第36話 王妃の交渉
レイスから外遊に誘われ1週間、体調は戻ったものの気持ちは落ち着かなかった。
城内には王妃を案じる雰囲気があり、それさえ今のアリシアには負担に感じられた。
王妃の生家による醜聞は世間を騒がせ、お茶会に出掛けられる状況でもなくなった。
バーネット公爵家と繋がりのある貴族の登城禁止は解かれ、アウグストが王妃付き執務官として復職したことは唯一良かったことだ。
コートレイ伯爵夫人とは、文を通じてやり取りが続いていた。
先日受け取った手紙を手に、レイスの執務室へ向かう。
「ラカン公国を訪国したい?」
レイスに手紙を渡すと、しばらく押し黙る。
「大公家へ招待されまして、是非とも陛下が仰っていた外遊先にラカン公国を選びたいのです」
手紙には大公直筆の訪国を願う言葉が綴られていた。
「なぜラカンなのかは、説明してくれるのだろう」
ようやく開いた口は、あまり喜ばしいとは言えない反応だった。
「ラカン公国に憧れがあるのです」
アリシアのその言葉に嘘偽りはない。
「大公は女性で、女性でも家督が継げます。わたくしはこの国のことさえ知らぬ至らぬ王妃です…」
そう前世でどれほど己の無知さ加減を、思い知ったかしれない。
「知らないことは学べばよいのだ」
「それはレイスがそれを望んで、許されてきた経験があるからだわ」
レイスの目が見開かれる。
アリシアはこの一件で憑き物が取れたように、レイスに取り繕うのは止めた。
今回も思いの丈をレイスにぶつける。
「自分が物事を知らないことを知らなかった。このような経験、きっと貴方はしたことはないでしょう。必要な知識を与えられ、問えば応える声がある。わたくしは恥知らずは家から出るな、そう言われることはあれども、恥知らずを正す方法は与えられなかったから」
(止めてよ、その痛ましい子を見るような瞳は)
「善悪さえ、教える人がいなければ学ぶことはできないのです。あの人のことを考えてそう思ったのです」
なぜ義母はああまで道を踏み外したのかを。
「幼子のわたくしは耐えれば、いつか報われ認められると期待していたのです。相手は大人で、望んで自分の母親になったのだからと。わたくしの描く母親像を投影していたのです」
レイスはアリシアの言葉を聞き逃さぬように、真剣な眼差しを向け、相槌さえ挟まなかった。
「それが幻想と気づくのも、また早かったですけれど、わたくしにはそれが分かっただけで何もできませんでした。ご飯も食べれていて、最低限の衣食住は保証されているのです。だから誰かに助けを求めることではない、そう思っていました」
池に足をつけ、凍えるアリシアを抱き上げる手はなかった。むしろあの愉快な夫人の笑みが、全てを物語っていた。
「害意も悪意も、自ら経験しなければ分からない。愛されることとて、学ぶ機会がなければ本質は理解はできないのかもしれません。あの人はそういう点で学ぶ機会がなかったのでしょう」
愛は奪い取り得られるものだと信じていたのだろう。
わたくしとて理解はできてない。
乳母やミーナが愛情を持って接してくれてはいたが、そこには越えられない血の繋がりほどの結びつきはなかった。
唯一、それを教えてくれただろう人は今世にはいないのだから。
「わたくしが学ばねばならないのは知識は勿論、根底にある人の情もそうなのだと思うのです」
レイスの瞼が伏せられ、その青い瞳に影が差す。
「…そこでラカン公国の訪国に繋がると?」
「ええ。女性の権利が我が国と違う、それを我が目で見て聞いて考えたいのです。何より、わたくしに足りないことは何なのかを知りたい」
夫人たちに実際話を聞いて見えてきた貴族女性が抱える問題、それはアリシア自身が感じた息苦しさとも重なった。
女性として生まれて良かったとは思えなかった。
貴族令嬢として王妃として求められた役をもがきながら生きてきた。
望んでそうなったわけではなく、かといって押し付けられていたとも言えない。
甘受していたことへ疑問を持つことが出来なかった。
回帰することがなければ、アリシアはそれにさえ気づかなかっただろう。
今世はこの先の人生がまだあるのだからと、前世で無知が故に失ってきた時間を取り戻せるのだと、そう考えたら切り開きたいと思ったのだ。
「レイス、貴方にも学びとなることだと思うわ」
レイスは「そうか」とひと言、その顔は物悲しげでもあり眩しいものを見つめるようでもあった。
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