03

 男の子は、僕の隣に腰かけてきた。


「なぁ、暇なんだろ? 話そう」

「えっと……」

「俺、イオリ」

「イオリ……綺麗な名前だね」


 向こうから名乗られたからには、僕も返すしかない。


「僕は瞬」

「どんな字?」

「瞬間の瞬」

「へぇ、似合うじゃん」


 僕の記憶が正しければ、学校にも塾にもこんな男の子はいなかったはず。この近所の子なのだろうか。


「瞬は何やってたんだ?」

「その……実はさ、塾サボってた」


 イオリはにいっ、と口角を上げた。


「勉強って大変なんだろ? じゃあサボりたくもなるよな」

「えっ? イオリも学校の勉強はしてるよね?」

「俺、学校通ってないから」


 通っていない? 僕はイオリの家庭環境が複雑なのだと察した。普通の親なら小学校には通わせるはずだ。


「じゃあ……イオリは何してたの?」

「話せる奴探してた。なぁ、瞬の話聞かせてくれよ。ずっと空見てただろ。何考えてたんだ?」


 さすがに初対面の男の子に自分の妄想を話すのは気が引けた。


「特に……何も。サボってスッキリしてた」


 そこで、僕はあることに気付いた。イオリは傘を持っていなかった。それなのに、髪も服も濡れていないのだ。まるで、雨上がりと同時に地上に降りてきたみたいに。


「イオリ、傘は……?」

「持ってない。使ったことない」

「ええっ?」


 ますますイオリのことがわからなくなった。イオリは勝手に僕の傘の持ち手を掴んだ。


「えーと、どうするんだ?」

「それジャンプ傘だから、出っ張ってるところ押して……」

「こう?」


 イオリが身体に近い位置で傘を開いたので、ついていた雨水がはじけて僕たちにかかった。


「わっ! びっくりしたぁ!」

「イオリ、気をつけてよね……」


 それからイオリは、傘を開いたままくるくると回した。


「ふぅん、これが傘かぁ」

「本当に知らないの……?」


 現代に生きてきて、傘も買ってもらえないなんて。イオリの家は相当貧しいのだろうか。服は、白いTシャツにハーフパンツ、スニーカーで、それは真新しく見えるのだが。


「瞬っていつもここにいるのか?」

「ううん、来たのは初めて」

「そっか。ここ、待ち合わせにしよう。瞬が俺に会いたくなったら来るから」

「でも、スマホとか持ってないし……」

「いらない。来たらわかる」


 GPSを埋め込んでいるわけでもあるまいし、そんなことわかりっこない。きっとイオリは僕をからかっている。この場は流すことにした。

 僕は時間を見た。夜七時。あと二時間もある。イオリは不思議な男の子だけど、なぜか懐かしい感じもするし、悪い子じゃなさそう。もっと話してみることにした。


「イオリはどこに住んでるの?」

「秘密。瞬は?」

「ええっ、だったら僕も秘密だよ。まあ、母さんが迎えに来てくれるまで待ってるわけだけど」

「母さんって優しい?」

「うん……優しいよ」


 僕の母さん。まだ三十歳。参観日の時は、若くて綺麗な人だねってクラスの子たちに注目されてしまった。

 幼稚園に通っていた頃は、母さんが働いていないことは普通だと思っていたけど、小学生になってから、仕事をしている母親が大勢いるということを知った。

 いつも家で待っていてくれて。美味しいご飯を作ってくれて。でも、たまに……。


「僕が母さんのスマホ勝手に使ったのバレた時は、めちゃくちゃ怒られた」

「そういう時はこわい?」

「うん、すっごくこわい」


 ちょっと触っただけなら、まだそんなに叱られなかったかもしれないけど、僕は有料のゲームアプリを購入してしまったのだ。小遣いからその分減らされた。

 それから、イオリはこんなことも聞いてきた。


「で、父さんはどんな感じ?」

「父さんは……お酒臭いのは嫌だけど、カッコいい人だよ。年の割に若く見えるし」


 イオリはすうっと目を細めた。


「ん……そっかぁ。瞬は父さんのこと好き?」

「うん、好きだよ。あんな風になれたらいいけど、難しいかもね」


 父さんは、有名な大学出身だ。若い頃はサーフィンをしていたらしい。勉強も運動もできる。その上多分、仕事も。よく知らないが、重要な役職についているらしいのだ。


「イオリの父さんと母さんは?」

「それも秘密」

「僕ばっかり喋ってるじゃん」


 それから、イオリは自分のことは何も教えないが、僕には質問ばかりする、ということを続けた。なんだか面接みたいだ。

 それでも、悪い気はしなかったのはどうしてだろう。イオリには、すらすらと自分のことが話せてしまった。


 ――学校でも塾でもない。だからこそ、言えるのかも。


 イオリは中学受験の仕組みを知らなかったから、それを説明していたら時間が過ぎた。


「僕、そろそろ行かなきゃ。塾行ったフリするから……」

「おう、じゃあまたな!」


 イオリはベンチに座ったまま僕に手を振った。僕は一旦塾の前まで行って九時まで待ち、さもそこから出てきたような顔をして駐車場に行った。


「瞬、お疲れさま! 今日もよく頑張ったね」


 何も知らない母さんの笑顔を見た途端、お腹の底からぐぐっと黒いものがせりあがった。僕はそれを飲み込み、こう返した。


「あのさ、玉子焼き……美味しかったよ」

「ええ? いつも入れてるやつ?」

「ちゃんと言ったことなかったな、って思って」


 初めてのサボり。イオリとの出会い。母さんを騙したこと。

 その三つが、その時の僕が抱えるには大きすぎて、その夜はなかなか眠れなかった。

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