灰の鐘の少年王

幽世とこよ

第1話 灰色の鐘は祝福を奏でる

 パタパタと頬を打つ雨粒が鬱陶しい。僕は濡れたアスファルトに寝転んでいた。雨の水溜りを押しやって、血溜まりが広がっていくのを眺める。

 トラックのヘッドライトに照らされて、灰色の子猫が浮かび上がる。首輪に付いた小さな鐘が鳴った。


 カランカラン。


 良かった。お前は無事だったんだね。痛む身体から感覚が失われていく。


 ニャー。


 子猫はそれだけ鳴くと、じっと僕を見下ろしている。死にゆく僕を見送ろうとしてくれているのか。


 遠くで大人達の声が聞こえる。助けようとしてくれているみたいだけれど、どうか放っておいてほしい。ろくな人生じゃなかったんだ。僕は疲れていた。けれど自ら死を選ぶことは怖くて出来なかった。車道に飛び出した子猫を助けて、結果的に死へ向かっている今の状況は、僕にとってはありがたい。


 未練がないと言えば嘘になる。僕は普通の子供のように、普通の家庭で育って母さんに愛されたかった。でもそれが難しいことだと知っている。仮に僕が助かっても、母さんは喜ばないだろう。むしろ死んだほうがせいせいするのだ。母さんは来る日も来る日も「あんたなんか産まなきゃ良かった」と繰り返していた。もしも「産んでくれなんて頼んでいない」と言えるような人間だったなら、少しは幸せだったのだろうか?


 ぼんやりと、優しかった頃の母さんを思い出す。母さんは、ずっと僕に冷たかったわけじゃない。母さんが一番最初に呪詛を吐いたのは、僕が小学2年生の頃だった。何があったのかは知る由もないけど、ボロボロになった母さんがキッチンの隅に座り込んで、帰宅した僕を睨んで言った。


「あんたなんか産まなきゃ良かった」


 最初こそ、その呪いの言葉に律儀に傷付いていたっけ。僕は自分の心が柔らかいことを知っていたから、傷付かないように頑丈な箱にでもしまったのかもしれない。そうすることで僕は自分を守った。母さんは、それが出来なくて傷ついていった。僕への呪詛は、母さんに跳ね返ったのだ。母さんは日を追うごとに嫌な人間になっていく。それでも、僕にとってはただ一人の母さんだったから心の底から嫌いになることなんて出来なかった。


 いっそ憎めたら良かったのに。


 母さんには幸せでいてほしいのだ。ただ、二人ではそれも難しいんだろう。母さんが幸せになるには、僕は邪魔なのだ。


 僕は自分の内面から、外の世界へと意識を向けた。もう目があまり見えない。命の灯火が消えかかっているのを感じる。僕にはさようならを言う相手すらいないんだな。


 カランカラン。


 子猫の首輪の鐘が鳴る。

 そうか、お前が居たね。僕の顔が綻んで、それから意識を手放した。




 *




 朝に目が覚めるように、自然と瞼が開く。そこは病院でも家でも、思い描いていた天国でもなかった。SF映画で見るようなぼんやりと光る丸い培養槽が、暗い部屋にいくつも並んでいる。中には何かになりそこなったようなものが入っていた。僕は、血でも雨でもない何らかの液体に濡れた身体を起こす。不思議と痛みは無い。


「ここ、どこだ?」

 心細くなって思わず独り言を言うが、当然誰からも返事はない。僕は何も身に纏っていなかった。寒い。壁伝いに手をついて歩いて、部屋の中を見て回る。培養槽は六つ、円を描く様に配置されていて、その中央には──。


「魔法陣?」

 何かの儀式でも行われていたように思える。気になるけど、先に着られそうなものを見つけたい。誰かに見られているわけじゃないけど、流石に裸でいるのは恥ずかしかった。


 上に続く階段がある。螺旋状のそれを一段ずつ登っていく。階段には電球のような光があったため、少しは頼もしかった。登り切った先の木製の扉を開けば、その先はまた薄暗い。


「壁か。これじゃここから出られない」

 暗くてはっきりとはわからないが、壁の手触りは木のようだ。両手で思いっきり押してみると、ガコンと音がして壁が開く。


 眼の前には本棚に囲まれた部屋が広がっていた。西洋風の調度品が並んでいる。僕は、病院でも家でもなく、どこかの屋敷にでも連れてこられたのか。近くにあったソファの上に膝掛けがあったため、それを身体に巻き付ける。とりあえず全裸でなくなったことに安堵して、暖炉の前の椅子に誰かが座っているのに気が付いた。


「あの、すみません」

 声を掛けるが返事はない。


「すみません」

 もう一度、今度は少し大きな声で。しかし反応はない。後ろから椅子の前へと移動する。


「!!」

 思わず尻もちをついた。椅子に座っていたのは白骨死体だったのだ。震える手足で這って書斎を出る。廊下に這い出て、壁と窓枠に捕まりながら立ち上がった。


 とてもじゃないがこんなところには居られなくて、玄関から外へと飛び出した。


 突然明るい場所へ出たので、目の奥が痛くなった。振り返って建物を見た。随分と大きな屋敷だったらしい。石畳を踏みしめながら門から出る。外の景色は、確実に日本ではないと言えた。


 そこそこ大きな街らしいが、人の気配は無い。代わりに鹿などの動物が街の中を闊歩している。街の人々はどこへ行ったのだろうか。まさか、みんなあの屋敷の住人のように……?


 そこまで考えて、嫌な予感を振り払う。


 喉が乾いたので水を求めて彷徨っていた僕は、街の中を流れる川を見つけた。川縁に膝をついて水面を覗き込んだ時だった。


「えっ」

 そこに写ったのは、紫色の瞳を丸くした銀髪の少年だった。僕が顔に手をやると、水面に写った少年も顔を撫で回す。


「僕……」

 そう、彼は僕だ。僕はで無くなっていたのだ。通りで傷一つなかったわけだ。


 僕は水を飲むことすら忘れ、街にある一番高い場所を目指して走り出した。ドアを破らんばかりに開け、鐘塔の階段を駆け上る。灰色の鐘がぶら下がる塔の上から世界を見渡す。どこまでも広がる世界は、見たことの無いものだった。


 知らない動物の群れが街の外を走り回っている。雲海に浮かぶ島々の隙間を縫って、物語でしか見たことの無いドラゴンが空を舞っていた。


 ──ここは、異世界だ。


 世界に生まれ落ちた僕を祝福するかのように、灰色の鐘の音が鳴り響いた。

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