第11話

 音が鳴らないようにそっと、だけど素早くスレイベルを置いて、スタンドシンバルの前に移動する。合わせシンバルはジャーンとシンバル同士をぶつけて音を鳴らすけど、スタンドシンバルは主にマレットと呼ばれるバチで音を出す。最初は小さく。そして連打。わわわと音が広がり始めて、私はマレットの振り幅を増やして音を大きくしていく。みんなの演奏が勢い付いていく。クレッシェンドしているのは私だけじゃない。次の小節のアタマが頂点だ。そこからはその勢いを維持したままエンディングへと向かうだけ。

 チラリと先生を見ると、タクトを振り下ろさんとしていた。膨張寸前の音圧が腹の中に溜まっていく。まだ、まだ。……今!

 私はマレットでスタンドシンバルを激しく叩く。合わせシンバルのようなけたたましい音が鳴り、盛り上がりに花を添える。タイミングは、完璧だった。

 曲は残すところ二十小節足らず、最後の音楽記号はgrandioso。壮大に、荘厳に、という意味だ。言われるまでもないって言ってやりたい。誰もが威風堂々と音を出し、重ねている。

 小節の頭ではシンバルが高らかに響いて、ティンパニーがシングルロールで曲の盛り上がりを演出していた。蝶が舞うように木管楽器達がトリルを添える。みんな、こんな演奏してたんだ。なんで私は今頃になって知ってるんだ。森田先輩のドラムロールが徐々に大きくなる。私は合わせシンバルに持ち替え、最後の小節のアタマにとっておきの一発をくれてやった。

 ザンという余韻を残して一切の音が止まる。それすら止んだ後、ようやく先生がタクトを下ろして、みんなも楽器から口を離して下ろす。私達パーカッションは元々楽器に口を付けてなかったけど、同じようにスティックやマレットを下ろした。


「今のよくなかった!?」


 誰かがそう言った。トランペットの方から聞こえてきたから、部長が言ったのかもしれない。さらに重ねて誰かが「うんうん」と言う。音楽室がわいわいと騒がしくなるまでに十秒もかからなかった。喧噪の中、森田先輩がこっそり私だけに言った。


「やーっと気付いたか」

「……振ってる番号、間違ってますよ」


 私が憎まれ口を叩くと、先輩は聞こえないふりをしながらスティックのささくれを気にしだした。


「今の感じ、忘れないようにな!」


 先生がそう言って、続けて自由曲の楽譜を出すように言った。いい演奏も出来たし、今日のところはこの曲を切り上げようということだろう。私も、それがいいと思う。譜面台から自分の楽譜を取り、バスドラのところへ移動する。そうしてパーカッションの移動が終わり、自由曲はアタマから通しでやることになった。


「……」


 マーチなんかじゃないので、それと比べると出番は少ない。私は何もしない時間を、目で楽譜を追いながら過ごした。そして曲が始まって最初の出番、何も怖くなかった。大きな音を出すことも、指揮している先生と目が合うことも。周りの音が、みんなが私に正しいって言ってくれている気がした。そのときに気付いた。私、本当にスランプ抜け出したっぽい、って。

 合奏が終わって、楽器を片付けて、荷物をまとめて。先輩が戸締まりをするっていうから音楽室を出た。誰にも怪しまれないようにトイレに向かうと、一番奥の個室に籠る。そこで、鞄を抱えて泣いた。できるだけ声は出さないように。

 悲しいわけじゃない。むしろ嬉しい。それと同じくらいに情けない。周りの音を聞けなんて、初心者が受けるアドバイスだし。それが全然出来てなかったなんて、もう本当に……。でも、自分に何が足りていないのか分かって、すっきりした。安心した。この涙には色んな意味が含まれているんだと思う。一年くらい悩み続けた私の全てがこれに詰まっている気がした。


「おーい。木月だろ?」

「……森田先輩? えっえっと、あの」

「いいって。なんかずっと泣きそうな顔してたから」


 だから、心配してここまできてくれた……? 私、部活帰りの人に会いたくなくて、わざわざ遠いトイレに来たのに。


「木月、合わせるのに苦労してたじゃん?」

「……はい」

「実はあたしも。もう結構前の話だけど、木月と同じ症状に陥っちゃってさ」

「え!?」


 私は森田先輩が指揮とズレてるなんて注意されている場面、見たことが無い。ここ一年で最もその注意を受けて来なかった人、と言っても過言ではないと思ってる。


「っつか滝先生の指揮、合わせにくいよね」

「! 私もそれ思ってました!」

「あはは、だよねー。あ、他の奴に言うなよ、めんどくさいから」

「それはもちろん……」


 言えって命令されても言いたくないくらいだ。私の声色から察したらしい森田先輩は、話題を元に戻した。それは、私のスランプについて。


「木月には、自分で見つけて欲しかったんだ。自分の欠点とか、打開策とか」

「先輩……」

「あ、別に木月のためじゃないから」

「えっ」


 私のことを考えて、教えてあげたいのも我慢してずっと見守っててくれた、と考えていた私は涙が引っ込むくらい驚いた。先輩、まさかツンデレというやつでは? と思ったけど、普段の様子から分かってる。彼女はそんなキャラじゃない。


「これでやっと、あたしはあのときの感覚を人と共有できる。あれは、自分で答えを見つけた奴にしか分からない感覚だ」

「どういうことですか?」

「どうすればいいか分かった瞬間、ドキドキしたろ」

「……しましたね」


 した。頭の中に奥行きのある白い空間があって、音が鳴る度に色んな色や形で空間が彩られていくような。そして、私はその中のどこに、いつ、何を放ればいいのか、明確に理解しているような。


「全く無自覚でしたが、スランプだった自分はずっとモノクロの世界を生きてたんだって、そんな錯覚に陥りました」

「へぇ?」

「みんなの音を意識して耳を傾けた瞬間、何かに、鮮やかな色が付いた気がしたんです」

「……なんとなく、分かるよ」


 さっきまで一人で泣いていたのに、今は扉を隔てて先輩と二人で笑っていた。静かに、だけど、すごく楽しい。きっと、先輩に教えてもらって気付いたんじゃ、あの感動は味わえなかったと思う。先輩の靴音が鳴る。彼女はここを立ち去るつもりのようだ。だけど、足を止めて、私に告げた。


「あー、一つ言っとく。あたしは木月に、お情けでスネアをやらせたワケじゃない。これはホント」

「……え?」

「お前さ、ずっと消極的な演奏ばっかしてたろ」


 それはそうだ。だって、大きな音を出してズレたら本当に迷惑だから。別に私が主役って訳じゃないんだし、消極的でも許されると思っていた。だけど、森田先輩には、随分前から見抜かれていたみたいだ。


「その足枷がやっと外れたんだ。これからは大暴れしろよ。推薦したあたしが贔屓したとかなんとか言ってる奴らを、音で黙らせてやってよ」


 初めて知った事実に、声を失った。そんなこと、言われてたんだ……。先輩、私のせいで。


「お前、うちのパーカッションで一番センスあるよ」

「いや、それはさすがに」

「あたしさー、理解できないんだよね。熱くなってテンポが走るとか。そういうの。あたしが好きなのって、みんながあたしの音を道しるべに、安心できる環境を作ることっていうか」

「あー……確かに、先輩の演奏って、安定してて、出しゃばらなくて。なんていうか、振り返ったら居る安心感っていうか。そんな感じですよね」

「木月もそう思う?」

「はい。すごく」

「じゃあ木月の演奏は?」

「……私の演奏に、そんな抽象的なイメージあります?」

「あるよ。檻に入れられた猛獣」

「悪口では?」


 猛獣。私にまつわる何かをそんな風に例えられる日が来るとは思っていなかった。吹奏楽においてパーカッションという楽器が肉食獣に例えられるのは知っていたけど、私が個人的に危険な生き物だと思われているだなんて青天の霹靂だ。


「あたしの演奏は、どっちかっていうとその場に留まって、みんなの基準になってやるような感じ。でも、木月は違う。あたしとは対称的。楽曲っていう空間の中で、お前はずっとどこかに行きたがってる」


 大袈裟だな、先輩は。そう思って聞いていたけど、「ノリが違う」と言って高校からドラムを叩かせてもらえていないことを不意に思い出した。もしかして、何か関係があるのかな。


「今までは、閉じ込められてたから、どこにもいけなかった。でも……もう足枷も、檻も、お前を邪魔するものは何もない」


 要するに、森田先輩は私が解き放たれたとでも思っているらしい。私のことなんだと思ってるんだ……って、獣か。


「とはいえ、コンクールのスネアは譲らないけど。あたしは別にいいけど、戻したら他の連中がめんどくさいだろ」


 獣扱いされて若干いたたまれなくなくなっていた私だけど、森田先輩が別の話題に繋げてくれたので助かった。

 そして彼女の判断に賛成している。そもそも、今日たまたま上手く行っただけって可能性もあるし。私がスネアに戻るなんて、色んな意味で悪手だと思う。


「それはそうですね。私も森田先輩がやるべきだと思ってます」


 彼女の言葉に同意してみせると、私達を隔てているトイレの扉を手のひらで軽く叩かれた。「少しは残念がれよー」という言葉と共に。吹き出しそうになるのを堪えて、私は言った。


「色々打ち明けちゃったんで、ついでにもう一つだけいいですか?」

「別にいいけど?」


 いざ言葉にしようと思ったら、かなり勇気が要る。私はそんな事を言おうとしている。森田先輩は催促するように「もしかして恋バナか!」と嬉しそうに明るい声を出した。

 全然違う。というか、恋バナくらいどうでもいい話だったら良かったのに。この場に来た誰かに聞かれるのもマズい。私は少し声を潜めて、やっと告げた。


「私……コンクール、結構どうでもいいんですよね」

「あっはっはっは!」


 森田先輩は、多分いま、腹を抱えて笑っている。ひとしきり笑ったあと、彼女は「あたしも」と言って、今度こそ本当に帰ってしまった。


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