第31話 バーネット公爵令嬢の噂

 バーネット公爵令嬢の噂が出回っている。

『バーネット公爵令嬢は、夜遊びに勤しんでいるらしいわ』

『先日はブティックで子爵令嬢を泣かせたらしいわ』

『それなら街のゴロツキと一緒に酒場にいたのを男爵令息が見たって』


「あー、何なのかしら!ここのところ、お茶会の招待状は減るわ、何だかジロジロ見られるし嫌だわ」

 ガシャンと派手な音を立ててティーセットが、地面に無惨に割れ散らばる。

「ほら!早く片付けなさい」

 慌てて傅く侍女の背を足でセザンヌは小突く。


 バーネット公爵家の次女セザンヌというと、華やかな姉の容姿と反して清楚で柔らかな容姿をしている。

 そのため、初めて会う人間はセザンヌに好意的な印象を持ち、性格がきつそうな姉には近寄らない。


 母が何かと褒め称える兄も、馬鹿で愚図な姉もセザンヌは大嫌いだった。

 この家の愛されるべき娘は私だけ。

 だから面倒ごとは全て姉に振った。だって出来の悪い姉には、それくらいしか役に立たないから。

 外で遊ぶ時は姉の名前を使った。請求はバーネット公爵家へ、アリシアのサインを使ってきた。

 派手な化粧で夜出かける時は、アリシアとして振る舞った。

 セザンヌに会いに来た夜遊び相手が、呼び出したアリシアの姿を見て騙されたと暴れた時もあった。

 あの時は本当に笑えたわ。

 髪を掴まれ引きづり回されるアリシアを見て、痴情の縺れだと噂が広まったのよね。

 いい気味だわ。

 それが最近は王妃になったアリシアの名前を語って遊ぶことも出来なくて、あちこちで使う名前は適当に他家の令嬢のを使うしかなく、面倒なことこの上ない。

「あぁ〜面白いことがないかしら」


 そんな暇を持て余したセザンヌは、いつもの様に酒場で声を掛けてきた男と一時の享楽にふけっていた。

 そして前後左右不覚になるまで酔っ払い、意識を失ったセザンヌが再び目を覚ましたのは見知らぬ部屋でのこと。

 壁の向こうでは波の音がしていた。

「はぁ?どこよ、ここ!?」

 寝乱れた下着以外、身に付けていた宝飾品はおろか衣服の1枚も部屋には見当たらない。

「ちょっと誰か!」

 いつものように扉の向こうに声を掛けると、人が近づく気配がする。

 ガンッと扉が外側から蹴り上げられ、開いた扉の向こうから屈強な体躯の男が入ってきた。

「おい、うるせーぞ」

 常人とは異なる容姿、セザンヌの遊び仲間のゴロツキとも違う…顔中傷だらけで、顔の半分が火傷だろうか爛れていた。


「え。あんた、何?」

 咄嗟に思ったままを口にして、それが愚かな行いだったことに気づいた時にはセザンヌの頬は張り倒され、床に無惨にも身体が打ち付けられた後のことだった。


「ハハハッ。てめぇは、まだ今の状況が分かってねぇみてぇだな」

 唾を撒き散らせながら、男は下卑た笑い声を上げた。

「は、はにを言っへ」

 強く張られた頬の内側が切れ、床にぶつかった時に歯も折れてしまったのか空気が漏れて発せられる言葉は意味をなさなかった。


「お前はな、売られたんだよ、人買いにな。よっぽど恨みを買ったんだろう。相手はお前の買取り賃は受け取らず、その代わり尤も非情な相手に売り渡してくれだとさ。買取先を報告するのを条件に、タダで売られたんだよ、貴族のお嬢様!」


 セザンヌは腹を立てていた。

 誰がこんな真似を公爵令嬢にしたのだと、今頃セザンヌの姿が見えなくて公爵家は大騒ぎだろう。

「わたひは、ほうひのひもふと!ゆるはれないはよ!」

 私は王妃の妹なんだから、こんなことして許されると思わないことね!

 強気で聞き取り不明な言葉を喚き散らすセザンヌに、男は尚も笑い声を立てた。

「お前さんな、今ここがどこか分かるか?」

 波の音と揺れる床に、サアと血の気が引く。

「そうここは海の上、船の中にいるんだよ。お前は3日3晩薬で眠らせられて、今や故郷とは遠く離れた異国の海にいるのさ。助けてーって声なんか誰にも届きやしないだろうよ」

 ケケケッと笑い、涙を浮かべるセザンヌに続けて通告する。

「それとな、お前さんに朗報。お前さんの親切なお友達が、お前さんは身分違いの男と駆け落ちしたってさ、言いふらしてるらしいぜ。売った奴が頼んだりしたわけじゃなく、噂がひとりでに歩き出してるんだから面白ぇよな」


 その頃の王都ではセザンヌが、売れない役者と駆け落ちしたという噂が広がっていた。

『でも、良かったじゃない?今公爵家はそれどころじゃないし、何なら取り潰されるかもって…』

『しっ!まだ決まった訳じゃないでしょ。にしても娘を暗殺しようとしたなんて、公爵家はどうなっているのでしょうね』

『片や一国の王妃、片や平民と駆け落ち、こうも身分が異なる姉妹もいないでしょ』

 フフフッと笑い合う女性の間には、甘い菓子と香り高い紅茶が置かれ優雅なひと時を彩っていた。


 その後セザンヌ・バーネットの名前を耳にする者はいなかった。

 そうバーネット公爵家の名前は、数年も経たずに人々の中から忘れ去られていったのだから。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る