第10話

 合奏三十分前。私はスティックを使った基礎練を早めに切り上げて、課題曲の流れを確認していた。ちなみに、自由曲での担当はバスドラム、いわゆる大太鼓なので、そこまで心配していない。粒がはっきりしている楽器ではないので、ズレても目立ちにくいっていうか。いやこんな考え方、本当によくないんだけど。でも実際そうなんだから仕方がない。たまに指摘されることと言えば、音量のことくらいだ。こればかりは、叩いている本人と、全楽器の前に立っている指揮者との間でどうしてもギャップが出てしまうものだ。違和感がある場合は教えてもらって修正する他ない。

 だけど、本番までもう二週間しかない。そんなことをする段階はとっくに通り過ぎた。実を言うとコンクールの一ヶ月半後には定期演奏会が控えてるんだけど。たくさんの曲を演奏しなきゃいけないのに、まだ曲も決めてないし、その他の準備もほとんど始めていない。だけど、誰もそのことを気にしていなかった。コンクールまでを全力で駆け抜けたら、今度は定期演奏会まで駆け抜ける。客観的に見ると、寿命が縮みそうな生き方をしているように思える。


「先輩、調子はどうですか?」

「裕子ちゃん。うん、いい感じだよ」

「……本当に良かったんですか。スネア」

「あぁ。うん。森田先輩がやってくれるなら、そっちの方がいいでしょ」

「それは……でも、あんなに練習してたのに」

「たくさん練習してるのはみんな一緒。その足を引っ張るくらいなら、ね」


 私が言っていることは、正しいと思う。だけど、裕子ちゃんは悲痛な表情で俯いた。彼女は、私に何を見ているのだろう。


「あの、練習の邪魔してすみませんでした。失礼します」

「え、あぁ、うん」


 彼女なりに私を励まそうとしてくれたのかもしれない。随分とやりにくかったろう。私は凹んでいるようにも見えないし、何も気にしていないようにも見えないだろうから。何考えてんのか分かんない、それがみんなの印象だと思う。まぁ他人になんか分かる訳ない。私にすら分からないんだから。

 トライアングルでジャズのシンバルレガートのようなフレーズを刻む。チーチッチチーチッチって。そんな手遊びをしながら窓の外を見た。そろそろ早いパートは音楽室に戻ってくる。私はこの、徐々に増えていく喧噪が好きだったり嫌いだったりする。最近は嫌いだ。合奏に楽しさを見い出せなくなってるから。こんなの同級生はおろか、後輩にだって口が裂けても言えないけど。


「……私の問題点、か」


 さっき、森田先輩はそう言った。あの人はノリで発言するようなところがあるので、あまり深く考えないようにした方がいいのかもしれないけど。でも、あれがただの軽口だとは、どうしても思えなかった。むしろ、かねてから考えていたことをやっと言ってやったって風に感じた。

 前後の会話を思い出そうとしたけど、ただの雑談のつもりだったからあんまり覚えていないし、もう一度聞きに行っても、あの人はきっとはぐらかす。かなり前、演奏の相談をしに行った時には、首を傾けて、先輩ご自慢の長くてさらさらした髪を指でそれっぽく撫でて「見て、ハープ」って言われたからパートリーダーに相談した。ちょっと変な人なんだよな、上手いんだけど。

 妙なことを思い出していると、背後から声を掛けられた。裕子ちゃんだ。慌てた表情でパーテーションの側で跳んでいる。みんなが帰ってきたから、さっさと準備しろと教えてくれているみたいだ。ぼんやりしていたからかなり有り難い。

 裕子ちゃんと一緒に、先輩達の分まで椅子を並べる。小物を演奏するに当たって足りないものが無いかを確認して、パーテーションを開ける。既にほとんど合奏の時の椅子の並び方をしていた。私は他にやることが無いかと辺りを見渡してから席に着く。


「さっきの。分かった?」

「へっ?」


 隣を見ると、森田先輩が楽しげに微笑んでいた。さっきのって。問題点の話、だよね。まさか先輩の方から振ってくれるとは思ってなかった。分からなかったから、是非教えてほしい。そんなことを訴えようとしたところで、滝先生が入ってきてチューニングが始まった。

 先輩は、全部分かっていたみたいだ。ニヤニヤしながら私を見ている。ギリギリで手が届かない位置にいるので、耳打ちすることもできない。パーという音が伸びる中で、私は一人考える。そして気付いた。森田先輩は、私に確認するつもりなんてなかったんだ。多分、分かってないって知ってて、それでも自分の問題点から目を逸らすなって煽ったんだ。

 とにかく、今は合奏に集中しなきゃ。チューニングが終わると、いよいよ課題曲からとりかかる。今日はアタマからではなく、途中から。ちょうど鬼のように目立つスレイベルのシーンだ。先輩にパートを替わってもらってから既に何度か合奏はしているけど、やっぱりしっくり来てはいない。だけど、大事故は免れている。私は、今日もそんな危うくて楽しくない演奏をするのか。


「じゃあ八十九小節目から」


 私達は楽譜に色々な書き込みをしている。受けたアドバイスを端的に書いてる子も多いけど、強制的に必ず書くように言われることがある。それは、小節に番号を振ること。中学の頃はしてなかったけど、滝先生はコンクール曲については毎回これをやらせる。初めはなんの必要があるのか分からなかったけど、今はその必要性を痛感してる。この指標のおかげで、みんなが即座に同じところから演奏を再開できるのだ。

 滝先生が構えると、それまでだって静かだった空気が、もう一段階切り替わる。始まる。私は、最初の小節は休みだけど、次はアタマから入っている。気を抜かないようにしなきゃ。

 タクトが動く。音が鳴る。そこで私は、自分の声まで出しそうになった。え、八十九小節って言ったよね? なんか変なところから始めるなぁとは思ったけど。えっ?

 明らかに私は一発目の出番を逃した。普段は指揮を見ているけど、そんな余裕はない。私は今、この音の空間の、どこにいる。何をすべきなんだ。

 譜面を睨みながら、みんなの演奏を頼りに、スレイベルを叩く。本当にここで入ってるべきなのかどうかは知らない。だけど、あっても不自然じゃないから入れた。ここで先生のタクトが止まったら、完全に私のせいだ。そのときは素直に謝ろう。

 だけど、演奏はすぐに止まらなかった。楽譜上で自分がどこにいるのか分からないというのは、沖のド真ん中で遭難しているような心細さだ。


「……うん」


 キリのいいところまで演奏すると、先生はやっとタクトを止めた。そして木管楽器達に、音の鋭さを意識するよう話している。でも、私はあんまり聞いていなかった。だってそれどころじゃないから。

 どうなってる、この楽譜。パートを交換した私と森田先輩は、そのまま楽譜を交換した。つまり、これは森田先輩が使ってた楽譜。これまで変なことなんて無かった。でも、たまたま発覚しなかっただけ、ということだろう。何が言いたいって、森田先輩は多分、番号をどこかから振り間違えている。多分、みんなが八十九小節目から演奏していた時に、私は八十八小節目から入ってた。振った番号が最初から間違ってるってことはないと思うけど、一体どこから。


「木月」

「はっ、はい」


 譜面の不備を探して視線を落としていた私は、名前を呼ばれて慌てて顔を上げる。みんなが私を見ていた。なんだ。


「今の演奏、良かったな」

「……あ、ありがとうございます……?」


 え……。心当たりが無さすぎて混乱している。ちらりと横を見ると、森田先輩が笑っていた。次に前を向く。えのっさんが、チューバを抱えたまま、小さくサムズアップしている。クラスメートの深川も、ニコニコしている。結構前に、深川には上手に合わせられない悩みを打ち明けていたからだと思う。えのっさんは、よく分かんない。彼女のことだから「なんかいいじゃん!」と思いながら演奏してたのかもしれない。

 先生に褒められてハイおしまいというワケにはいかない。私は今、何をした。考えなければ。


「……あ」


 私、先生の指揮、あんまり見てなかった。いや駄目なんだけど。譜面を暗記してずっと指揮者見てろって言われるのが常だから、本当はいけないことなんだ。でも、見てない代わりに、さっきはみんなの演奏に耳を傾けてた。


「あー……」


 森田先輩との会話、お前の問題点はそこって言われた前後の会話を思い出すと同時に、私に何が足りなかったのか、やっと分かった。

 あのとき、私は「森田先輩、こんなことしてたんですね」って言った。でも、普通は楽譜を見る前に気付くはずだ。ちゃんと周りの音を聞いていれば。演奏することになった途端プレッシャーを感じるようなパートのこと知らなかったなんて、どう考えてもおかしい。

 周りの音は聞いているつもりだったけど、ズレちゃいけないって気持ちが強すぎて、私はタクトの動きばかり目で追っていた。いつからだろう。きっとずっと前から。中学の時に指揮してくれてた先生の方がやりやすいなって感じてからかな。上手く合わせられないことも増えたし、徐々に悪循環に陥っていたのかも。


「よし、じゃあ続き。次の楽章から」


 そしてまた演奏が始まる。私は耳を傾ける。意識を変えただけで、みんなが何をしているのか分かるようになった。まだ怖い。だけど、今の私は間違っていない、と思う。

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