第5話 遺言

 レイスとの結婚生活は5年に満たなかった。

 子を宿しやすい期間だと医師から告げられた晩にだけ身体を重ね、ほどなく子を孕んだ。


 生まれたのは男児で名はシュタイン。

 王の第一子で無事育てば王太子を拝命するだろう。


 世継ぎの誕生に国が歓喜に包まれる中、アリシアの産後の肥立ちは悪く、子育てはミーナが乳母として担っていた。


 そしてシュタイン2歳の誕生日を前にアリシアは公務に立ち会うことも出来なくなり、飾りの王妃として座っていることもできなくなった。


 ある晴れた日、城の外れにあらる東屋(ガゼボ)の周りには真っ赤な薔薇が咲き乱れていた。

 病が公になり気を塞ぐことが増えたのを心配して、主治医がこのガゼボにベッドを設けてくれたのだ。

 子どものはしゃぐ声が遠くに響いている。

 とても心地の良いひと時だった。


 物を口にできなくなって幾日、もうお腹が空くこともなかった。

 苦しかった胸の痛みも今は感じない。


「アリシア様お気分は如何ですか」

 主治医のミハエルがそっと手を取る。

 優しげな眼差しに、微かに笑みを浮かべる。

 この孤独な生活で得られた大切な人。この人にどれだけ支えられたか分からない。

「ミハエル」

 もう吐息のようにしか声を出せないけれど、貴方に伝えたい言葉がたくさんある。


 風が薔薇を擽り、舞い上がった花びらがアリシアの視線を攫った。

「アリシア」

 花びらの先に長身の男の陰が差す。


「陛下。…なぜこちらに?」

 ミハエルがアリシアを庇うように立ち上がった。


「アリシアと…。アリシア、そなたと話がしたい」

 ミハエルではなく、アリシアに直接話し掛けるレイスの声にいつものような落ち着きはなかった。


「今更何を仰っるつもりですか。アリシア様はもう…」

 ミハエルの服を引く、視線で下がるように伝えると、ミハエルは唇を引き結び、静かに立ち去った。


 ガゼボにはレイスとアリシアの2人きり、遠くでシュタインの笑い声がする。


「具合はどうだ」

 寝台に身体を起こすとレイスがアリシアの背にクッションを宛てがう。

「…良いとは言えません。もう長くはないでしょう」

 レイスの目が見開かれ、口が薄く開く。

 しかし待っても言葉が紡がれることはなかった。


「死の間際に何をお聴きにいらしたのですか?」

 レイスの指先が震える。

「そなたは…そなたからは私に何か言いたい事があるか」


 フフッと肩を揺らして笑うアリシアを、レイスは戸惑いの顔を浮かべて見つめていた。


「シュタインは優しく良い子に育っております」

 視線の先にシュタインはない。ただ生垣の向こうに居るだろうシュタインの姿を頭に浮かべる。

「親に似ず、愛に溢れた生を送って欲しいものです」


「私には…なにか」

 今日のレイスは歯切れが悪い。穏やかに終えたい気持ちが黒い泥に塗れていくようだ。


 あぁ…嫌だ。何もこのような時になって会いに来なくてもいいのに。

 最期のひと時くらい、心から私を想ってくれる人と過ごしたかった。


「満足ですか?」

 レイスに向けた笑みは、先程とは打って変わって感情を削ぎ落とした頬に貼り付けられた作り物のようだった。


「何を…」

 レイスの顔は悲壮感で満ちている。

 それがまた腹立たしい。

「望まぬ結婚が終わるのです。満足でしょう?」

「…な、なに?」


「わたくしが亡き後は愛妾を正妻に据えるのでしょう?彼女が望むことが全て叶いますね」

 かつて執務室の前で歌をうたうように軽やかに語った彼女を思い出す。

「あぁ、世継ぎは私の子になったので全てではないかもしれません。彼女にはそれは許して欲しいとお伝え下さいませ」


 ナイフのように鋭く切りつけようとした言葉は、口に出すと咳き込みながらの途切れ途切れで力無い言葉になった。


 咳き込む度に血が口から溢れ出る。拭う袖は真っ赤に染まっている。


「亡骸はミハエルに。わたくしの書物はシュタインに。宝石とドレスはミーナに…」

 思いつく限りの遺言をレイスに伝える。


「…私には?」

「…貴方には…孤独を」


 レイスの顔にはもう感情はなかった。

 青白く呆然とアリシアを見つめていた。


 その後の記憶は曖昧で、夢現に見た幻覚か、誰かがずっと泣いていた。


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