第2話

私は、君にどうしてほしかったのだろうか。


貴方の顔が浮かばないわけがない。だけど、「…本当に、何があった?」と心から心配した様子でもう一度私の手を掴んだ君を、振り払うことができなかった。

ここには研修で来たと言う君は、今来た道をまっすぐ歩いていくけれど、一体どこに連れていかれるんだろう。本来なら恐怖を感じないといけない状況で、私は、心の奥底、一番深いところに隠してあった大事なものが、暖炉の前でゆっくりと水に戻っていく雪のように溶けだす感覚を思い出していた。そうして、やっと気が付く。あぁ、私、そのあとにどうなったっていいから、誰かの気持ちの中心で抱かれてみたかったんだ。私が貴方を愛するのと同じくらい強い気持ちを、誰かに向けられたかったんだ。

屋根がなくなって駅の構内を出たことを、頬に触れた柔らかい雪の感触で知った。さっきよりもっと冷えた空気に包まれたくせに、どうしてかそれは、全然冷たいと思わなかった。




こくり、と一口だけ飲み込んでみるそれの、ソフトドリンクとは少し違う火照った感覚は、考えてみればもうずっと味わっていなかった。元々アルコールが苦手な方だから自主的に手に取ることはない。もしかしたら、貴方が遅く帰って来るようになってから一度も飲んでいなかったかもしれない。

貴方はお酒に強くて、飲むのが大好きな人だった。家でも外でも飲めるタイプで、親密になるまでは正直、そういう場に通うなんてだらしない人だと思っていたけれど、案外次の日には残らないように加減ができるようで、潰れているところは見たことがない。一歩引いたような感じで無理に勧めてくることはなかったけれど、付き合い始めてからは、『これなら軽いし、一緒に飲まない?』と週末の度に種類の違う飲みやすいお酒を買ってきてくれた。アルコールに強い貴方には全く縁のないような、度数の低いお酒を、毎回吟味しながら選んできてくれているのかと考えると、少しおかしかった。そうやって狭いソファーでくっつきながら飲むお酒だけは他と違って、どうしてかすごく美味しかったっけ。




そんなことをぽつぽつと考えながら、私はまた口にグラスをあてて傾ける。このお酒は、貴方が選んでくれたものの中にはなかったけれど、甘口でとても美味しい。度数も高くなさそうで、私でも美味しく飲むことが出来ている。

あの後、君は駅を出て10分くらいのところにあるバーに私を連れてきた。あの口ぶりからすると、少なくともこの街に住んでいないようだった。それじゃあどうしてこんなところを知っているんだろうと疑問ではあったけれど、ここまで来て帰る気にもなれず、君が促してくれたカウンターに横並びで座った。薄暗い店内の中、私達以外のお客さんはいなかった。君は「アラスカと…カルーアミルクを、彼女に」とマスターらしき初老の男性に告げる。目を伏せ、店に入ったときから寡黙そうだと思っていたその人は、「承知いたしました」と言ったあとは口を噤み、黙々とお酒を作って私達に振舞ってくれた。

君とお酒を飲んだことはなかったけれど、どういう意図でこれを選んだんだろう。何かを聞こうにも、そっぽを向いて同じように一口ずつ丁寧にお酒を飲む君に、今、私は話しかけられない。からん、グラスの中の氷が、軽やかな音を立てて形を変えていく。どうすることもできなくて、もう一度それを飲む。

「美味しい?」

はっとして顔を上げる。一時間ぶりに声をかけてきた君の頬は少し紅潮していて、昔、バレー部のキャプテンをしていたときの面影を感じる。だけど口調はしっかりしていて、酔っぱらっているわけではなさそうだった。小首を傾げた、昔からくせだったしぐさはほんのちょっと子供っぽくて、でも愛嬌のある君にはぴったりだと思った。あの頃と変わらない姿に、安心して体の力を抜いている自分がいた。


「うん、おいしい。…ありがと」

「酒は苦手?」

「うーん、そんなに得意ではないかも。よくわかったね」

「何となく、あの頃から潔白そうなイメージだったから。

…いやぁ、本当びっくりだよ。こんな偶然に、また会えるだなんて思ってなかった。地元の奴ら、古都と酒飲んだなんて言ったら妬くだろうなぁ」

どうしてよ、私のことなんてもう、誰も覚えていないでしょ。ここまでは、言った。こっちだって、あの、学年で一番人気者の恭介と二人でバーにいるだなんて知られたら血祭りに上げられるよ、とまでは言わなかった。この人たらしは、私が知っている限り、自分の特異なまでの人望に、最後まで気づくことはなかった。

それに、私は、高校を卒業したあとに家を出て以来、地元に帰ったことがなかった。両親とは元々折り合いが悪かったし、仕送りや資金なんかの支援も受けていなかったから、顔を見せる義理もないと思っていた。特別仲のいい人もいなかったし、これを機に、と連絡先も全て消して、自分で新しく携帯を契約したことも覚えている。そこらへんの事情も全て包括した上で、君は”また会えるだなんて思ってなかった”と言ったんだろう。確かに、偶然出会うくらいのことがないと、私達がもう一度顔を合わせることなんてなかったと思う。

「今、恭介は何してるの?」

「地元の高校で教員してる」

あんな狭い町だからさ、こんな風に店で飲もうことなら保護者に見つかってクレームだよ。本当に、君は高校生のまま年を重ねただけのように見える。君はこれから先もずっと、理想を捨てないまま生きていくんでしょと、高校時代に思ったことを、ついこの前のことのように思い出す。

だから遠出する予定のときは、いっつも飲めそうなところ探してる、と君は、面倒くさそうな口ぶりから想像できないほど嬉しそうに笑った。おかげで古都とも飲めてるし。透き通ってまっすぐな瞳に、私がめいっぱい映る。この人には、私が、あの頃と変わらない、ただの少女のように見えているのかな。

「古都は?」

「私は…」

なになにをしている、と言えない自分がいて、そういえば私、何をして毎日生きてるんだろう、と考えた。仕事はしている。オフィスで、誰でもできるようなことを。きっとあと五年もしたらAIに取って代わられる、そんな仕事。それを生業としている、とは言い難い。

そんなことを思っていた時、ふと、ヒールの靴がかつん、と音を立てて右足から落ちた。いつの間にか気分が良くなって、爪先だけで靴をぷらぷら揺らしていたらしい。カウンター下の段差にぶつかった靴は、斜め方向に飛んで行って、君の座っているスツールの後ろで、息絶えるように横向きに転がった。

「あ…」

それを見て君はグラスを置いて立ち上がる。それを見て、ぼんやりとしていた私も立って、靴を取りに行こうとした。タイル張りの床に、黒いタイツに包まれた爪先が触れて、冷たい感覚が足から全身へと這い上がった。

そのとき、皮膚に冷気が張り付くような、とても嫌な感覚がした。それと同時に思い出す。私が毎日、意味を持ってやっていること。

「っ」

「古都?」

カウンターに手をついて、右足は反射的に床から離し、縮こまったみたいになっている私を、靴を片手に君は仰ぎ見る。

「どうした?」

「…待ってる」

「え?」

何が言いたいのか、口に出るまで自分でも分からなかった。だけど、何をしていると聞かれて唯一頭に上ってきたのは、明言しなくたって、毎日繰り返して体に染みついているそれだった。


「寒くなくなるのを、ずっと、待ってる…」


そうだ、いつも、いつも。

ダブルベッドは私だけじゃとても寒くて、だから貴方が帰って来るのを、ひとりっきりでじっと待つのだ。貴方はいつも、太陽が昇る前、夜に帰って来る。決して朝帰りなんかじゃない。ただ残業や接待が長引いているだけで、ちゃんと、夜遅くに帰ってきている。だから私は心配なんかじゃないし、疑うなんてこともしていない。貴方はいつだって私が寒くて震えている場所に辿り着いて、ちゃんと、あったかくて大きな身体で包んでくれる。だから、だから、だから…。

頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。貴方の姿がぼやけていく。最後に、一緒にベッドに入ったのは、同じタイミングで眠りに落ちたのは、日の光の下で笑い合ったのは、いつ?


「…古都」

はっとして現実に戻ってきたのは、君の手が私の肩に触れて、そっとスツールに座らされてからだった。君は手に持った靴を床に置いてから、私の目元に指を添わせた。さっきからずっと、君の手は温かい。これは、ちゃんと、君が持っている君自身の温かさだということを、私は知っている。高校時代、両親とうまくいかないうえに、不器用で友達のひとりも作れない私を許すように、君はいつも、自然と落ちてきてしまう涙を、こうやって拭ってくれていた。君の前にいると弱くなる。安心してもいいと勘違いしてしまう。でもそんなことは許されない。だって君は、

「な、どうしたんだよ」

「なんでも、ない」

「何でもない奴がこんな風に泣かないだろ」

聞いて、と言われて顔を上げる。そこには、いつになく真剣な表情の君がいた。


「何かあるなら俺に言って。できることならなんでもするから。」


そんなこと言ったって、君は。

あの頃だって絶対、私だけの君じゃなかったじゃない。


怒りにも似たどろどろとした気持ち悪いものが込み上げてくるけど、喉元でぐっと留めた。君に何を求めているんだろう。私だって、あの頃も今も君だけの私なんかじゃなかった。特に今なんて、本当は貴方だけの私であるべきなのに。

いかにも教師然とした態度で、君は私に正しい道を示す。正しい道以外を知らない君みたいな人は、私にとって明るくて眩しい存在で、そうであるがばっかりに少し、遠い。

「何を言ったって、きっと理解できないよ」

「言ってみないとわかんないだろ」

「やめて、どうせ誰にだって同じこと言うんでしょ」


「そんなことない。古都だから言ってる」


そう言って君は、優しく私を抱きしめた。

「ずっと後悔してたんだよ。あのときどうして、話を聞くしかできなかったんだろうって。俺にも何かできることがあったんじゃないかって。

でも自分で道を切り開いて、その先に息がしやすい場所があるならそれが一番いいやって自分を納得させてた。だけど今日、顔見て思った。

今だって古都は、あの頃から何も変わってないよ。いいところも、悪いところも。

いいところは、自分で考えて行動できるところ。悪いところも、同じ。自分だけで考えて突っ走るところ。

もっと頼ってほしい。こんな風に、誰もいないかもしれないところで、ひとりで泣かないでほしい。そんなことを思うのは、古都に対してだけだよ」

そのあとに続く言葉はなかった。

多分君は、気づいていた。私の右手の薬指、細かいサファイアがいくつか埋め込まれた細い銀色。だから、言わなかった。

最後の方は、君の声も震えて、かき消えそうになっていた。それがお酒の為せる技なのかどうかは、そんな場を大して経験していない私には判断できなかった。

ただ、私だって分かっておきながら、ブルゾンの下に着ていたワイシャツを、きゅっと右手で握った。そのとき、服越しにほんの少しだけ触れた君の肌は、私と同じくらい、熱く火照っていた。

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