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第1話

ぬくもりが足りなくて、冷えた爪先を擦り合わせながら羽毛布団をたぐり寄せた。肩まで引き上げたけれど、今度は足首が空気に晒されて寒くなる。指先を使って足を覆うようにすると、また上の布団が足りなくなって、だんだん埒が明かなくなってくる。数回それを繰り返して寒さを感じなくなってきたあたりで、これはもう起きてランニングにでも行った方がいいんじゃないかなと皮肉っぽく考えていたとき、ふいに布団が独りでに45度回転して、そっと私の肩と爪先を覆った。


「…おはよう?

それとも、おやすみ?」


低くて心地いい声が足元で聞こえる。枕から少し頭を浮かせると、そこにはこちらを見つめながらネクタイを緩める貴方の姿があった。

寂しくさせたくせに、なんて、言いたいことはちゃんとあったはずなのに、その、私を見る優しげに細められた瞳と目が合ったら、自然と口から苦味が消えていく。私は何も聞かなかった。ただ、すぐ近くにある窓にかけられたカーテンをめくって、外を確かめた。外はまだ暗い。まだ、まだ大丈夫。

「一緒に”おやすみ”、かな…」

上半身だけを起こし、指先でワイシャツの袖を掴む。貴方は「そうしようか」と言ってから、「ちょっと待っててくれる?着替えてくるから」と私の頭に触れ、そっと立ち上がった。

「うん、待ってる」


「ごめん、寒かったね」

「だいじょうぶ」

そんなことを言ってはみるものの、貴方には全てお見通しなようで、布団をめくって隣に滑り込んだあと、すぐに大きな足で私の爪先を挟んでくれた。貴方のは私の、すぐに冷たくなるそれとは違ってひどく温かい。帰ってきたんだと、なぜだか涙が溢れそうになった。いつだってこの場所は貴方のためにあって、だからいつだって貴方はここに帰ってくる、はずなのに。

「冷たいね」

そう言って貴方は後ろから私をぎゅっと抱きしめた。ついさっきまで布団がかかっていなかった肩が、たっぷりの温もりで包まれる。貴方の、私を甘やかしてくれる大きな身体がことに気づいていない、と言ったら嘘になる。だけど私は何も言わないまま目を閉じた。

だって、今は夜だから。朝はまだ、来ていないから。






「今日も遅くなるかも」

「そっか」

「先に寝てていいよ。しっかり厚着してね。今日、寒そうだったから」

わざと薄い服着てるでしょと、からから可笑しそうに笑いながら、貴方はまた私の頭を撫でた。高い場所から降って来る声は、いつも私の心の奥にある、柔らかいところに触れる。きっと私もよく分かっていない何かを、いとも簡単に震わせる。

後ろから抱きしめて首に顔をうずめるから、「くすぐったいよ」と言って振り返った。年上のくせに、いたずらがばれた子供みたいに、ちょっと嬉しそうに微笑む。

「構ってほしかった」

「はいはい」

ついさっき、五時間前に布団に入ったばかりなのに、忙しい貴方はまたワイシャツを着ている。甘やかしたくなるのは最早性さがのようなもので、私は背伸びをしてそっとキスをした。ほんの少しだけ触れた薄い唇は、布団の中にいたときの貴方と違って、つんと冷えていた。

「頑張ってね」

「うん」

そう言って貴方は革靴を履くと、玄関のドアを開けた。外はもう太陽が昇っていて、冬のきんとした空気に反射して光る日光の結晶が見えそうだった。そちらに踏み出していく貴方は、はっきりとした紺色のスーツを着ているのに、それに溶けて消えそうなほど儚く見える。どうしてだろう、私達の愛は、ちゃんとうまくいっているのに。だってこれだけ愛して、愛されているのに。


「…あおいくん…」

「どした?」

「ううん、何でもない」

いってらっしゃいと、これ以上何かを聞かれる前に手を振った。貴方は一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、すぐに「いってきます」と外に出ていく。そのあとすぐに扉は閉まって、私と貴方の間に壁を作った。がちゃん、やけに大きく鍵を閉める音が、一人きりの二人の部屋に響いた。




貴方ほど早く出なくてもいいけれど、私も仕事があるから、家を適度に片づけつつ身繕いをする。朝ご飯を食べたままになっていた二人分の食器を片付けて、歯を磨き、服を着替えたあとに、リビングの食卓に化粧道具と卓上ミラーを置いた。前髪をクリップでよけて、暖房をかけていてもかじかむ肌に冷たい化粧水をなじませる。そこに映った自分の顔が、すっぴんだとしたって、あまりにも覇気のなさすぎる表情をしているのに気が付いて、思わず覗き込んでしまった。

この冬は例年に比べて寒さが厳しく、乾燥も激しい。それならしっかりとクリームで保湿してあげないといけないのに、今年はなぜか頭から抜けていて、全くしていなかった。そのせいで肌のハリがないし、化粧水が触れただけでぴりぴりと軽い痛みを感じる。それ以外だって、寝ていないわけでもないのにクマは濃くなっているし、血色感もない。伸びたままになっている髪の毛も相まって、いじわるな人なら『幽霊だ』くらい言いかねない形相だった。


こんな私だから、貴方は愛想を尽かすのかな。


そんなことを考えながら、乳液を塗り、下地を重ね、ファンデをつけ、眉を描き、まつげを上げ、唇に色を入れる。ほとんど流れ作業になったそれは、今や”楽しむもの”だとか、”綺麗に見せるもの”なんかじゃなくて、外に出るために儀式みたいなものだった。あんな不健康な顔を、世間に晒すことなんてできないから。


化粧は終わったから、鞄の中身を確かめ、最後に衣裳部屋に戻り、時計が入った引き出しを開けた。二年前、初めてのクリスマスで貴方がくれた腕時計。実は俺、自分用にも買ったんだよねと、そのとき私の腕に巻いたものと同じデザインのものを取り出した、少し自慢げな笑顔でこちらを見つめる貴方が、今もまだ頭の中にいる。腕時計をもらったことよりも、貴方が同じものを買っていたことのほうが嬉しかっただなんて言えないけれど、胸の中で強く思っていた。シンプルだけど、凝った文字盤の数字がとても美しい一品だった。引き出しの中には他にもアクセサリーがいくつか入っていて、その中にある時計を手に取ろうとしたとき、隣に似たデザインのものが横たわっていることに気が付いた。

「…忘れ物かな」

私がそうであるように、貴方もこの時計を重宝していた。今日は時計がないまま仕事をするのか、大丈夫かななんて考えたけれど、思い出してみれば、さっき貴方の手首には、重そうな銀色が嵌っていたような気がする。あんな時計、持っていたっけ。でも、そんなことを考えたって私にはどうすることもできない。私のそれより少し大きいものから目を逸らして、すばやく時計を取り出して引き出しを閉じた。






何もおかしくない。私達はうまくいっている。


貴方はいつだって私に甘えてくるけれど、いつだってこちらがした以上に私を甘やかしてくれる。今年の初めに部署が異動になったこともあって、飲み会や接待が増えたようだけど、ちゃんと日が昇るより前に帰ってきて、私の隣で眠ってくれる。自分が忙しいことなんて棚に上げて、その代わりに私の体調を気にしてくれる。貴方は、子供っぽく見えるけれど、どんなときだって私を一番に考えてくれる、とっても優しい人。何一つとして怖がる必要なんてないのに。このまま、何も考えずに、あの温もりに抱かれていればいいのに。


馬鹿な私は考えてしまう。

”私が一番だとしたところで、二番目がいたら?”


確証はない。ただの飲み会だ、接待だと言われたら、それを確かめるすべはないから。

だけど、考えてしまう。出会ったばかりのあの頃、まだ十月なのに、冷え性でコートを羽織って映画を見に来た私に、厚めのニットを着た貴方は『お互いこれからの季節は大変ですね』と言って、照れ臭そうに微笑みながら私の指先に触れたのだった。確かにその手の表面はひやっとして冷たかったけれど、奥の方にかすかにぬくもりが宿っていて、その温度に親近感と安心を覚えた。

今となっては私を温めてくれるようになって、大好きな人に包まれ、ひとつになったみたいでとても嬉しいはずなのに、どうしようもなく、虚しさを感じてしまう。時が経って、私の肌が枯れていったのと同じで、貴方だって変わっていく。だけど愛だけは変わらずにいつだって私が一番で、だからきっとこれで大丈夫なはずだった。

でも、私がほしかったのはじゃなかった。

じゃあなのか、それは、分からなくて、むしろだんだん、薄れていって。






「…お疲れ様でした…」


今日もそつのない一日だった。きっと誰でもいい、だけど誰かがしないといけない仕事をこなし、家路につく。形だけの挨拶を投げたはいいものの、しがない事務員に返す返事なんてもったいないという様子で、営業マンは誰一人としてパソコンのディスプレイから目を離さない。私なんて忘れられても仕方がない人間なんだって分かっているはずなのに、化粧も挨拶もやめられない。私は見られているんだと、存在を認められているんだと、せめて自分自身には言ってあげたくて。

だけど、寒さが厳しくなってくるたびに、だんだん心も擦り減ってくる。もう12月に入ってしまった。街はクリスマス一色で、どんなお店にも何かしら赤と緑色の装飾がが飾られている。私のコートの生地はだんだん厚くなっているのに、長く細い足を大胆に露出している女の子達の方が、頬が紅潮しているのはどうしてなんだろう。心なしかいつもより寄り添った影達の歩くスピードが速い街で、私はゆっくりとした歩調を保った。どうせ家に帰ったって、無駄に広い部屋でひとりっきり、寂しさを突きつけられるだけだから。


「ココアがいいなぁ…」

「分かった、分かったってほらっ」


どこから聞こえたのか、はずんだ誰かの声が聞こえる。下を向いていた顔を上げ、辺りを見回すと、チェーンのファミレスの前の自動販売機で、男女の2人組が飲み物を買っているところだった。男の人は諦めたように息を吐き、でも口元は楽しそうに笑っていて、屈んで取り出し口から一本の缶を受け取る。吐息と湯気は白く、2人を優しく包んでいるのが見えて、まるで、濃い霧で私との間を隔てているようだと思った。

「え、一本だけ?」

「…まだいる?」

ふたりの視線が意味ありげに交錯する。すると、男の人の笑顔が女の人にも伝染して、照れ臭そうに下を向いて鼻を擦った。

「…別に、どっちでも」

女の人はかすかにそう言って、先に歩いて行った。その後ろを、男の人が追いかける。彼が追いついたあとは、足並みはぴったりと揃っていて、ときどきくっついたり離れたりする。ふたりの影は私が信号待ちをしていた場所を追い越していって、すぐに人並みに紛れて見えなくなった。

隣を歩き去っていったおじさんに怪訝な目で見られて、私は慌てて横断歩道を渡る。都会の夜の街は人で溢れかえっていて、決して見つかるわけなんてないけれど、それから数分、駅に着くまでずっと、私の目は彼らを探し続けていた。特別なんかじゃないことでも幸せだったあの頃の私達と同じ表情をしていた彼らは、これから先、時が経って、どこへ向かうんだろうと、それを確かめたくて。


そんなふうにぼんやりと歩いていたら、いつのまにか気づかないうちに足は駅へと私を連れて来ていた。習慣ってすごい、というか怖い、と、これまた何も考えずに改札へ足が向いていて、手は鞄の中を探っている。意識してゆっくり歩いていたはずなのに、これじゃあきっといつもと同じだ。でも、ここから寄り道するとして、どこに行くのが正解なのか。デパート、ファッションビル、ファミレス、バー、都会には色んなものがあるけれど、そのどれもが、私の目には少し眩しい。何をするにも体力は必要で、それはたとえ楽しいことをするためにも同じことが言える。私にはそれが、少しだけ他の人より少し足りないんだ。深い眠りに就いて、ゆっくりと身を癒して、朝の澄んで冷えた空気を吸い込んだとしてもなお、私には、こんなきらびやかなところを一人で歩く元気はない。

やっぱりこのまま帰るのが得策だろう。短く息を吐いて、定期はどこだろうと指先で探していたとき、ふいに、背中から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。



古都こと?」



「えっ」

貴方かもしれないと思って、それは違うとすぐに打ち消す。”遅くなる”と言った日に、遅くならないことは一度たりともなかった。後ろを振り返り、誰だろうと探る。貴方より少し高い、まっすぐとした声色だった。帰宅ラッシュの雑踏のどこにいるんだろうと目を凝らしたけれど、全然分からなかった。きっとあの人だと思う、なんて頭に浮かんだ姿はそういえば高校の卒業式以来か、と自分の記憶だって曖昧だということに気づく。10年とは言わないけれど、長い時間をかけて大人になったお互いの見た目なんて様変わりしているに決まっている。多分、見つけられないだろう。このまま探し続けても迷惑になるだけだし、踵を返し、もう一度改札に向かったとき、肩を叩かれたあとに、今度ははっきりと、懐かしい声が聞こえた。どうしてか、見つかっちゃった、と、泣きそうな気持ちで振り返った。






「やっぱり古都、」

「…恭介きょうすけ?」






気が付くと真後ろにいた、うんと遠い地元の同級生は、私と目が合うと満面の笑みを浮かべた。あの頃とほとんど変わらない、ころころ変わる表情と、短い髪の毛。紺色のブルゾンが幼く、君の明るい雰囲気をさらに輝かせていた。

「久しぶり、偶然だな」

当然のように君は私の手を引いて、人の邪魔にならない柱の影まで連れていく。本当に高校生の頃に戻ってしまったかのように熱く、気を抜けば震えそうになってしまう触れ合った手首の緊張が恥ずかしくて、足を止めてからすぐに、そっと君から抜け出した。

「うん、本当に…どうして、こんなところに?」

「こっちで仕事の研修があったんだよ。こんな年の瀬にどうしてって感じ…」

そこまで言った君は不自然に言葉を途切らせて、こちらをまっすぐ見つめた。昔からこんな人だったなと、ぼんやり考え事をしていたら、さらに覗き込まれて驚いた。

「ど、したの…」

「何かあった?」

顔が暗すぎる、寒いにしても手だって異様に冷たいし。

何故か、胸にぐさぐさと突き刺さる言葉が痛かった。こんな私のことなんて、皆、どうでもいいくせに、どうして君だけは。お願いこれ以上、何も言わないで、




「俺にも話せない?

そんな顔してたら、心配になるわ」




君にとって何気ない言葉はきっと、私にとって、一番欲しかったものだったんだと、思う。

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