第2話 僕じゃなくなった、僕

 僕は日本に住む不幸な少年『灰戸灰はいとかい』から、異世界の住人になってしまった。

 もしかしたらここが天国なのかもしれないけど──思い描いていた天国とは全く違うので、異世界とする。


 日本の『灰戸灰はいとかい』は死んだのだろうか。


 ……死んだのだろうな。


 母さんは少しくらい悲しんだかな。母さんのことを考えると、苦しくなるのは前の僕と変わらなかった。


 一呼吸置いて、別のことを考えることにした。

 子猫の事だ。いじめられていたところを助けてから、僕がこっそりと公園で世話をしていたあいつのことが気掛かりだった。折角僕が助けたのに、また道路に飛び出しているんじゃないか、お腹をすかせているんじゃないか、色々と思考を巡らす。


 灰色のあいつのことを、僕は密かにグレイと呼んでいた。


 たった一人の、いや、一匹の友達だった。友達を置いて逝ってしまった。もう会えないのが、寂しい。


 鐘塔から街を眺めていると今度はお腹が鳴った。

 この身体にも食べ物や水は必要だということだ。生きていくには食料を確保する他ない。服だって欲しい。この膝掛けは分厚くて丈夫な生地ではあるが、服ではない。何かと不便だ。寝る場所だって……。


 それに、長く生き延びるのにはこの世界の通貨が必要になるはずだ。この街から売れそうな物を拝借して、別の街で売る。僕に狩りの才能でもあれば、街中を蔓延る鹿や兎を捕獲してそれで稼ぐことも出来ただろうけれど。


 僕は一軒一軒家に入り、使えそうな物を集めることにした。


 とある家に入る。


 壁に古い落書きがある。四人家族だったのだろうか、楽しげな家族が描かれている。それから逃げる様に目を逸らして、子供部屋であっただろう場所へ入る。棚に丁度良さそうな服があったので拝借することにした。服も、日本で見るようなデザインの服ではなかった。膝掛けのほうが肌触りが良かったな、と袖を通して思った。


 居間に戻って違和感に気付く。食卓に食事の準備がされたままだった。流石に腐ってはいたが、手を付ける前だったのだろうか? 散らかっていない。

 まるで唐突にそこから消え失せたかのような……。


 本棚には見たこともない言語で書かれた本が並んでいた。あの屋敷の本棚程ではないが、分厚い本もいくつかある。背表紙を指でなぞり、一冊の本を手に取る。それを開けば中をくり抜いてあり、小さな袋が入っていた。袋の中身を確認する。


「硬貨だ」

 銀色の硬貨が七枚入っていた。知らない文字と紋様が刻まれている。どれだけの価値があるのかわからないが、これもありがたく頂いておく。服のポケットに袋ごと押し込んだ。


 物置きから大きめの袋を引っ張り出して、必要そうなものを片っ端から詰め込んでいく。

 ナイフにロープ、替えの服など。食材はほぼ腐っていたので、干し肉くらいしかなかったが、無いよりはマシだ。干し肉の一つを齧りながら、別の家へ入って金目の物や生活に役立ちそうな物を探す。


 何かがおかしい。


 僕は気付いた。金目の物がありすぎるのだ。

 人が誰もいないのなら、泥棒が入って全部盗んでいったっておかしくないはずなのに。どの家も、あの屋敷すら、荒らされた形跡は無い。白骨死体も無い。では、人々はどこへ消えた?


 手に入れた水筒へ水を汲む。

 川の水は空と同じオレンジ色に染まって、キラキラと輝いている。すっかり夕方になってしまった。街の中に街灯は無いため、早目に寝る場所を確保して大人しくしたほうが良さそうだ。


 この街の中ではあの屋敷のベッドが一番眠るのに適していると思う。同じ屋根の下に白骨死体があることに良い気はしないけど、地下に続く階段の灯りが使えるかどうかを確認したいのもあった。

 僕は石畳の道を歩き、屋敷へと向かった。


 書斎の白骨死体をなるべく視界に入れないようにして、開け放たれたままの地下への階段へ体を滑り込ませる。相変わらず灯りはついたままだ。電球かと思っていたがよく見ると違った。どのような原理で光っているのかわからないが、丸いそれに手を伸ばす。燭台からそれを取り外してまじまじと見つめるが、ただ炎のようなものが揺らめいているのが見えるだけで、やはりどうやって灯りを生み出しているのかは分からなかった。


 屋敷の奥にある寝室へ向かう。窓を開け放って、ベッドの埃を払う。舞い上がった埃が落ち着いた頃、そこへ横になった。


「疲れたな……」

 知ってはいたが、生きるということは疲れる。


 でも今日は『灰戸灰はいとかい』だった頃みたいに、消えてしまいたいと思うことは無かった。


 さあ、明日は何をしようか。

 考えているうちに日が落ちていった。揺らめく一つの灯りの中で、僕は眠った。

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