第3話
「古都を苦しめてる何かがあるなら、俺が絶対に何とかする。だから話してほしい。
もう二度と、あのときみたいに、いきなりいなくなってほしくないんだ」
君の言葉は、抱きしめられて顔が見えないまま私に届いたけれど、本気でそう言っているんだと思わせる芯があった。
君に傾きかけている自分を、真横に感じていた。もし、今ここで全て話してしまえば、きっと私は、この心地いい温もりでいつだって包んでもらえる。それは、私がずっと欲しているものであり、そして、貴方が与えてくれないものだった。貴方の体だって温かい。でも、それはいつのまにか私が知らない何かになっていた。貴方のくれたぬくもりは、今のそれよりよっぽど冷たくて微かなものだった。だからこそ、同じように冷えている私と、お互いを少しずつ温めていく時間が、とても好きだった。君の温もりは、貴方や私よりよっぽど熱を持っている。昔はそれを、ひどく遠いものに感じていたけれど、今、それは私だけを包んで、温めてくれている。私は今、とても安心していた。ひとりで貴方を待つ広いベッドの中より、よっぽど。
「わたし、今…」
ヴー、ヴー、ヴー。
突然の振動音に、ほとんど本能的に反応したのは私の方だった。
君の優しい拘束を手で押しのけ、靴も履かないまま床に足をつき、足下の段差に置いてあったバッグから携帯を取り出す。親指で電源ボタンを押すと、そこには無機質なフォントで書かれたメッセージアプリからの通知が並んでいた。
『どこかにいるの?』
貴方だった。
見ている間にもメッセージは追加されていく。
『今日は早く帰れたんだ』
『まだ仕事?迎えに行くよ』
背筋がすうっと冷えていく。頭が真っ白になって、そのあとすぐに、罪悪感で満たされていった。私は一体、何を考えていたんだろう。
「ごめ、ごめんなさ…」
自分がしていたことが、貴方にとっても君にとっても裏切り行為だったということに、今更気が付く。どうすればいいかわからないけれど、絶対に今、私はここにいてはいけない。ひったくるようにスツールに引っ掛けていた上着とバッグを手に取って踏み出したけれど、床の硬い感覚で、靴を履いていないことを思い出した。君が床に置いたはずの靴を思い出して、辺りを探すけれど見当たらない。ふと視線を上げると、両手でそれを持った君と目が合った。はっと息を飲む。君の瞳にはぐっと力が入っていて、潤んでいるようにも見えた。
「そいつが、古都を苦しめてる?」
違う、とすぐに言えない自分に腹が立った。私の、こういう不安定さが人を狂わせている。君を、貴方を、私自身を。
「返して、」
君の手から靴を強引に奪い取った。油断していたのか、元から力をかけていなかったのか、それは震える私の手でも簡単に奪うことができた。何度も突っかかりながら足を靴にねじ込みつつ、振り返らないようにして出口を目指す。
「俺は、古都に、もう苦しんでほしくない。
その役が俺でなくてもいい、だけど…」
最後に聞こえたのは、そんな言葉だった。掠れた声が、引きちぎれそうな心そのものだった。続きは、絶対に聞きたくなかった。
地下にあったその店から出て、急いで階段を上る。地上に出た瞬間、くらりとめまいがした。
忘れていた。ここはあの頃の私達がいた、何もない田舎町じゃない。人も建物も明かりも色んなものが溢れている。何もないと思うくらいの最低限のもので生活できるということを知っている私達にとっては、色んなもので溢れすぎている世界。水っぽい雪がネオンの光を浴びてさらに溶けていく。その上を貼り付けたような笑顔でひょいひょいと歩いていく人達。消えない嬌声、見えない屋上、終わらない夜。
私あの頃から、何一つ変わってない。性懲りもなく、臆病なままだ。
「大丈夫だった?」
いかにも優しそうな、心から心配している声色で、貴方は話す。うん、ちょっと仕事が長引いちゃって、決算前だからと、何万回も同じことを言ってるかのように舌を動かす自分を、他人のように思った。
あのあと、言い訳のようにいつも使っている駅に向かう道中で、『今終わったよ』『迎えに来てくれるの』『嬉しい』と文字を打った。最近は私の『いつ頃帰る?』が右側に並ぶばっかりで、貴方から来るメッセージはとても久しぶりだった。当たり前のように”嬉しい”と媚びている変わり様に、自分でびっくりしている。
黒のプラドを走らせてきた貴方は、駅前のロータリーに車を停めると、わざわざ運転席を降りて私の手を取り、助手席まで誘導してくれた。中はしっかりと暖房を効かせてあって、ドリンクホルダーにはカフェチェーンのカップが二個、肩を並べて寄り添っている。何も言えないまま、黙ってシートに収まった私を見て、貴方は助手席のドアを閉めてぐるりと運転席側に戻り、隣に座ってから一言、大丈夫だったと聞いた。
何が大丈夫で、何がそうではないんだろう。そんなことを考えているうちに、口は勝手に言葉を刻んでいた。
都会のロータリーは混んでいて、早く車を動かさないとクラクションを鳴らされることだってある。「ね、早く行こ」と声をかけると、貴方は少しだけ言葉を詰まらせたあと、「わかった」とサイドブレーキを引いた。
「どこかに寄る?ご飯でも食べて帰ろうか」
「…ううん、家で、葵くんのご飯が食べたい」
地面に降り積もる前に溶けていく雪を、助手席の窓から眺めてそう言った。ほんの少し前、たとえば二時間前だったら私は、この言葉を本心から伝えていたと思う。けれどもう、私の中の何かは確実に変わっていた。もしも街を彷徨って、そのどこかで君と会ってしまったらどうしよう、なんて、絶対に口に出せないことを、考えていたんだから。
「これ、飲む?」
大きな交差点の手前、信号で停まったときに、貴方はそう聞いてくれた。古都、無糖派だったよねと、自分のを取る時に私の手にもそれを握らせた。「あつっ」「ははは」言われるがままに手を伸ばすと、思いのほか温度が高かったそれに驚く。貴方はそんな私を見て、強張ってるようにも見えた真剣な表情を崩し、目を細めて笑った。あまりにも嬉しそうに笑うから、少し腹が立って「何よ」と言いながら、一口啜った。鼻孔から上って来るもったりとしたホット独特のコーヒーの香りと、その舌ざわりにはっとする。からん、氷が溶けて形を変え、グラスの壁に当たった軽やかな音が、どうして今、頭に浮かんだの。
「苦いね…っ」
カップを持った腕がぐいと押し下げられ、びっくりして油断した隙にキスをされた。本当に久しぶりだった。下手したら一か月以上、同じ屋根の下で暮らす男女なのに、していなかった。まるで初めてのときみたいに心臓がぎゅっと縮こまったみたいに苦しくなる。触れた唇の面積は、カップを受け取ったときに当たった手や、布団の中で感じる全身よりよっぽど小さいのに、どうしてこんなにどきどきするんだろう。腕を握っている手に力がこもって、貴方の舌先が私の歯に触れたとき、パッパーと後ろからクラクションが鳴って、私達はぱっと離れる。貴方が飲んでいたであろう、ミルクの入ったコーヒーの甘ったるい味が、まだ口の中に残っている。いつもはこんな、強引なことはしないのに。
「葵くん、どうしたの」
「…別に……古都が、可愛いことするからじゃない?」
珍しいことを言った貴方を仰ぎ見る。その表情が目に入った瞬間、私の背筋にぞくっと悪寒が走った。そして、すぐに目を逸らした。絶対にこれは、見間違いだから。肩を上下させ息を細く吐き、眉間に皺を寄せ、きんと凍てつくくらい冷えた瞳の貴方、だなんて。
髪を撫でてくれる、その感触に、眠気が顔を覗かせてくる。かくんかくんと首を上下させながら、何とか意識を保とうとしていると、ふいにドライヤーの音が止まった。それと同時に、後ろにいた貴方にぎゅっと抱きすくめられる。すっと頬を掠めた貴方のふわふわとした髪から香る同じ匂いが、板に貼り付けたような安心を漂わせていた。
「できたよ」
「ありがとう。いい気持ち」
貴方が優しく手櫛で整えてくれた私の髪の毛は、自分でするよりよっぽど綺麗にまとめられていて、毛先までつやつやと輝いている。それを指でつまんで、電灯に透かしていると、「ねぇこっちむいて」と耳元で言われ、それに驚き指先が毛先を離してしまったときにはもう、頬に口づけられていた。ちゅ、ちゅ、と音がするのが恥ずかしくて顔を左右に振るけれど、後ろから回された手に顎を掴まれ、身動きが取れなくなる。
「ん、…っまって、あおいくん」
「やだ」
昔はこんなとき、ごめん、古都のことが好きすぎて先走っちゃった、くらい言ってくれたのに。貴方は私の唇に、噛みつくようにキスを繰り返す。まるで体ごと食べられてしまいそうだ。閉じていた目を開けても、貴方のつむじしか見えなくなっている視界が怖くなって、反射的に両手で頭をぐいっと押してしまった。
「っ、ほんと、まって…」
本当に無意識だった。貴方が下を向いたまま、されるがままに後ずさるのを見て、怖い、で埋め尽くされていた頭がすっと冴える。それと同時に浮かんだのは、車の中で向けられた、触れることもできないくらい冷え切った、貴方の瞳だった。
そしてそのときに思い出す、思い出したくなかった記憶。私はかつて、あんな、同じ人間に向けているとは考えられない、損得勘定だけで見るような視線を、毎日のように受けていた。だからあんなにも、こんなにも震えて、怖くて仕方がない。
「ごめ、なさ…」
喉の奥でひゅっと音が鳴り、空気が詰まって行き場を失っているのを感じる。あぁそうだった。怖い思いをしたあとにはいつも、生きた心地がしないくらいさらに怖い思いをさせられるんだった。呼吸ができなくて、まるで魚のように口が勝手に食むように動いた上に、全身の血管がきゅっと収縮して、皮膚が真っ白になる。ソファーの上でみのむしのように丸まって心臓を押さえるけれど、そうすればするほど力がこもって、気管は狭くなるし空気はまずくなる。まるで血のように錆びた味だ。
「…あお、くっ」
「え、過呼吸…?そんな、聞いたことない…」
狼狽える貴方を目の前にして、苦しくなければ鼻で笑っちゃうくらいあきれている自分がいた。そうに決まってる。だって言ったことがないから。こんな、誰かに視線を向けられただけでおかしくなってしまうだなんて、惨めで恥ずかしいこと、誰にも言えるはずがない。…あの人、以外。
そういえば、あの人の前でも倒れてしまったことがあった。ぽろっと話してしまった拍子に思い出して、それに頭を支配されてしまった。ゆっくり吸って、吐いて、大丈夫、大丈夫…。あのとき、隣に膝をついて、何もお願いしていないのに背中をさすってくれたのを思い出す。少しだけ楽になったのもあって、あの人があの日してくれたことだけを、考えて、下手くそな呼吸を繰り返す。ゆっくり吸って、吐いて、大丈夫だから、うん、上手、もう一回、頑張れ。
それは、誰にでも、こんな私にでも優しい、
君の声だった。
目を開けるとそこは、見慣れた寝室の空虚な天井で、私は無意識に、またか、と息を漏らした。また今日も、いつもと同じで一人。でもそのときに、普通に呼吸ができていることに気が付いて、数回瞬きをして意識をこちら側へ引っ張り出した。
「古都…大丈夫?」
貴方の声が、隣からではなく足元から聞こえる。少し身を起こしてそちらを見ると、スツールに浅く腰かけて、私が被っている羽毛布団の裾をきゅっと握った貴方と目が合った。その瞳には、冷たさも明るさもなく、ただ私だけを映していた。ベッドサイドのテーブルには、体温計やペットボトル、ゼリー飲料、解熱剤、頭痛薬と、家にある体調不良に効きそうなものを全てかき集めたようなものがこんもりと乗っていた。私のこと、心配だと思ってくれたんだ。諦めのようなぬるい嬉しさが、指先を浸していく。
「ごめ、なさ…」
「俺こそごめん、ほんとに。過呼吸とか、知らなくて…。
そうじゃなくても、普通にがっつきすぎたし。ごめん、久しぶりに長時間会えて、気分が良くなってた」
遠くから見えるつむじは、全然怖くない。むしろ垂れ下がった犬の耳みたいで可愛げがあると思った。本当に焦っていたみたいで、よく見るとほんの少し開いているドアの向こうからはリビングの明かりが漏れてきている。全部そのままにして、ここでずっと私のこと看ていてくれたんだ。
「…ううん。私も、変にびっくりしちゃって、ごめんね…」
もう貴方のことを、怖いとは思わない。だけど、何かが、足りない。まるで気持ちの中身まで真っ白になってしまったようで、気持ち悪くて。
あぁ、そうだ。温もりが、足りないんだ。
「ねぇ、こっち、来てくれる?」
「…うん」
貴方は恐る恐るスツールから立ち上がると、光が漏れないようにドアを閉めた。完全な闇が落ちた部屋の中で、貴方の気配だけが生きているようだった。枕元に立ったまま動かないから、「ごめんなさい、もう大丈夫だから、一緒に、布団入って?」と声をかけると、黙ったままわざわざ逆側に回って、爪先からゆっくりと布団に入ってくれた。
微動だにしない貴方の爪先に自分のそれを勝手に触れさせる。触れ合った爪がかっ、とごく小さな音を立てるのを、耳をそばだてて聞いていた。冷えている、と思った。ごくわずか、体を動かすための必要最低限の力だけが蓄えられている、そんな温度。寂しくて、でも、とても懐かしい。
お互いに、冷たいねと言いあいながら一生懸命握った、過去の家路を思い出す。あのとき、私達はまだ若くて、お互いの手の中にあるものは今よりずっと少なかったけれど、自分の身ひとつで向き合う貴方との時間が、とても温かかった。あのときからずいぶん経って、私達は心から大人になった。手にできるものは増えたし、選択肢も増えたけれど、その分できなくなったことも、沢山あった。例えば、誤魔化す気持ちもなく裸のままお互いの前に立つこと、相手のことを思ってわざときつい言葉を投げること、真実を聞くこと。
だってほら、貴方だって昔だったら絶対に、その過呼吸って何が原因なの、それ、次からしないようにするからって、言ってくれていたのに。でも私だって、それを指摘することなんてできないから、結局お互い様で。
「ねぇ、葵くん?」
「…なに?」
「明日は、遅くなるの?」
硬くなる、貴方の体は、触れているせいですぐにわかった。
「…わかんない」
言えないなら、言わないでいい。冷えた貴方を温めてくれる誰かの元に行くなら、それでも構わない。だけど、だけど、だけど。
「葵くん」
「…うん」
「冷たいよ」
これしか、言えなかった。
傷つくのが怖かった。これ以上本音を言って、聞きたくないことまで聞きたくなかった。きっと貴方だって気づいている。キスをしたときに気づいたんだと思う。だからあんなに乱暴にして。でもその気持ちが、分からなくもない自分もいた。私だって本当は、貴方に温もりを分けてほしかったわけじゃない。私の知らない風に温まった爪先を、私だけを愛してくれていたあの頃みたいに、冷えたものに戻したかった。
でも、分かっている。もうすぐ終わりが来る。私は貴方を裏切ったことによって、貴方と一緒にいる私でも、それ以前の私でもない何かに変わった。きっと、貴方もそう。もう、戻すことは叶わない。時間が止まらないように、どれだけ抗おうとも私達は、押し出されるように進んでいく。ねぇ、それでも。
「私、葵くんのこと、好きなの」
口の中で言葉にする。澄んだ空気の中では、そんな風に小さく呟いただけの声さえも届いてしまうみたいで、貴方が頭を、ぐっと枕に押し付ける感触が私にも伝わってきた。
好き。縋るでも祈るでもなく、ただ事実として、その気持ちだけが残ってこの胸の中にしまってある。自分でも届かない、柔らかいところにある気持ちのひとつはきっとこれで、貴方のしてくれたこと、同じように寒い冬の夜のことを、私は忘れられないでいる。
”これ、落としましたよ”。そう言って、大きな交差点で迷っていた私の財布を拾ってくれたこと。そのときにたった一瞬だけ触れた手が、田舎育ちが運悪く、怖くてコンビニにも入れずに冷え切った私に気づいてくれて、買ったばかりの温かいペットボトルをくれたこと。後日、偶然共同開発の件で、私の会社で会うことになるけれど、そのときは本当にお礼なんかいらないと言って去っていったこと。
”しっかり厚着して休んでくださいね”。あのときの貴方は、今の貴方の中にも、絶対にいる。
「おやすみなさい」
「…おやすみ」
今日の終わりの合図は、私から。
その大きな背中に触れて、そっとキスをした。
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