果に対して、百合乃を認めていた俺からしたら、あまり抵抗がなかった。けど、衝撃だったのも確かだ……


 俺は百合乃を認めていたから、良かったかもしれないが、おそらく、純、陽介、雪哉の衝撃は俺のそれとは、全く桁が違ったんじゃないか……って思ってる。


「聖……教えてよ……」


 百合乃はすがるように、俺の手を掴んでいる……──


「ねぇ答えて」


 泣き崩れそうになる“”を、冷静な瞳で見据えた。


「百合乃が総長だからだ」


「私が五代目の座を消し去った、憎い女だから? ……」


「違う。総長として認めているからだ」


 ──貴女の時が止まる。


 悲しみで溢れる瞳を、見開いたまま……――


 長い黒髪が、風に揺れる……


 ──薄夕焼け色の衣装ドレス……──凛とした立ち姿──


 まるで大輪のユリのように、息を呑むほど美しい……俺の、……――


「百合乃の事を認めている。敬意を表す。……気高い風格……──俺には、触れる事の出来ない女だ」


 俺を掴む百合乃の手が、カタカタと揺れている。そして、スッと離れる手……


「……聖……私はそんなの嫌……」


 百合乃は再び、体を俺へと近づける。


「…………っ……」


 俺はその動きを、片手を使って制止させる。


「もっと良い奴がきっと現れる。だから、悲しい顔はしないで下さい。……」


***

━━━━【〝YURINOユリノ〟Point of v視点iew 】━━━━


 “”……─―


 そんな呼び方をしないで。〝名前で呼んで〟……


 私はこの座を好ましく思った事など、一度もない。


 ──聖は柔らかい眼差しをしながら、私に向かって微笑んだ。


 こんな時だけ、そんな暖かい目をするのね──


 ……遠ざかる、貴方の背中。

 聖が私から遠ざかる……──そんな背中、見慣れていない。


 脳裏に映る……あの秋の赤色。


 瞬きをしたら、あの日の赤は消え失せた……──


 替わりに映ったのは、まだ青いモミジの葉。


 ──あの日の赤が欲しい。


 ──貴方はそうやって、私を一人にさせる。


 〝私たちは〟。


 きっと、交わったりは、しないのだろう……――


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