第17話

「自由になりたい」

「え?」


 放課後の教室で、私の意味不明な呟きを聞いて、チルは首を傾げた。琴子と鳳は居ない。チルは個人的に、練習に付き合って欲しいと話しに来てくれたのだ。その話はすぐに終わった。そして私は、突拍子もなくいきなり自由になりたいと呟いたのだ。


「今日、部活無いんだ」

「ふぅん?」


 今日の昼休みはちょっとキツかった。席を立って、いつも通り社会科教室で動画鑑賞に勤しもうとうとしたら、クラリネットの深川に呼び止められて、「今日、部活休みらしいよ」って言われた。クラスメートに同じ部活の子がいるとこういうときに有り難いと思う。問題はその先だ。

 そこにB組のえのっさんがやってきて、深川に言われたのと同じことを言われて。ほどなくしてメッセージアプリのグループ送信で、先輩から同じことを言われた。というか部長が休みだと伝えるのをすっかり忘れてたらしい。三人で「なんで休みなんだろ」「さぁ、先生が居ないのと、パー練に使える教室が埋まってる日が重なったとかじゃない?」「あぁ、たまにあるよね。委員会で使われれたり」「そうそう」なんて話をする内に、なんか三人で昼食を摂る流れになった。

 拷問みたいな時間だった。二人は今の部活が楽しくて仕方なくて、最近ちょっと様子の変わった私のことを心配してくれてるみたいだった。二人のことは好きだから、好きだからこそ、私は今の部活が楽しいなんて話を合わせることができなかった。楽しくなってきたと感じてはいるけど、多分二人ほどじゃないから。これ以上心配させないように曖昧な笑みを浮かべたり、わざとらしく「なんか今日の購買パン美味しいね」って言ったりした。バカみたいだ。


「部活が休みの日に自由になりたがるって、よく分からない。比較的自由でしょ、今日」

「……そりゃ、そうなんだけど。前はいきなり転がり込んできた休みを全力で喜んだりしたと思う……でも今は、そのつかの間の自由に喜ぶ自分が虚しく感じるっていうか」

「……そう」


 伝わって欲しいことが伝わっていない気がする。だけどどうすればそれが伝わるのか分からない。だけど、考えてみれば当たり前だ、私は言葉にできるほど、自分の気持ちの変化を理解できていない。


「最近さ、なんか、色々変わっちゃって。上手く言えないけど、部活に関しては、中学の頃みたいに戻れたらいいなって思ったり」

「不自由に感じる?」

「うん……ちょっとモヤモヤしてるっていうか。コンクールも終わって、明確な不満があるワケじゃないんだけど」


 チルはふんふんと私の話を聞いてくれた。ちなみに、もちろんここには深川は居ない。というか、私とチル以外、誰もいない。机に鞄が掛けられたままの席がいくつかあるから、何名かは取りに戻ってくるだろうけど。私は、いつまで続くか分からないこの二人きりの時間にも、居心地の悪さを感じ始めていた。でも、チルの一言で、どうでもよくなった。


「前みたいに戻りたいって言ってるけど。それは無理」


 目を見開いてチルを見る。彼女は優しくも冷たくもない、いつもの視線で私を見上げていた。


「……知ってしまったことを都合よく忘れることは出来ないから。私も、今更なつきの名前を忘れることはできない。それと同じ」

「どういう……?」

「なつきは、吹奏楽という世界が、世界じゃなく、一つの箱庭だったと知ってしまったということ」

「……!」

「教えたのは、私達」


 そう言って、チルは少し誇らしげに笑った。本当にその通りだから、私は吹き出しながら頷いた。


「ま、音楽のことは私達が足引っ張ってるけど」

「……そんなことないよ。みんな上達が早いと思うし」


 これは本当の本当。ガチの本心。絶対に誤解されたくなくて、私は必要以上に真剣な目をしていたかもしれない。チルは、きっと私の気持ちを汲んだ上で呟いた。


「私達が、ヒイズルの曲を演奏できるようになるまで、まだかかると思う。毎日練習して、ほんの少しだけ音楽やベースのことが分かってきて。それで改めて思い知った、ヒイズルってハンパないって」


 この感覚を人と共有できて、こんな話をすることができるだなんて、本当に嬉しい。何度も頷いていると、「それねー……」と声が漏れた。不意に、肩に重みを感じてチルを見る。彼女は、私の左肩に手を置いて言い切った。


「だから、なつきは他にやりたいことがあったら、それを試してもいいと思う」

「えっ? そんなこと言った?」


 言った? なんて言ったけど、言ってないって断言できる。ネット配信に興味があるなんて、恥ずかしいし。いや、配信に憧れたりすること自体はそうでもないけど。それはつまり、他の人が見に来てくれるかもしれないって期待してるってことで。見に来る価値がある演奏するんだって自惚れてるって思われるだろうから。


「言ってないけど、最近ドラムの動画観てるって言ってたから。レッスンに通ったりしたいのかと」

「あー、そういう……ううん、全然。今のところは。大丈夫。でもまぁ興味があることはある」

「そう? まぁなんでもいいけど。なつきは自分が、部活に縛られていると感じてる気がする。バンドにも同じことを感じないで貰いたい」


 三人に縛られているだなんて、そんな。私は弁明をしようとしたけど、チルは口を挟もうとしている私を片手で制止して続けた。


「これは、私だけじゃない。きっと琴子も、鳳もそう言う。私達を待ってくれてる間、存分に暇つぶしを楽しんで欲しい」


 私が何をしたがっているかなんて、チルにはきっと分からない。実はお見通しでしたなんてことはなく、本気で分からないと思う。それでも、勝手に二人の分まで代弁してしまうほど、私のしようとしている何かを信頼してくれているらしい。


「ただ待たせるだけじゃ申し訳ないし。何かあったら相談してほしい」

「チル……ありがとう」

「私達は音楽でしか関わらないから知らないだろうけど、私はこう見えて頼りになる。こともある」


 妙な言い回しだ。私は「例えば?」と問わずには居られなかった。そして返ってきた返答は、「勉強ができる」ときた。今、私に最も必要な要素と言える。


「早速頼っていいかな?」

「今度練習付き合ってくれる?」

「それはさっき約束したじゃん」


 そうして私は、少し賢くなってから学校を出た。ドラムとベースといえば、バンドの要だ。それくらい分かってる。何を考えているのか分からないところがあるというか、ちょっと掴みところが無い印象があったけど、チルは私なんかよりもよっぽど真っ直ぐだった。音楽にも真摯に打ち込んでいる。手を貸して欲しいというならいつだってウェルカムだ。私達は次の週末にスタジオの予約を取って、教室を後にした。


***


 ここ数日、私は自分を縛る物のことばかりを考えていたと思う。部活は普通にこなして、それなりに楽しく過ごして、帰って来てまた基礎練習や曲のコピーをする。

 今日もそう。帰って来て、ちょっとして夕飯を食べて、それからずっとパッドを叩いている。手を動かしながら、考えるのは、チルの言ったことと、部活のこと。

 今日は曲をコピーするほどそちらに脳のリソースを割けそうにない。だから、メトロノームに合わせて、右手と左手の差異を少なくする基礎を叩いている。私は右利きだから、どうしても左が弱くなる。力だけじゃなくて、スティックの握り方とか、反動の生かし方とか、要はかなりぶきっちょだ。左手君に頑張れーって発破をかける練習だから、まぁ手を動かしてるだけでも効果が無くはないと思う。集中してる方が絶対に効率がいいんだけど。


「……」


 でも、今日ばかりは許して欲しい。私は、結構考えない方がいいことを考えているから。何もしていないと手持ち無沙汰で死んでしまいそうだ。だから、なんだかどっちつかずな状況で、やっと頭を空っぽにしようとしてる。

 面倒なしがらみとやらに囚われ続けた人間が、いきなりそれを排除した前提で何かを考えるのは難しい。でも、やってみた方がいいと思う。私はそろそろ、自分が何を望んでいるのか、自分の声に耳を傾ける方法を身に付けた方がいい。


「吹奏楽のことを考える必要が無かったら」


 ワイヤレスイヤホンからメトロノームの音が響く。メトロノームとググればメトロノームが出てくるんだから便利なものだと思う。本当はおすすめのメトロノームをネットで調べて買おうと思ってたのに。買う必要が無くなってしまった。


「私は、きっとバンドのことでコソコソしなくなると思う」


 ググっただけで出てくるブラウザのメトロノームは、いっちょ前に小節のアタマの拍だけ音を変えることもできる。ティ、コ、コ、コ、ティ、コ、コ、コ。ちっ、今ちょっとズレた。


「でも多分、人に言いふらしたりもしないかな」


 右手でしょっちゅう決まる気持ちのいい一打が、左手ではなかなか出せない。こんなに叩いてるのに。私って一日に何回スティックを振り下ろしてるんだろう。


「あぁでも、えのっさん達を自分達のライブに誘うのはありかも」


 私達の状況が少しでも違ったらあったかも知れない未来。かなり奇妙だけど、悪くない。スティックの先端同士がぶつかって手が止まる。イヤホン越しに聞こえていたポコポコした音が止んで、スティックを握り直す。

 チルとの合同練習は楽しかった。彼女が練習中だというフレーズに適当にドラムを付けて一緒に演奏したり、彼女の演奏に耳を傾けて感想を述べたりした。もっとオープンに関わることが出来たら、学校でだってもっと気軽に音楽や楽器の話ができたのにって、一緒に音を合わせながら思った。


「そして多分、私は……ネットに動画を投稿してた」


 タコタコタコタコ、タン、タン、タン、タン、タン。そこで手を止める。イヤホンを外して、居ても立ってもいられなくなったけど、どこにも行きたくなかったから窓を開けた。涼しくなんてない。九月の残暑は苦手だ。一日の気温に差があり過ぎて、どう迎えていいか分からないから。思っていたよりもむわっとした風が顔をべたーっと撫でつけていって、だけどそのお陰で少しポジティブになれた。

 まだ暑い、つまり夏だ。高校二年の私の夏は、コンクールとバンドと動画投稿に明け暮れた。未来の私は、きっと過去をそう振り返る。


「……はは、ははは!」


 おかしくってたまらない。滅多に笑わない自分がこんなに笑ってることが、また面白い。その日、私は気が済むまで、窓から笑い声のリサイタルを開いた。


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