スティル・イル
Don Aman
スティル・イル
俺が着いたのは5分前。
待ち合わせ場所は新宿駅前。混雑する場所の中、彼女を見つけるのに苦労するかと思ったが、すぐにわかった。人々の流れが微妙に避けているその中心に、松葉杖を突いた那須田ミオがいた。
彼女の歩みはゆっくりで、痛々しかった。黒い松葉杖を前に出し、痩せ細った脚を引きずって一歩一歩進む。内側に曲がった両脚は黒いタイツと鉄の器具で覆われている。時折、苦しそうに立ち止まるものの、座ることもなく、休むこともない。ただ淡々と、進んでいる。
「はぁ…はぁ…んしょ…」
息遣いが辛そうだ。こんな姿を見たら誰もが声をかけるだろう。けれど、周囲の人々は誰一人として彼女に関わろうとしない。それは、彼女の醸し出す異様な雰囲気のせいだった。彼女は、近寄りがたい何かを持っていた。
ようやく目の前に来たミオは、思っていたよりも美しかった。肩までの黒髪ショートにパーマがかかり、目鼻立ちの整った美人だ。ワインレッドのセーターの上に着た革のライダースジャケット、ドット柄のスカートもよく似合っている。背負った革のリュックに赤いヘルプマークが付いている。
だが、その美しさは、彼女の歪んだ笑いによって台無しにされていた。
「あ…あはは……よろしく…おねがいします………」
彼女は目を伏せて、卑しい目つきで俺を見上げた。まるで何かを隠すかのように、目を合わせようとはしない。俺は戸惑いながらも、挨拶を返した。
「こちらこそ…那須田さん、だよね?」
「あ、ミオでいいです……」
彼女はかすかに頷き、周囲をキョロキョロと見回す。その仕草は、まるで誰かに見張られているかのような不安定さを感じさせた。
喫茶店に向かうため、俺たちは駅前の雑踏を抜けて歩き出した。だが、その歩みは思っていた以上に遅い。ミオは一歩踏み出すごとに、左腕で支える松葉杖を前に出し、痩せ細った両脚を引きずるように進む。その動作はぎこちなく、まるで傷ついた小動物が無理にでも前に進もうとしているかのようだった。
ロングスカートのスリットから覗く黒タイツに包まれた彼女の脚は、まっすぐに前に出ることなく、内側に曲がっていて不自然だ。茶色のベルトで固定された装具がその脚を支え、無理やりに動きを保っているのが見て取れる。金属の装具が擦れる音が、通りの喧騒の中でもかすかに響いている。
「はぁ…はぁ…ん……っく…」
彼女の息遣いが漏れるたびに、その体全体が小さく震える。汗ばむ額に前髪が張り付き、顔を覆うように乱れている。だが、その中でもミオの目は、何かを捉えようとするかのように周囲をキョロキョロと見回している。まるで不安に駆られ、誰かに追い立てられるような目つきだ。
それでも、その歩みはどこか妖艶だった。普通ならばその異常さに目をそらすところだが、彼女の痩せた脚と装具に支えられた不自由な姿、けれどもどこか艶やかな佇まいがそこにある。彼女の身体の動きは、ぎこちないながらも一種の美しさを帯びていて、異様な空気をまとっている。
彼女の腰の動きは無意識のうちに流れるようで、その一瞬一瞬に妖しさが漂う。黒タイツが脚に張り付き、歩くたびに装具が擦れる音と共に、その長いスカートの隙間から足が覗く。重く、不器用に歩みを進める彼女の姿が、まるで見世物のように感じられる一方で、目を離すことができない。
「大丈夫、ミオ?無理しないでいいから…」
俺が気遣って声をかけると、彼女は少し笑った。下品な笑顔だが、どこか挑発的な表情も垣間見えた。
「大丈夫です…はぁ…ほんとは、もっと…歩けるんですけど……ちょっと…今日、疲れてて……」
言葉とは裏腹に、彼女の動きは明らかに苦しそうだ。だが、座ることも休むことも拒むその意志は強固だった。松葉杖を前に押し出すたびに、彼女の身体が不自然に揺れる。それでも、進むことをやめない。
その姿は、何とも言えない狂気を孕んでいるようにも見えた。まるで痛みや不安定ささえも彼女の魅力の一部であり、そこに艶やかさを感じてしまうのは俺の錯覚だろうか。彼女はまさに、目の前で壊れていく美しい人形のようだった。
「はぁ…はぁ……もうちょっとで……つきますね…」
彼女がそう呟いた時、俺は喫茶店が見えてきたことに気づいた。少し安堵したが、それ以上に感じたのは、ミオのその異様なまでの強さと、どこか惹かれてしまう不思議な魅力だった。
俺たちは、ようやく目的地に到着する。
喫茶店に入ると、俺たちは窓際のテーブルに腰を下ろした。店内は静かで、落ち着いた空気が流れている。ミオが何度も苦しそうに息を吐き、ようやく松葉杖を脇に置いて座った。俺は、彼女が無理して歩いていたことを改めて感じながらも、どう声をかけるべきか迷っていた。
「ふぅ…やっと座れましたね」
ミオは軽く笑って、また周囲をキョロキョロと見回す。その様子は不安定ながらも、どこか無防備なものだった。俺も軽く息を吐いて、彼女に話しかけた。
「さっきも少し聞いたけど、ミオさんの趣味とか、普段の生活ってどんな感じなの?」
彼女は少し驚いた顔をして、手元のコップに視線を落とした。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「趣味ですか…うーん、ちょっと変わってるかもですけど…音楽とか、好きなんです。激しいやつ。ヘビメタとかパンクとか…あと、ノイズミュージックとか」
ミオの目が一瞬だけ輝いた。その瞬間、彼女の内に潜む狂気が顔を出したような気がした。激しい音楽が彼女の中で何かを鎮め、そして燃やしているのかもしれない。
「そうなんだ……意外だね、そんな激しい音楽が好きなんて。でも、なんか納得もできるかな」
俺がそう言うと、彼女は微笑んだ。しかし、その笑みはどこか寂しげで、自己否定的なものだった。
そして気付く。彼女の耳と舌に付いた大量のピアス。
見なかった事にしておこう。
俺はしばらく言葉を探していたが、気になっていたことをどうしても聞かずにはいられなかった。
「ところで、ミオさんのその装具…腕とか脚についてるやつって、どういうものなの?」
俺が装具について尋ねると、ミオの顔がぱっと明るくなった。今までおどおどとしていた様子は消え、興奮を抑えきれないような笑顔が浮かび上がる。まるでこの話を誰かに聞いてもらうのを待っていたかのようだ。
「えっ、これ気になりますか? すごいですよね、この装具。まず、右腕のこれは…ベルクロでしっかり固定されてて、ここが特に大事なんです。肘も手首も動かないようにしてて、これがないと私、右手がまた折れちゃうかもなんです!指はセパレーターが付いてて、指先が変な風に曲がらないようにしてるんですよ!」
ミオは右腕の装具を嬉しそうに指差し、まるで宝物でも見せるかのように説明を始めた。彼女の声は急に高揚し、そのテンションの高さに俺は少し圧倒されながらも聞き入ってしまう。
「そしてね、脚の装具がもっとすごいんですよ!特に左脚。これ、長下肢装具って言って、膝から足首まで完全に固定してくれるんです。これがないと私、立っていられないんです。膝も足首もぐらぐらで力が入らないから、この装具で支えてるんですよ。でね、この黒いブーツ、ほとんど一年中履いてるんです」
彼女は左脚の装具を撫でながら、さらに細かく語り始める。その声は興奮で震え、彼女自身がこの装具に対してどれほどの執着を持っているのかがよく分かる。
「でもね、これ、ちょっと困ったことがあって…装具を付けっぱなしにしてるから、蒸れるんですよ。特にこのブーツが重くて通気性が悪いから、足が蒸れて…臭いがすごいんです。ほら、今も結構汗かいてるし…」
そう言って、彼女は少し顔を赤らめながらも、どこか楽しそうに笑った。その笑顔は不自然で、彼女の異常なまでの執着と狂気が滲み出ている。俺は彼女の話に引き込まれつつも、どこか背筋が寒くなるのを感じた。
「それでも、私はこの装具が大好きなんです。だって、これがなかったら私は歩けないし、立てない。毎日これに支えられて生きてるんです。でも、蒸れちゃって臭くなるのは…仕方ないですよね。もう慣れちゃったけど、周りの人にはちょっと迷惑かけちゃってるかも」
ミオはそう言うと、無邪気な笑顔を浮かべた。しかし、その無邪気さの裏にある狂気に、俺は気付かずにはいられなかった。彼女は自分の体の欠陥に誇りを持ち、その痛みと苦しみを逆に喜びとして感じているようだった。そして、その異常さを自覚している様子もなく、まるでそれが当たり前のことのように話す。
「それに、右脚の短い装具も見てください。金属フレームで足首を支えてて、これがないと右足もぐらぐらで使えないんです。でも、この装具があるおかげで、私はこうして歩けるんですよ!」
彼女の声はますます高まり、まるで装具そのものが彼女の命そのものだと言わんばかりの勢いだった。そして、装具が擦れる音が響くたびに、彼女の笑顔はますます狂気じみたものになっていった。
「そう、これがないと何もできないんですけど、これがあるからこそ私は生きてるんです。この装具のおかげで、私は毎日を生きてる…蒸れたり臭ったりするけど、それでもこれが私を支えてくれるから、全然気にならないんです!」
彼女の言葉には狂気が宿り、俺はそれを受け止めるだけで精一杯だった。
俺は彼女が身を寄せる装具の生活がどれほど不便なものかを考えずにはいられなかった。彼女はその装具を誇りに思い、異様なまでに愛しているようだったが、どう考えても、その生活は過酷で苦痛を伴うものに違いない。蒸れて臭ってしまうことすら笑顔で語る彼女に、俺はやんわりと提案してみることにした。
「でも、ミオさん…その、歩くのかなり不便そうだし、ずっと装具を付けてるのも大変だろうから、車椅子を使った方が楽なんじゃないかな?少なくとも、外出の時は…」
そう言い終わった瞬間、ミオの顔色がさっと変わった。今まで見せていた異様なまでの高揚感が一瞬で消え去り、代わりに怒りと不安が入り混じったような表情が浮かんだ。彼女の目は急に鋭くなり、俺をじっと睨みつける。
「……え? 車椅子……ですか?」
その声には微かに震えがあったが、それは怒りによるものだった。ミオは一瞬、言葉を飲み込み、口を閉ざしていた。しかし、数秒後には爆発するかのように話し始めた。
「私は!車椅子なんかに頼りたくないんです!だって、歩けるんですもん!この装具があるから、私は自分の足で立てるんです!歩くのは確かに大変ですけど、だからって車椅子なんか使ったら…それはもう、負けを認めるみたいなものでしょう?」
彼女は身体を震わせ俺に鋭い視線を向けた。顔には緊張感が走り、彼女の声はどんどん荒くなっていった。まるで彼女にとって「車椅子」という言葉自体が禁忌であるかのようだった。
「医者からも何度も言われてるんです。『車椅子を使えばもっと楽になる』って。でも私は、それが嫌なんです!私はこの足で歩けるんです!例え何度転んでも、怪我しても、私は歩けるんだから。それを放棄するなんて、私にとっては生きている意味がなくなるんです!」
ミオの顔は赤く染まり、目には涙さえ浮かんでいる。彼女の言葉は、ただの自己主張を超えて、どこか病的な執念を感じさせた。それは単なるプライドではなく、彼女自身の存在価値に関わる何か深い問題が隠されているように思えた。
俺はその勢いに一瞬言葉を失い、どう反応すべきか迷った。彼女がここまで強烈に装具に依存し、車椅子を拒絶しているのは、ただの便利不便の問題ではなかった。彼女にとって、それは自分の存在証明であり、自尊心の最後の砦なのかもしれない。
「……ごめん。そんなにこだわりがあるとは知らなくて。俺、ただ少しでも楽になればって思って…」
俺がそう言うと、ミオは少し表情を緩めたが、まだ苛立ちを完全に隠しきれていないようだった。彼女は大きく息を吐き出し、少し落ち着きを取り戻したかのように見えたが、その目にはまだどこか不安と怒りが残っていた。
「ごめんなさい、私…つい感情的になっちゃって。でもね、私は自分の足で歩くことにこだわってるんです。この装具がある限り、私は歩けるんです。それを諦めることなんて、私にはできないんです」
彼女の声は少しだけ穏やかになったが、その言葉の中には依然として強烈な執念が込められていた。俺は彼女の気持ちを尊重しようと決めたが、その狂気的な執着に対する不安が心の奥底で静かに広がっていくのを感じていた。
俺はミオがどんな生活を送っているのか気になって、彼女に聞いてみることにした。これだけ身体に負担のかかる装具を毎日付けているとなると、彼女の一週間の生活は他の人とは違った独特なものだろうと想像できた。
「ミオさんって、普段どんな生活してるの? なんか装具もたくさん付けなきゃいけないし、すごく大変そうだしさ…一週間のルーチンってどんな感じなの?」
俺がそう尋ねると、ミオは少し考え込んでから、ふと笑顔を浮かべて答え始めた。
「あ、えっとね…私の生活は、そんなに面白くないかもしれないけど…。まず、朝起きるのはだいたい7時くらいかな。でも、装具を全部装着するのに時間がかかっちゃって、ベッドから出るのはいつも1時間後くらい。両脚の装具を付けて、右腕の装具も付けて、で、松葉杖を使ってようやく動ける感じなんです」
彼女の声にはどこか淡々とした調子があったが、それでも自分の生活について話すことに少し嬉しそうな感じが見えた。
「朝ごはんは…簡単なものばかりです。パンとか、ヨーグルトとか。あんまり手を使う料理はできないから。で、午前中はだいたい家にいることが多いですね。外に出るのは大変だし…最近は『おばちゃん』が週に何回か来てくれて、掃除とかも手伝ってくれるんです。すごく優しい人で、いつもお守りとか持ってきてくれるんですよ」
「………おばちゃんが手伝ってくれるのは助かるね。でも、外出する時はどんな感じなの?」
「うーん、外出は正直少ないですね。週に2、3回くらい。お買い物とか、病院のリハビリとか、あと趣味のライブに行く時ぐらいですかね。歩くのは大変だから、出かける前にしっかり準備して…でも、どうしても歩かなきゃならない時は、転んじゃうこともあるんです。だからリュックにはいつも簡単な包帯とか絆創膏を入れてるんですけど、転んで怪我するのはもう慣れちゃいましたね」
ミオは苦笑いを浮かべながら、両脚をちらりと見た。装具のせいで蒸れている足の臭いについて言及した先ほどの話が頭をよぎり、俺は自然と視線を脚に向けてしまった。
「週末はどう過ごしてるの? なんか趣味とか…音楽とか?」
「そう! 音楽は私にとって一番大事な時間です。週末は部屋にこもって、大音量でヘビメタやノイズミュージックを聴いてます。爆音で聴いてる時は、もう何も考えられなくなって…気持ちが落ち着くんです。特に、あの激しい音が心地よくて…現実から逃げられる感じがして、すごくリラックスできるんですよね」
ミオはその時、中空を見つめるような表情をし、一瞬別の世界に入ったかのような静寂が訪れた。彼女にとって音楽は単なる趣味ではなく、心の避難所のようだった。
ミオはそのまま固まってしまう。
暫く間が開いたので、俺を思い出してもらうために声をかけた。
「そうなんだ。じゃあ、日曜日は完全にリセットの日って感じ?」
「そうですね、音楽に浸ってる日が多いです。でも時々、Xでの政治活動にも力を入れてます。政治の話、好きなんです。共◯◯とか、れい◯とかの応援ツイートをしてるんです。まあ、ちょっとした楽しみかなって思ってます」
ミオは苦笑いを浮かべながらも、どこか諦めたような表情をしていた。彼女にとって、ネットでの議論や自己表現もまた、彼女の生活の一部であり、それが少しでも自己肯定感を保つための手段であるように思えた。
「装具を外してリラックスできるのは夜だけだから、夜のシャワーはすごく大事な時間。装具を外すと脚がすごく蒸れてて…匂いもすごいんですけど、それもまた…なんか、私の一部だなって思うんです」
俺は、ミオが話していた「おばちゃん」について、妙に引っかかるものを感じていた。週に何回も家に来て、掃除や世話をしてくれるなんて、普通の好意では済まされない。彼女が「親切」と言っているそのおばちゃんが、実は新興宗教の信者で、何か目的があってミオに近づいているんじゃないか。そんな不安が頭を過った。だが、その疑念を口にすることは避けた。今ここでその話を突き詰めても、彼女を動揺させるだけかもしれないし、差し出がましく話すのも気が引ける。
代わりに、俺は彼女が熱心に信仰している政党の話題に切り替えた。共産党やれいわに強い思い入れがあるようだが、正直なところ、俺はその政党には多くの懸念を抱いていた。そして、それを彼女に指摘せずにはいられなかった。
「あぁ……ミオさん。れい◯とか共◯党に入れ込んでるみたいだけど、俺としては結構危なっかしいところもあると思うんだよね。特に◯◯党って、理想はいいかもしれないけど、実際に政権を取るって考えると無理があると思うんだ。独裁的な体制を支持しているようなところもあるし、財政政策も破綻する可能性が高いって言われてるよね。それに、れ◯わだって、障害者支援に力を入れているのは分かるけど、他の政策が結構過激だし、現実的に実行できるとは思えないんだ」
俺はできるだけ穏やかに話そうと心掛けた。彼女の反応がどうなるかは分からなかったが、彼女の信じているものに対して少しでも疑問を持ってほしかったのだ。
ミオは俺の話を聞きながら、徐々に顔の表情が曇っていった。最初は理解しようとしている様子だったが、徐々に眉をひそめ、口を固く結んでいく。そして、俺が言い終わる頃には、彼女の目に再び苛立ちが浮かび始めた。
「……それ、あなたの意見ですよね。確かに、共◯党もれい◯も完璧じゃないけど、私は彼らの理念が好きなんです。弱者を守ろうとしているところが。他の政党は、私たちみたいな人たちを本当に見てるの? 見てないでしょう? お金持ちのための政策ばっかりじゃないですか!」
彼女の声には、先ほどの装具の話をしていた時と同じような激しさが宿っていた。今度はその怒りの矛先が、俺の考えに向けられている。
「確かに、現実的じゃないかもしれない。でも私は、少なくとも彼らが本当に私たちを見てくれているって感じるんです。それに、あなたはれい◯の障害者支援を過激って言うけど、じゃあ、他の政党が何をしてくれるって言うんですか? 私みたいに毎日苦しんでる人たちのことを、誰が考えてくれるんですか?」
俺は、自分でも言ってはいけないと思いつつ、どうしても抑えられない気持ちが噴き出してしまった。
「でもさ、共◯党もれい◯も、現実的にはほとんど何も変えられないんじゃないか? 理念は立派かもしれないけど、彼らの政策が実行されたら国が混乱する可能性だってあるし、財政破綻とかが現実的に起こりかねないんだよ。結局、理想論だけじゃどうにもならないってことだってあるんだ」
言葉が出た瞬間、自分がどれほど危険なことを言ったのか気づいた。ミオにとって共◯党や◯いわは、単なる信念や政党ではない。彼女の存在意義や自己肯定感そのものが、それらに依存しているのだろう。けれど、その考えに苛立ちを感じてしまい、どうしても黙っていられなかった。
俺が言い終わると、ミオは一瞬、瞳に微かな光を宿していた。だが、それはすぐに消えて、彼女の表情からは急にすべての感情が抜け落ちたかのように見えた。
「……あ、そう……なんですね……」
ミオの声は小さく、どこか遠くに響くようだった。さっきまで激しく反論していた彼女の態度が、まるで一気に崩れ落ちたように変わっていく。彼女は無表情になり、顔の筋肉が凍りついたかのようだった。瞳の輝きはなくなり、ただ虚ろな目でテーブルの上を見つめている。
「……やっぱり、私……ダメなのかな……」
その言葉は、まるで独り言のように、誰に向けたものでもなく、ただ空気の中に溶けていった。彼女の肩は小さく震えている。さっきまでの反発心や怒りは、どこかに消えてしまったかのようだ。まるで魂が抜け落ちたかのように、彼女はただその場に存在しているだけだった。
「ミオ……ごめん、そんなつもりじゃ……」
俺は後悔の念に駆られ、言い過ぎたことをすぐに謝った。しかし、彼女はただ無表情のまま、何も言わずにじっとしていた。先ほどまでのエネルギーが嘘のように消え失せてしまっている。
「私って……やっぱり、何も変えられないのかな。私の信じてるものも、全部無駄だったのかな……」
彼女の声はかすれ、そして冷たく響いた。
何か言わなければと思ったが、言葉が出てこない。自分の指摘が彼女をここまで追い詰めてしまったことに、胸が締めつけられる思いがした。
「……どうせ、誰も私のことなんて気にしてないんですよ。みんな、私が何を信じようと、どうでもいい……」
何とかフォローをしようとぼくが声を掛けようとした瞬間、突如彼女が叫び出した。
「あああああああああああああ!!!!!」
ミオは、俺が言葉を続ける前に突然叫び出した。
「もうやめて! 私は…私はどうせダメなんだって! 何もできないし、誰も助けてくれない! 誰も…!」
その瞬間、喫茶店の空気が一気に凍りついた。周囲の客たちは一斉にミオを振り返り、驚いた顔を浮かべた。店内は小さな音しか聞こえないはずだったが、彼女の声が響き渡り、目が彼女に集中した。誰かが怯えた表情で囁き声を交わし、視線を外したまま席を立つ音が聞こえる。
「ミオ、落ち着けよ…ここじゃまずいって…」
俺は動揺しながらも、なんとか彼女を落ち着かせようと声をかけた。しかし、彼女は聞こえていないかのように感情のままに叫び続けた。
「私のことなんて、誰もわかってくれないんだ! あの政党も、誰も! 結局、みんな私を見下してる! あんたも…みんなも!」
ミオの体が震え、黒い松葉杖がガタガタと揺れている。周囲の視線が痛いほどに突き刺さり、店員もどうしていいか分からず、遠巻きに彼女を見守っている。これ以上ここにいるのは無理だ。俺は、周囲に頭を下げつつ、彼女の肩に軽く手を置いた。
「ミオ、外に出よう。ここじゃ話せない。頼むから…外に行こう」
俺は気まずさと焦りが入り混じる中、なんとか彼女を落ち着かせるために優しく誘導した。彼女はしばらく無表情で虚空を見つめていたが、やがて何かを思い出したように黙り込み、俺の腕に体重を預けるように立ち上がった。
彼女を連れて、できるだけ人目につかないように外へ向かった。喫茶店を出た瞬間、ミオはようやく息を吐き出し、少しずつ落ち着きを取り戻したようだったが、まだ震えが残っている。
ミオは喫茶店を出てしばらくの間、何も言わずに俺の隣を歩いていた。彼女の脚は、装具の重みを支えきれないように内側に曲がり、まるで無理矢理体を引きずっているようだった。
左腕には黒い松葉杖があり、再び一歩ずつ慎重に前に進んでいく。だが、その動作は滑らかではなく、どこかぎこちない。まるで脚が言うことを聞かないかのように、ミオは右脚を大きく引きずっている。右脚は短下肢装具で固定され、ブーツの金属部分が地面を擦り、低い音を響かせた。装具に守られたその足先は内側に曲がり、うまく地面を踏みしめることができていない。
その刹那、道路のわずかな段差に、引きずっていた右脚を引っ掛けてバランスを崩した。
「……あっ!」
声を上げる間もなく、彼女の体がぐらりと前に傾いた。慌てて俺は手を伸ばし、彼女の肩を掴んでなんとか支えた。松葉杖がガタガタと音を立てて倒れそうになるのを、もう片方の手で受け止める。
「だ、大丈夫か?」
俺が声をかけると、ミオは弱々しく笑ってみせたが、明らかに息が荒くなっている。彼女の体は驚くほど軽く、俺の手の中にすっぽりと収まるほど細かった。骨張った肩越しに、彼女の全体重が俺にのしかかってくる。汗で湿った装具や服が肌に触れる感触があり、微かな汗の匂いと甘い香水の匂いが混ざり合って漂ってきた。
「ご、ごめんなさい……いつもこうなんです……ほんとドジで……」
ミオは申し訳なさそうに呟きながら、再び体を起こそうとするが、脚がうまく言うことを聞かないようだった。俺は彼女を支えたまま、ゆっくりと立ち直らせようとする。彼女の肩は震えており、装具の重さでバランスを取るのが難しそうだ。
「いや、いいよ。俺が支えるから、無理しないで」
俺は少し強く肩を抱き、彼女の体をしっかり支える。彼女の細い体はどこか儚げで、その軽さが逆に心配になるほどだった。手が触れるたびに、彼女の柔らかい肌と装具の硬い金属が対照的に感じられる。
ミオは俺に支えられながら、苦笑いを浮かべて何とか体勢を立て直した。
「ありがと……すごく軽いでしょ? 私、食べても全然太らないんですよ。脚もこんな風だから……歩くのも消耗しちゃって」
その言葉にはどこか自嘲めいた響きがあった。俺はそんな彼女を見ながら、何も言えずにただ頷いた。
公園に着いて、ようやくベンチに腰を下ろす。
ミオは項垂れたままだった。
「本当にごめんね……迷惑かけちゃって」
ミオは再び汗を拭いながら言ったが、俺は少し強く彼女の肩を握って言った。
「いや、気にしなくていいよ。歩くの大変なんだろ? 無理しないでさ、俺がいるから」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、やがてほのかな笑みを浮かべた。その笑顔は、今までの彼女の不安定さとは違い、少しだけ安心しているようにも見えた。
外の涼しい風が頬をかすめ、少しずつ彼女も静かになっていく。俺は深く息をついて、彼女の隣に立ったまま、どう言葉をかけるべきか迷った。
ミオを支えながら、俺は先ほどの自分の言動が頭に浮かんで、罪悪感が湧き上がってきた。政党の話題で彼女を追い詰め、結果的に彼女をあんな状態にしてしまったのだ。どうしても黙っていられず、俺はため息をついてから口を開いた。
「さっきは悪かったな、ミオ…。あんな風に、きつい言い方してしまって。君の信じる物を全く否定してしまった」
謝罪の言葉を口にしながら、彼女の反応を待った。ミオは俺を見上げ、少し驚いたように目を瞬かせたが、次の瞬間、あっけらかんとした笑顔を浮かべた。
「え? あぁ、別に気にしてないですよ。あの時ちょうど精神薬が切れてて、ちょっと調子悪かっただけなんです。いつものことなんで、全然平気ですよ」
その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。ミオの返答があまりにも軽々しく、まるで自分の精神状態が不安定になることを当たり前のように受け入れているかのようだった。彼女はあっさりとした表情のまま、肩をすくめる。
「本当、変なこと言っちゃってごめんね。薬があればこんなことにはならないんだけど、今日はうっかり飲み忘れちゃって」
彼女はその言葉の後、何事もなかったかのように話題を切り替えようとするかのように笑った。しかし、その笑顔の裏側には何か暗いものが見え隠れしていた。精神薬が切れたせいだと軽く言い放つその態度が、逆に彼女の心の闇の深さを感じさせた。まるで、彼女にとって精神のバランスを失うことが日常茶飯事で、感情の振れ幅も薬一つでコントロールされているかのように思えた。
俺はその軽々しい言葉に反して、ミオの背負っているものがとんでもなく重いことを改めて感じ、胸の中が重く沈んだ。彼女の笑顔はどこか虚ろで、本当に大丈夫なのかと心配にならざるを得ない。言葉でどう説明しようとも、その背後にある現実は決して軽いものではないはずだ。
「そっか…」
俺はそう呟くしかなかった。彼女に対して何を言えばいいのか分からなかった。彼女がこれまでどんな思いを抱えて生きてきたのか、俺には到底理解できない。それでも、彼女はこうして笑顔を浮かべ、当たり前のように自分の不安定な状態を説明していた。普通であるかのように振る舞うその姿が、逆に痛々しく、俺はまたしてもミオの深い闇を垣間見た気がした。
「まあ、気にしないで! あなたは悪くないし、私も気にしてないからさ」
彼女は明るい声でそう言ったが、その明るさが何とも言えず虚しく感じられた。俺はただ無言で頷き、彼女の隣を歩き続けた。
「ねぇ、私疲れちゃった!もう休もう!行くんでしょ?ホテル?」
「あ、あぁ、そうだね。そろそろ行こうか」
彼女の唐突な言葉に戸惑いつつも、俺は返事をして歩き始めた。ミオは松葉杖をカシャカシャと鳴らしながら俺の横を歩き始める。俺たちは無言のまま公園を出て、近くのビジネスホテルへと向かった。
ホテルの部屋に着き、俺とミオはようやく一息ついた。彼女は装具のロックを外しベッドに腰掛けると、左手だけで大きく伸びをした。
その動作からは、先ほどの不安定な様子は微塵も感じられない。まるで何事もなかったかのように振る舞う彼女に少し不安を覚える。
「あ、ごめん!脚やっぱ匂う?」
「いや、別に臭わないよ」
俺は慌てて否定したが、ミオは「そう?ならいいんだけどさ」とだけ言って、再びベッドに横たわった。そしてそのまましばらく沈黙が続く中、彼女は突然口を開いた。
「ねぇ……私ってさ、本当に生きてるのかな?」
その唐突な問いに一瞬戸惑ったが、すぐに答えた。
「え?そりゃ生きてるだろ。こうしてちゃんと息してるし……」
しかし彼女は納得していない様子で首を振った。
「そうじゃなくてさ……なんかこう、生きてる実感が持てないっていうかさ……毎日辛いことばっかりで……私ってなんで生きてるんだろ……」
そう呟いた彼女の表情は暗く沈んでおり、その目は少し潤んでいるように見えた。俺は何と声をかけたらいいのか分からず、ただ彼女の次の言葉を待つしかなかった。彼女はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「ねえ……もし私が死んだら、あなたは悲しんでくれる?」
突然の質問に驚きながらも、俺は正直に答えた。
「そりゃ悲しいよ。まあ、一応……知り合った仲なんだから……」
もう少しいい答えは無いものか、とは自分でも思ったが、俺の答えを聞いたミオは、
「そっか……ありがとね」
そう言って微笑んだが、その笑顔にはどこか複雑な感情が入り混じっているように見えた。彼女はそのまましばらく黙り込んでいたが、やがて何かを決心したかのように大きく息を吸い込み、ゆっくりと言葉を続けた。
「ねぇ……あのさ、もしよかったらなんだけどさ……」
その声は少し震えていたが、それでもハッキリとした意志を感じさせるものだった。俺は黙って次の言葉を待ったが、その先の言葉は中々出てこなかった。
「……どうした?何か言いたいことがあるなら遠慮せずに言っていいよ」
俺が促すとようやく決心したのかミオは満面の笑みで俺を見る。
「一緒にいなくなろう!!〇のう!!」
「は?」
突然の言葉に俺は言葉を失った。ミオはその反応を楽しむかのように続ける。
「〇〇しよう!2人でならきっと怖くないよ!それにさ、天国でずっと一緒にいられるし!」
彼女の目は真剣そのものだった。その瞳からは狂気すら感じられるほどだ。俺は慌てて彼女を制するように言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……いきなり何を言い出すんだよ……」
しかし彼女は全く聞く耳を持たずに続けた。
「だってもう生きるの辛いんだもん!!私なんて生きてたって意味ないし!ずっと辛いことばっかりで、どうせ何も変わらないんだよ!だったら、〇んで楽になった方がいいじゃん!」
ミオの声はだんだん大きく、そして切迫したものになっていく。彼女の瞳はまるで狂気に取り憑かれたかのように輝き、俺に向けられるその目はどこか遠くを見つめているようだった。俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ミオ、落ち着いてくれ…そんなこと考えちゃダメだ。〇ぬなんて、簡単に口にするもんじゃない」
俺は何とか彼女を落ち着かせようとしたが、ミオは首を激しく振って否定した。
「いいや、もう決めたんだ!生きてたってどうしようもないし、あなたもわかってるんでしょ?大丈夫!一緒にやれば怖くないって、そう思わない?」
彼女の言葉には、心の奥底から絞り出されたような絶望が滲んでいた。それを聞いていると、彼女がどれだけ長い間孤独と苦しみの中で生きてきたのかが想像できる。そして、俺もその暗闇に引きずり込まれそうな感覚に陥る。
「いや、俺は…俺はまだ〇ぬわけにはいかない」
なんとか声を絞り出すと、ミオは一瞬驚いたような表情を見せたが、その後すぐに顔を歪めた。
「なんで?どうして?一緒に終わらせればいいじゃん!もう苦しまなくていいんだよ!」
彼女はまるで哀願するかのように俺に詰め寄ってくる。俺は一歩後退しながら、なんとか冷静を保とうとした。
「確かに、俺も辛いことはある。でも、だからって〇ぬのは違うだろう?俺たちはまだこれから何かを変えることができるはずだ…そう簡単に諦めるもんじゃない」
ミオはその言葉に少し戸惑った様子を見せたが、すぐにまた鋭い目つきで俺を睨みつけた。
「何も変わらないよ!もうずっとこんな生活をしてきたんだ!誰も助けてくれないし、これからもずっと…もう嫌だ、もう耐えられないんだよ!」
彼女の声は震えていたが、その言葉の裏にある絶望と怒りは凄まじいものだった。俺はその場で言葉を失い、どうすれば彼女を止められるのか全く分からなくなっていた。
その時、ミオはベッドから立ち上がり、俺に向かって一歩踏み出す。その脚は装具でガタつき、不安定な歩き方だったが、彼女はそれでも前に進もうとする。
「お願い…一緒に〇んでよ…もう一人じゃ無理なんだよ…!」
涙を流して暗く沈んだ大きな瞳を向ける彼女の必死な表情に、俺は強い衝撃を受けた。どうすれば彼女を救えるのか、その答えは見つからないまま、俺はただ無力感に打ちひしがれていた。
俺はミオに近づき、彼女にキスをする。
「ん……ふぅ……」
彼女は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに目を閉じて俺を受け入れた。その柔らかい唇の感触と彼女の体温を感じることで、俺は少しだけ冷静さを取り戻すことができた。
「ミオ……一緒に〇ぬことはできないけど、でも俺たちはまだ生きている。だから、これから何かを変えられるはずだ」
俺がそう言うと、彼女は少し悲しげな表情を見せた。
「でも……もう辛いんだよ……生きるのが怖いんだ」
彼女はそう言って再びベッドに横たわった。その瞳には涙が浮かんでおり、
「ねぇ、お願い……私を殺してよ」
ミオは震える声でそう言った。俺は彼女に近づき、そっと抱きしめる。
「殺さないんなら、死なないんなら。」
ミオの表情が変わる。そこにもう弱々しさは無く、
「めちゃくちゃいっぱい、して。」
蠱惑的で妖艶な、悪魔のような女の子へと変貌する。
「わかった。」
俺はそう言って、彼女と唇を重ねた。お互いの体温と鼓動を感じながら、俺たちはベッドの上で揉み合う。
「さっきはごめんね……急に、変なこと言って」
ミオは自嘲気味に笑った。俺は何も言わず、彼女の手をそっと握った。彼女の手は冷たく、かすかに震えていた。
「ミオ、俺は…まだ君のことをちゃんと知りたい。君が抱えている苦しみや、これからどうしたいのか…一緒に考えられるかもしれない。君は一人じゃない」
ミオはしばらく沈黙していたが、やがて肩をすくめ、ふと俺の方に顔を向けた。
「本当に?……私みたいな人間でも?」
「もちろんだよ」
俺の言葉に、彼女はほんの少しだけ微笑んだように見えた。
「じゃあ…もう少しだけ、頑張ってみるよ」
彼女はそう言うと、深いため息をついてベッドに横たわった。まるでその一言に自分を納得させるかのように。
「……ありがとね、少しだけ気が楽になったかもしれない」
俺は彼女に何も言わず、ただ静かにその場に座っていた。ホテルの部屋は、外の喧騒とは対照的に静まり返っていた。ミオの心の中にはまだ多くの葛藤や痛みがあるが、少なくとも今は彼女の隣にいることができる。それが、今できる唯一のことだった。
それでも、俺は少しだけ希望を感じた。ミオが自分を見つめ直し、変わるきっかけを掴んでくれることを願いながら、夜がゆっくりと更けていった。
ホテルを出た後、俺とミオは互いに別れを告げ、何も言わずにそれぞれの方向へ歩き出した。夜の空気が冷たく、街の雑踏が遠くに聞こえていた。俺はなんとも言えない後味の悪さを感じながら、静かに背中を丸めて歩いていた。
一方、ミオは別れた後、少し離れた公園のベンチに腰を下ろし、静かに一息ついた。脚に付けた装具を指先でその感触を確かめながら、小さく笑みを浮かべる。
「ふふ……バレなかったね……」
彼女は呟きながら、ふと空を見上げた。暗い夜空に街灯がぼんやりと光を放っている。演技とはいえ、俺との時間が何も感じなかったわけではない。けれども、彼女にとっては、すべてが計画通りだった。
「最初から全部、私が作り上げたシナリオ通り。ねえ、ほんとに簡単だったなぁ……」
ミオは少しだけ冷えた空気を吸い込んで、ゆっくりと目を閉じた。彼女が抱える身体的な障害、それは確かに事実だった。脚の不自由さも、歩くたびに装具が擦れる音も、すべてが現実。けれど、俺と出会ってから、喫茶店、そしてホテルに至るまでの全ては、ミオが綿密に計画し、織り上げた演技だった。
「こんな私を哀れんで、救おうとしてくれる男たちは、いつも同じ反応。『一緒に生きていこう』とか『君は一人じゃない』とか、どこかで聞いたことあるセリフばっかり……」
彼女はくすっと笑いを漏らした。彼女が求めていたのは「救済」ではない。彼女の心に深く刻まれた闇や孤独を、誰かが簡単に消し去ることなどできないことは、自分自身が一番分かっている。だからこそ、男たちが見せる哀れみや、浅はかな優しさに、いつしか楽しみを覚えていた。
「でも、まさかキスしてくるなんてね……びっくりしたけど、まあいいか」
彼女の表情には、どこか冷たく、乾いた笑みが浮かんでいた。あの男との一夜は、ただの通過点。彼女にとって、それ以上でもそれ以下でもない。
「生きている実感なんて、そんなもの……他人を欺いて、コントロールして、私の手のひらで踊らせて……それで、少しだけ満たされる」
ミオはそう呟くと、再び装具で膝にロックを掛けてゆっくりと立ち上がった。身体は確かに不自由でも、その心の奥にある冷酷さや狡猾さは、どこまでも自由だった。
「さて、次はどんな男にしようかな……」
その言葉が、夜の空気に溶けていく。ミオは再び松葉杖を突きながら、静かに街の中へと消えていった。
ミオは今回も俺の事を覚えていないのだろう。
恐らく彼女は今日のことも明日の朝にはすっかり忘れてしまう。それが精神的な物なのか、交通事故の後遺症によるものかはまだ分からないらしい。最近の彼女の記憶はマッチングアプリで知り合った俺とその日に会う、それを何日も繰り返していた。待ち合わせの時間になると俺は新宿駅前で彼女が来るのを待つ。同じ様な喫茶店に行き、公園に行き、ホテルへと行く。
そして寝る。これを何日も。
彼女の精神的な不安定さはここ最近酷くなる一方だった。
あれほど身体が不自由でありながら、不特定多数の男と寝たり駅前で勝手にビラ配りや独自の演説を始める等、味方である政党側に警察を呼ばれてしまったりしていた。
彼女の両親からの依頼で元恋人の俺はミオの行動を監視し行動を共にしていた。
後に知ることになるが、彼女の言っていた『おばちゃん』とはどうやらミオのお母さんの事の様だった。彼女の記憶から肉親である母親ですら消えつつある事に俺は衝撃を受けた。
もうミオが1人で暮らす事は不可能では無いのか。
両親にそう尋ねると、ミオがこうなってしまったのは幼少時に厳しく育てすぎた部分があり、出来る限り好きにさせてやりたいとの事だった。実際の所は家で暴れる彼女を抑えておく事が出来ないからだろう。
俺はミオをこれからも見守り続ける。
たとえ彼女の中の彼女が頭の中から完全にいなくなってしまったとしても。
スティル・イル Don Aman @rfmyd
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