第70話

切実だ。




そう、愛里の母さえいなければ、どうにかなるものを。愛里の母ときたら、いっこうに出かける気配がない。というより、僕が愛里宅を訪れる度に、いつも階下にこれみよがしに待機している。まるで番兵みたいだ。




僕らは、ああ! まるで意地悪な番兵に恋路を引き裂かれるロミオとジュリエット。




……いえ、すみません。そんな美しいものではありませんでした。僕の下半身事情です。そうですね、こればっかりは番兵の方が正しいです。でもね、おかあさん。何にもナシってのは、無いですよ。いくら守番しても、もうとっくのとっくです。




僕が洗面台に両腕にをつき鏡に向き合い、脳内の愛里の母に話しかけていると、フイに背後から声をかけられる。




「あら、まだおトイレにいらしたの? もうすっかりお部屋に戻ってらしたのかと思った」




声の主を振り向くと、愛里の母が僕を怪訝そうに覗き込んでいる。僕は一体、何分この場で思考におぼれ、硬直していたのだろう。皆目検討がつかない。不審を気取られまいとあせる僕。僕はすっとぼけをかまし口を開く。




「あ、いえ、ここの洗面台はほんっと、いいなぁと思って。なんか、ライティングがいいですよね。僕んとこより一ランク明るいんじゃないかな? って」




そう言って僕は洗面台を見上げ、ライトに片手を添える。




「まーそんなことはないわよ。どこにでもあるただの洗面台よ」




苦笑いする愛里の母。




だけど僕は笑いながら首をふり、熱弁をふるう。




「いやいやいや、違いますよー。なんか、明るさが違うというか、ライトの配置がいいのかな? 実家の洗面台より、僕も心なしか男前に映るような気がします。つい居心地よくって」




僕のジョーク交じりの言葉に愛里の母も笑う。会話に調子をこきつつも、しめに入る僕。




「鏡も隅々まで掃除が行き届いているし。洗面台の色も好みだし、素材もなんかよさげだし。いやーいいっすよ。ウチのと、きっと値段が違うんじゃんないかな?」




「ふふふ、お上手ね」




そう言って愛里の母は笑いながら去って行った。




(よし! ごまかせた)




僕は心の中で小さくガッツをし、愛里の母の姿が視界から消え去るのを確認して、愛里の部屋に急いで駆け戻る。そうして部屋に戻るいやいなや、愛里の右腕を引く。そして半ば強引に立ち上がらせようとする。

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