最終話 この世界で……

 花火が打ち上がり始めた――。

 ハルちゃんと来たときは、手を繋いで同じ空を見上げていた。

 たまに覗き見るように花火の光に照らされたハルちゃんの横顔を見つめる。花火に見惚れる横顔は忘れることはないと思っていた。

 ハルちゃんも同じようにこちらを見ていたのか、目が合うこともあった。そのときはお互いに照れ笑いを浮かべ、また花火を一緒に見上げる。

 そんな時間が幸せで、こうやって思い出を積み上げていくのだと思っていた。

 幸せがずっと続けばいいなと花火が上がる空に願い、忘れたくない思い出として心に刻んだはずだった。

 それなのに、ハルちゃんは突然いなくなってしまった。


 今は一人で同じ場所から、花火を見上げている。

 色鮮やかなはずの花火は、俺の目には色褪せてモノクロに見えた。

 ただ光の花が夜空に咲いて、何も残さずに消えていく――。

 ハルちゃんの存在は、なんだか花火のようだと思った。

 一緒にいたはずの時間は、眩しくて、彩りに満ちていたはずなのに、ハルちゃんの存在と共に消えてしまった。

 世界は弓月悠という存在そのものを理不尽に消し去り、俺からは弓月悠に関する記憶と存在する理由を消していった。


「もう……無理だ……」


 俺の心は限界を迎えていた。

 一人で見上げる花火は、ひどく惨めで、虚しいばかりで、誰とも共感も共有もすることができない。

 共感も共有もできないということは、何もなかったことに等しい。

 それはハルちゃんの存在と同じで――。

 そういうことに俺はずっと抗って、一人で足掻いてきた。

 だけど、もう足掻くための気力は失われつつあった。どう足掻いていいかも分からなくなっていて、そもそも足掻いたところでハルちゃんが帰ってくる未来なんてないということを、俺は痛いほど理解している。

 今の心の支えは、花火を見に行こうと誘う十年以上前のハルちゃんから届いたメールだけで、それも何かの間違いか俺の想像の産物だったのかもしれない。

 夢や幻だったとしても、俺にとっては意味のあることだった。

 それなのに、世界は非情で現実的で、わずかな希望も期待も抱かせてくれなかった。


「もう涙も流れないんだな……」


 泣きたいのに、涙も枯れ果てていた。

 ハルちゃんのことを思い、今まで何度泣いたか分からない。きっと俺が覚えていない過去の自分も、ハルちゃんのことを思ってたくさん泣いたに違いない。


 俺は世界から一人取り残された存在なのかもしれない。

 だから、ずっと孤独で、足を止めてしまった今はもうどこにも行けない。

 帰る場所も、戻るべき場所も分からない。

 辿り着きたい場所もなく、進むべき道も見えない。

 前も後ろも暗闇に包まれ、選択肢も残されていない。

 乾ききった心が完全に朽ちていくのを待つ以外にできることがなかった。

 それは、命の終わりか、心が死んだ時か、今の自分という存在が消えてしまった時か。

 そのときに俺はようやく救われるのかもしれない――。


 心の中に残ったのは、絶望だけだった。

 意識がゆっくりと暗い闇へと沈んでいくのを感じていた。

 そんな俺の手を誰かが掴んで、力強く引き上げた。

 その手は現実の感触として、俺の右手に温もりを与えてくれる。

 その温かさは心に染みこみ、馴染んでいく。

 覚えていないはずなのに、忘れてしまったはずなのに、どうしようもなく懐かしくて、当たり前にそこにあるもので、ずっと探し求めていたものだった――。

 俺の手の先には――隣には、あの日の続きのように花火を見上げている浴衣姿のハルちゃんがいた。

 俺は全てを取り戻し、色鮮やかな花火が打ち上がる空を見上げた。


「ハルちゃんは変わらないね」

「ユウくんは、少し背が高くなった?」


 花火の音が鳴り響いている中でも、ハルちゃんの少し高くて澄んだ声はちゃんと耳に届く。

 ただ名前を呼ばれただけなのに、心が満たされていく。


「かもね。あれから、十年以上経ったからね」

「そうなんだ」

「うん。ねえ、ハルちゃん。もし世界から俺だけが消えたら、ハルちゃんはどうする?」

「想像したくないなあ。そんな世界で私は生きていける自信ないな」

「そうだよね。実際、ハルちゃんがいない世界はつらくて、つまらなかったよ」

「そっか」


 ハルちゃんの相槌が心地よかった。

 同じ時間を生きてこなかったはずなのに、今もピタリと重なる価値観や感覚が心地よかった。


「ハルちゃんがいない世界でも、ずっとハルちゃんのことを想っていたよ」

「本当に? 私もユウくんのこと、ずっと想っていたよ」

「ありがとう。あの日から、ハルちゃんとずっと一緒にいられたら、今はどんなに幸せだっただろうな。神様にもこの空にもそう願ったんだけどな」

「私は時が止まればいいなって思って、そう願ったよ」

「どうして?」

「神社でね、そうお願いしたんだ。私から告白するつもりだったから、もしダメだったときも断られる前なら居心地のいい幼馴染って関係をずっと続けられると思ったんだ」

「俺がハルちゃんのことを断るわけないだろ」

「ついこないだも同じこと言ってたね、ユウくん」


 ハルちゃんはクスリと隣で小さく笑っていた。きっと見慣れた笑顔を浮かべているのだろう。


「私はとっても幸せなんだよ。ユウくんと過ごしてきた時間も、恋人になったことも、こうやって手を繋いでいることも。本当に幸せ過ぎて、ユウくんのことを絶対に誰にも渡したくないって思ったんだ」

「ハルちゃんって、そんなに独占欲強かったっけ?」

「自覚なかったけど、たぶん強かったんだよ。ユウくんがレイナやアヤカ以外の女の子と話してたら、なんかモヤってたし。今思えば、面白くなくて、ヤキモチを焼いてただけなんだろうね」


 ハルちゃんの少し照れたような声がくすぐったくて、気持ちが嬉しくて、自然と笑みがこぼれてしまう。


「そうだったんだ。なんだか、もうこの手を離したくないな……いや、今度は何があっても離さない」

「ユウくん、いくつになっても私のこと好きすぎない?」


 ハルちゃんの声は嬉しそうなのに、どこか悲しげにも聞こえた。


「そういえばさ、ハルちゃんに言いたいことがあったんだ」

「なに?」

「好きだよ。あと、今日の浴衣……よく似合ってて、かわいいよ」

「ありがとう、ユウくん。私も好きだよ。あと、甚平姿かっこいいよ」


 花火の光の中で、ハルちゃんと目が合った。顔を見合わせて、いつものように笑い合った。


 次の瞬間、体がふっと軽くなった。花火に照らされた俺はあの日と同じ甚平を着ていて、ハルちゃんと二人、手を繋いで花火を見上げていた。

 そんな最高の時間をポケットに入れていたスマホが振動して、邪魔してきた。

 仕方なくスマホを取り出すと、健太からメールが届いていた。


『弓月との花火の時間邪魔して悪いな。こっちも楽しくやってるから、花火が終わったらどこかで合流しようぜ』


 そんなメッセージと共に、一枚の写真が添付されていた。

 見慣れたいつもの仲のいい“五人”が写った写真――。

 その写真を見て、不思議と納得してしまった。


「どうかした、ユウくん?」


 ハルちゃんの心配そうな声で、現実に引き戻された。


「健太からメール来たんだよ。もしかしたら、ハルちゃんのところにも来てるんじゃない?」


 ハルちゃんはかごバックからスマホを取り出すと、「あっ、本当だ。レイナから届いてる」と口にしながらメールを見て、小さく笑っていた。


「で、どうしよっか?」

「花火終わったら、みんなに会いに行こう」

「うん。じゃあ、今はユウくんを独り占めだね」

「なら、俺は遠慮なくハルちゃんを独占できるな」

「独占していいんだよ。だって、恋人だもん」

「そうだね。俺の時間は全部ハルちゃんにあげるよ」


 ハルちゃんの手をしっかりと握り直した。何故だか分からないけれど、この手を離してはいけない気がしたからだ。

 今日はみんなで花火に来て、ハルちゃんと抜け出して、二人だけの秘密の場所で花火を見上げている――。


 涙が一筋流れ落ちた。

 涙と一緒に、何かがこぼれ落ちていった。

 それが何かは思い出せない。

 それなのに、悲しさや苦しさがこみ上げてきた。

 それもすぐに、繋いだ手から感じるハルちゃんの温かさと湧き上がる幸福感に上書きされ、消えていった。


 打ち上がる花火に照らされた隣にいるハルちゃんの横顔を見つめる。

 絶対に忘れてはいけない、忘れるはずがない愛しい人の顔。


 この世界しか知らないはずなのに、“この世界”で大事に生きていきたいと、花火と空に浮かぶ半分の月に誓った――――。

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