第34話 虚と実の狭間で

 過去の自分からの手紙が引き金になり、弓月悠という女の子のことをわずかながら思い出すことができた。

 近所に住む幼馴染で、ずっと一緒に育ってきた俺の初恋の相手で、初めての恋人。

 しかし、声や顔は思い出すことができないままだった。

 それでも、ハルちゃんの影というものに怯えることはなくなり、今は愛おしいものに思える。

 帰り際に実家の玄関で靴を履いていると、玄関の段差に座って、俺が靴を履き終えるのを待ちながら見上げてくるような視線を感じた。

 ハルちゃんの家の前で立ち止まると、今にも家から出てきそうな気がした。

 駅まで歩く道中も、ずっと隣で一緒に歩いているような気配を感じた。

 そういう影や気配のひとつひとつがハルちゃんとの記憶の欠片ということなら、いつもハルちゃんは近くにいたことになる。

 何気ない日常の中にハルちゃんはいて、俺はずっとハルちゃんのことを意識していたのだろう。


 俺にとって、世界の中心にはいつもハルちゃんがいた――。


 そして、今の俺の隣には、吉川初玖がいる。

 過去の自分は、吉川さえいなければ、ハルちゃんはここにいたのかもしれないと、表には出すことはなかったがよくない感情を抱えていた。

 だけど、今の俺にとっては、吉川は恋人だ。

 ハルちゃんの記憶を取り戻してもなお、吉川が幼稚園からずっと一緒で幼馴染と言える存在で、仲のいい友達グループにいるというのは、紛れもない事実として記憶に刻まれている。

 だから、昔の自分も吉川を完全に拒絶するということに、無意識下で心理的な抵抗感があったのかもしれない。


「おかえり」


 一人暮らしの部屋に帰ると、合鍵を渡している吉川が笑顔で出迎えてくれる。

 この笑顔に癒され、そばにいることを決めたはずだった。

 それなのに、今は吉川の顔に影が重なる。

 ハルちゃんと一緒に時を重ねた世界では、そこにいるのはきっとハルちゃんなのだろう。もしかすると、そうであってほしいと、心がハルちゃんの姿を投影しようとしているのかもしれない。


「うん、ただいま」

「なんか元気ないね。何かあった?」


 吉川が至近距離から俺の顔を覗き込むように見てくる。その声と表情にノイズが混じる。

 きっと吉川は心配してくれているのだろう。

 少し前までなら心配をかけたくなくて強がったり、誤魔化していたか、吉川に甘えて感情を吐き出すかしていたかもしれない。

 ただ今の俺は、どんな表情をすればいいか、何を言えばいいのか分からない。

 ただただ悲しくて、現実は残酷でどうしようもなくて、胸の奥が締め付けられるように苦しい。


「大丈夫だよ。たぶん少し疲れが出ただけだと思うから……」

「そう? 帰ってきたら一緒にご飯食べようと思って準備してたんだけど、どうする?」

「今はあんまり食欲ないんだ、ごめん。あとでちゃんと食べるよ。だから、少しだけ休ませて……」

「分かった。温めればいいようにしておくね」


 ベッドに倒れ込み、目を閉じる。

 そのままいつの間にか眠りこけてしまい、短い夢を見た気がする。

 誰かと手を繋いで花火を見た記憶。

 顔も声も思い出せない誰かの温もりだけをずっと感じていた――。



 立ち止まりたいと思っても、世界も時間も止まってくれない。

 日々仕事をこなして、週末を中心に吉川と会い、恋人としての時間を過ごす。平日の夜などには、健太たちとゲームをしたり、たまに横沢たちも含めて通話をしたりする。

 それは吉川と恋人になって、再び手に入れた大事な人たちとの繋がりと楽しく満ち足りた時間。

 そのはずなのに、今は心から楽しいとも幸せとも思えなくなっていた。

 一番近くにいる吉川の表情が読めなくなったから。

 親友のはずの健太たちの言葉が信用できなくなったから。

 付き合いの長さから察することができたりしていた、みんなの気持ちや感情の動きが分からなくなったから――。

 ハルちゃんがいなくなり、自身の記憶も感情も捻じ曲げられたという感覚が自分の中に実体験としてあるからこそ、友達たちの記憶も感情も思い出すらも、あとで付け加えられた作り物で紛い物なのかもしれないと疑ってしまうのだ。

 例えば、俺と仲がいいという設定そのままに、そういう風に行動をするよう世界に決められているのではないか。吉川の気持ちすらもそうやって捻じ曲げられて、俺がハルちゃんの代わりに好きになるように仕向けられたのではないか。

 考えすぎなのは分かっている。非合理的で突拍子もないことなのも理解している。

 それでも、今はこれだけは信じられるという確固たるものが俺には何もなく、疑心の沼に落ちていくばかりだった。



「ねえ、最近様子おかしいけど、何かあった?」


 吉川の声が聞こえる。今ではもうただの音で、そこから何かしらの感情を読み取るということができなくなっていた。

 そして、ふと、今何してるんだっけという感覚に襲われる。

 たしか……今日は雨だから、吉川の一人暮らしをしている部屋でゆっくりしようということだったような。

 雨の音に耳を傾け、ぼんやりとハルちゃんのことを思い出しながら、答えの出ない自問を繰り返していた。

 この先、自分はどうしたらいいのかという漠然とした不安。目標もやりたいこともやるべきことも見失い、自分自身すら見えなくなってしまったことに対する焦りと諦め。

 ここ最近、同じようなことを考え込んだり、心ここにあらずといった感覚になる頻度が増えたように思える。

 きっとそういう俺の心や感情の揺れというものに、一番近くにいた吉川は気付いてしまったのかもしれない。


「……何もないよ」


 そう、今の自分には何もない。大事なものも、これだけは失いたくないものも信じられるものも何ひとつない。

 空っぽだ――。


「じゃあ、なんで最近、そんなに寂しそうな表情をしているの?」

「そんな表情してる?」

「うん。してる」


 吉川に目を向けるも、相変わらず表情が読めない。まるで仮面を被った人間か精巧にできたロボットを見ているような気持ち悪さを感じる。


「ほら、今も。なんだか苦しそう……」


 今にも泣き出しそうな声なのだろうけど、そう認識しても俺の心には響かない。

 吉川の声は、俺に届いていない。


「ねえ、私のこと好き……だよね?」


 なんでそんなことを聞かれるのか理解できなかった。


「好きだから、今のこの関係なんだろ」


 そう定型的に言葉を返すと、吉川はその言葉を否定するように静かに首を横に振った。


「私はね、羽山のこと好きだよ。ずっと好き。付き合いだしてからもっと好きになった」


 吉川は間を取るように息を吐き出した。震えるように吐き出した息に、吉川の心情が表れているのかもしれないが、そこから何かを受け取ることも、察することもできない。


「羽山と心が近づいていく感じが嬉しかった。だけどね、近づけば近づくほどに羽山の中に誰かの影を感じてしまうの。それに羽山は私を見ながら、どこか別の何かを見ているような気がしてしまう」


 俺の心の中にはずっとハルちゃんへの想いがあった。それが粉々になったときも、見えなくなったときもあったが、今はある程度の形をしている。

 吉川を通してハルちゃんの影を見て、ハルちゃんの存在を感じられることにどこか安堵していた。

 そういうことを違和感として気付いてしまった吉川は、俺のことを本当によく見ているなと思った。

 それほどまでに本気で俺のことを想い、好きでいてくれたということなのかもしれない。


「ねえ、羽山。他に好きな人がいるんじゃないの?」


 責めるような口調ではなく、優しく問いかけるような言い方。

 確信がなく曖昧に尋ねて来たのではなく、確認のための質問。

 そして、全てを覚悟したかのような真っ直ぐな言葉と視線を俺に向けてきた。

 だからこそ、誤魔化しではなく、思いのたけを言葉にしないといけない。


 そして、直感した――。

 ここで何を言っても、言わなくても、恋が終わりを迎えるということ。


 誰にも理解されない虚像のようなハルちゃんへの恋。

 この紛い物だらけに思える世界で、幸せを与えてくれた実体のある吉川との恋。


 最初から、俺に選べるほどの選択肢はなかった。

 だから、運命というものに身を預け、さいを投げて、出た目に賭けることにした――――。

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