第4話

先に目覚めたのは私の方だった。

まだ朝日が昇る前、でもすぐそこに迫っている、そんな時間。いつもはまだ、眠る前の時間。なぜか眠りに落ちた夜よりも冷たい空気が流れている。でもそこまで寒くない、と思って自分の格好を見たら、昨日は気付かなかったけれど、貴方のパーカーがパジャマの上に着せられていた。

今日は土曜日で、二人とも予定はない。だから起きたときにも、貴方は隣で静かに寝息を立てていた。昨日、布団に入ったときと全く同じ、私とは逆方向を向いて眠っている。いつも着ているものがないからなのか、少し寒そうに両手を胸の前で抱きしめたまま眠っているのがおかしかった。

私達はきっと、このままやっていこうとしたらできるくらいの、そんな溝を目の前にして立っていると思う。きっとどちらかがどちらかを大らかに許すことができれば、これまでと同じ生活を続けることができる。だけど、私が私として、もしくは貴方が貴方として、しっかりと自己を確立した上で生きるには、それは少し難しいことなのかもしれない。

多少の気持ち悪さが、まだ喉の奥に残っている。それがお酒のせいなのか、過呼吸の後遺症なのか、今は確かめたくない気分だった。曖昧が正しいことだって、たまには認めてあげたっていいと思う。


できるだけ振動を起こさないように、そっとベッドから降りる。そのまま貴方が顔を向けている方向にある窓にかかっているカーテンを引いた。

やっぱり予想通り、外はまだ太陽が上っていなくて、ほとんど完全な闇に包まれている。でも、その闇に、光がないことなんて絶対にない。今も、新聞配達のバイクが通っていった。ライトが暗闇を切り裂くように走っていくと、それを追うように、カラスが低空を飛ぶ。その瞳は黒いけれど、水分で潤っているから、何かに反射して光っている。だんだんとカラスは群れを成して、同じ道を行き来しながら、少しずつ高度を上げていく。二十匹を超えたあたりで、私達が住んでいる階よりも上を飛ぶようになった。普段はごみを荒らすからあまりいい印象はない鳥だけど、こんな、光の使者みたいな姿を見せられたら、少し逞しいようにも見えてくる。そして先頭を飛んでいたひときわ大きなカラスが、全身をしならせて一声鳴くと、群れは一気にほどけ、方々へ飛んでいった。どこへ行くのかなんて知らない、けれど皆、はっきりとどこか一か所を求めている。そういえば日本神話に、八咫烏なんていう、道案内をする不思議な烏がいたような気がする。今は、誰の道案内をしているんだろう。

そんなことを考えていると、ふいに横から痛いくらいに眩しい光が差し込んできて、思わず目をぎゅっと瞑った。私には直視することができない、けれどここで生きていかなければならない、そんな朝が来た。恐れる理由なんていくつだってある。貴方がこの時間までに帰ってこなかったら。ひとりっきりの夜明けなんて耐えられない。確かに、そう思っていた。


「…古都」

後ろから掠れた声が聞こえてくる。私は閉じた目を開きながら振り返った。

「おはよう、葵くん」

少し疲れているのか、目の下に隈ができている。ごめんね、きっと私のせいだ、と思いつつ、もう謝るのはやめようと心に決めていた。

「調子は、大丈夫?」

「うん。昨日、ありがとうね」

そう言うと、本当に安心した表情で眦を下げる。そういう表情をすると、昔はなかった笑い皺が一本、左目の横に入る。出会った頃はなかったものだ。だからきっと、似たようなものが私にもあるんだと思う。その姿を、記憶に刻み付けておこうと思って、正面からじっと見つめた。普段はこういうことをすると、恥ずかしいのか目を逸らすことが多いけれど、今日は逃げずに私の視線を受け止めてくれた。

目覚めたばかりの私達は、身に着けているものが少ない。出会って一緒に過ごすようになって、今日までで、だんだんと増えていった装飾品だとか、修辞句だとか、そんなものが一番少ない、素の私達。こんな姿で向かい合うのは一体いつぶりだろう。

切れ長の瞼に綺麗な黒曜石を抱く瞳。すっと通った鼻筋と、薄い唇。首と右の鎖骨の付け根に、二つ並んでいる小さなほくろも、他人より大きく突き出しているくるぶしの骨も、全部全部、覚えるくらいには一緒にいた。愛しいな、と思う程度には、大好きだった。

名残惜しいのはもちろん。後ろ髪なんて引かれすぎて、昨日しっかりと乾かしてもらった毛先の潤いがなくなってしまいそうだ。だけど、私達は、きっと多くのものを秤にかけすぎてしまった。損得勘定、それは貴方だけではなく、私の中にも確実にあった。だから。

まだ寒いけれど、私は、貴方の匂いがするパーカーから袖を抜き取った。指がでてこないくらい大きなそれは、初めて着たわけじゃなかった。ずっと貴方が持っていたもので、時々、ふざけて着せてくれたことがあった。だぼだぼじゃん。うん、そうだよだって、葵くん大きいから。そんな、甘ったるくもにやけちゃうような思い出が今、私の手から離れていく。

それを、どこか諦めたように下を向く貴方の手に押し付けながら、私ははっきりと、ずっと用意していた言葉を口にした。


「今まで、ありがとう」


笑おう、と決めていた。だけど、零れてしまうものはどうしても止められなかった。絶対に変な顔をしているのは分かっていたけれど、それでもやめなかった。貴方も、同じように、複雑な顔をしていたから。

きっとお互いに、いつ言われても仕方がない、もしくはいつ自分の口から飛び出しても仕方がないと思っていた言葉を告げたと思う。貴方は、手のひらに乗せられたパーカーをそのままにして、それでも、私でもない、奥の方を眺めて目を少し細めていた。さっきまでと同じように諦めた様子で視線を下げているけれど、口元は、どこか笑っているようにも見えた。それが何を意味するのか、私にはわからないけれど、もしかしたら同じ理由なのかもしれない、と思う。

貴方のターンだと思っていたから、私は何も言わなかった。そうすると、長いこと沈黙が降りた後に、こちらを見て、にこりと笑ってくれた。それは、注意深く見ないとわからないくらい、ほんの少しだけ口角が上がったささやかな笑顔だったけれど、私を助けてくれたあの日の、素から滲み出る気持ちを前面に押し出した、素敵な笑顔だった。そして一筋だけ、光の線が頬に走る。拭わないままにしていた私と違って、貴方は、それをすぐに腕でふき取り、私に言った。


「こちらこそ、ずっと、ありがとう。

苦しめて、ごめん」


そんなことないよ、私達はお互いに罪を背負ってるよと言って、背中をさすってあげたかった。けれど今の私には、もうそんな権利はないと気づく。だから首を左右に振るだけにとどめた。

最後に迎える、二人っきりの朝だった。そんな日の空は、皮肉のように雲一つなく晴れ渡っていて、どうしてこんなときだけ、と思ったけれど、これはこれで、これまでの私達らしくない、いい門出なのかもしれないと思う。ただいつもと違って、全く触れ合わない自分達に違和感を感じながらも、ただひたすら、花が咲くようにいろんな場所に光が増えていく街を眺めていた。隣で貴方が、何度も鼻をすすりあげ、腕で顔を擦っていた。




「じゃあ、基本的には全部、私のものは捨ててもらって構わないから」

「わかった」

玄関先で、私はブーツを履く。貴方はまだスリッパを履いていて、部屋着のままだった。

一緒に住んではいたものの、私が住んでいた場所は解約していなかったから、実は必要最低限のものしかこの部屋にはない。スーツケースとボストンバッグを一つずつ手にすれば、十分なくらいだった。別れにおいて、ここを出ていくことなんて、案外1番簡単な事だったのかもしれない。

何か判断に困るものがあれば連絡して。そう言ったけれど、恐らく連絡が来ることはないだろうな、と感じていた。右手の薬指にはめていたものも、おそろいの時計も全部、置いて行ってるから。ひとつ、けじめとして、手放しておかないといけないと思っていた。

「じゃあ、元気でね」

最後の挨拶。私は、少し元気がなさそうな貴方をしっかりと見つめた。

さよなら、貴方と、貴方を愛した私。

「うん…ねぇ、」

少しだけ、目を閉じて


そう言われて、反射的に瞼を閉じてしまう自分がいた。正直に言うと、待っていたんだと思う。


薄い唇が、私のグロスを塗ったそれと触れ合う。


「ごめんね、最後まで。

ありがとう、ずっと、今日までずっと、大好きだった」




それをしっかりと最後まで聞いて、頷いたあとに、私は玄関の扉を開けた。重い重い荷物を引きずって、もっといたいと今にも叫び出しそうな体を外へ押し出す。何も思っていないと、そんな振る舞いをしたところでばれるのはわかっていたけれど、せめてそういう風に見せる努力はしたかった。

起きてから数時間経って、太陽はすっかり上りきって、冬にしては空気を温めているんだと思う。過呼吸を起こして傷ついている喉が痛むことはなかったから。だけど、温度を直に感じられるはずの器官から、その感覚が抜け出してしまったみたいに、私の中身はきゅっと固まってしまっていた。あぁ、冷たい、暖かいという感覚でさえ、私が元から持っていたわけじゃなくて、貴方がくれたものだったんだと、今更気がつく。

扉が閉まって、追いかけてくることもないまま、私達の間に本当の壁ができた瞬間、全てが溢れてくる。大人になったはずなのに、抑えることもできないまま、涙と本音がこぼれ落ちてくる。その雫が手の甲に落ちた時だけだけ、確かに冷たいと感じていた。

あぁ、言いたくなかった。




「…今だって、私は、っ…」




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