第8話


 華々しい第一楽章。音がビリビリ鳴って、半袖の制服から露出した腕の皮膚には遮るものが何も無く、その音圧を直で受けて少し鳥肌が立つ。自分達の演奏ながら、気合いの入った素晴らしい演奏だと思う。自分をかっこよく見せたい、音楽を始めるに当たってそんな動機は不純だと言う人がいるけど、私達は今、その気持ちのお陰で、全力以上の演奏が出来ている。

 余韻を残すように短い第一楽章が終わり、問題の第二楽章。私のソロがあるパート。昔なら、きっとワクワクしてた。ゲートが開かれた競走馬みたいに、私は前だけを見て走り続けてたと思う。だけど、今は何かマイナスの意味を持つカウントダウンを待っているような気持ちになる。CDを聴いていて気付いた、たった一つのクレッシェンドが私に何をもたらすのか。きっと、他の人が聴いても、気付かないような些細な変更点だけど。

 ドラムロールを予定通りクレッシェンドさせる。金管楽器とのとユニゾン、タカタン! から私のソロが始まる。


「……っ!」


 ヤバい。クレッシェンドの頂点に持っていくタイミングがズレて、その影響でユニゾンもズレた。ただでさえ、このソロに入る前のユニゾンは私にとって不安要素だったのに。余計なことをしたせいで、いや、余計じゃない。私がみんなと合わせるのが下手なだけ。いや、結果的に失敗して他に迷惑をかけているなら、やっぱり余計と言った方がいいのかも。

 すっ転びそうになりながらも、私は手を止めなかった。私が止まれば、曲が止まる。それだけは避けなければいけない。私が叩いているフレーズに乗っかるようにトランペットが入ってきて演奏に少し厚みが出る。だけど、本格的にみんなが入ってくるのはもう少し後だ。数秒のその時間が永遠に感じる。

 そこで初めて、鷲巣さんの手が止まる。拍とは関係なくタクトを軽く振って下ろすと、こちらを見た。


「スネア、かなり不安定だね」

「……えっと」

「もうコンクール近いのに、大丈夫?」

「が、がんばりま」

「少し気になってたけど、一楽章でも合ってないところがあるよね」


 そうして私は、全員の前で晒し上げられた。それ自体は何もおかしいことじゃない。妙な演奏をしている子は注意されるべきだし、合奏中にそれが発覚したのなら人前で叱られることになるのは当たり前だ。それでも、自分の演奏をよくしようとしてチャレンジした結果こうなったのだから、ショックが大きかった。

 私はすみませんとしか言えない。情けなくて、顔も上げられない。ずっとスネアと譜面台の隙間から見える、ホルンの子の足元から目が離せなかった。さっきまではまとわりつくような熱気を感じていたというのに。今は指先の感覚が無い。よくない兆候だ。繊細なプレイが求められる場面で、打面の感触が分からないのは致命症になる。早く調子を取り戻さなければいけないのに。

 視界の隅で、困った様子で頭を掻く鷲巣さんが見える。怒られているのではなく、困らせている。それがまた辛い。足を引っ張っている自覚は元からあった。だから、彼の悪気ない指摘の一言一言が重い。


「ま、指摘してすぐに直すのは難しいと思うから……とりあえずは周りの音をもっと意識するところから、だね」


 適当なところで切り上げられ、演奏は再開した。私のソロの後から。躓いたところの少し前から始めることが多いけど、今回は違った。きっと鷲巣さんは、さっき言ったように、指摘されてすぐに修正できるとは思っていないのだろう。なんだろう、ちょっと嫌な予感がする。


***


 合奏後、各パートのリーダー達が鷲巣さんに呼ばれ、隣の音楽準備室で簡単なミーティングを始めた。それぞれのパートに向けて、重点的に練習した方がいい箇所なんかを教えてくれているのだ。待たされる私達は心穏やかじゃない。

 彼は絶対に個人攻撃なんてしない人だけど、例えばトランペットのセカンドの音が良くないと言われれば、それはほとんど名指ししているのと同じだ。トランペットは五人いるけど、セカンドのパートを吹いているのは二人だけだから。なので、みんなちょっとのプレッシャーを感じながら、いつもこのミーティングの時間を過ごす。


「木月。いい?」

「あ、はい」

「森田も」

「なんだろ……?」


 パーカッションのパートリーダーに呼ばれた私と、三年の森田先輩は小走りで音楽準備室の方へと向かう。森田先輩は不思議そうにしていたけど、どんな用事か、私には分かる。

 部屋に入ると、三年生の先輩達が机を突き合わせて着席しており、そのまま私達を見た。圧がすごい。先輩に嫌われてはいないと思うけど、今日の合奏でみんな思うところがあったみたいで、私の味方は一人もいないように感じた。


「呼び出したのは、課題曲の話なんだけど。パートの交換を提案したいんだ」

「え!?」


 ほら見ろ。パートリーダーに告げられた内容に驚く森田先輩の横で、私は「ですよね」という顔をしていた。というか実際にそう思ってたし。パートリーダーの物言いが直球過ぎると思ったのか、鷲巣さんが慌てて立ち上がる。


「待って待って。決定じゃないから。二人はどう思う?」


 つまり、ここで私が「大丈夫です、やらせてください」と言えば、チャンスを与えてくれるのだろう。そして私はそう言うべきだと思う。

 森田先輩は小物を担当している。森田先輩がコンクールで小物を担当することになったのは、実力が無いからではなく、私に花形を譲ってくれたから。あと、先輩は小物が好きだから進んでパート決めの時に小物を選ぶ人でもあるけど。

 去年、合奏で合わないというスランプをこれほど引き摺ると思っていなかった私は、彼女に翌年の抱負を述べたことがある。来年はスネアをやってみたい、と。それ覚えていた先輩は、パート決めのときに私を推薦してくれたのだ。

 そんな先輩の計らいに報いるためにも、私はここで食い下がるべきだと思う。そうしなきゃ、きっと失礼だ。


「……えっと」


 でも、半端な演奏でみんなに迷惑をかけるのは、もっと失礼だ。実力がないなら、大人しく下がるべきだと思う。私がスネアを担当することになった経緯と、この現状。二つを天秤にかけてぎゅっと目を瞑る。


「あたしは別にいいよ。スネアやっても」

「……!」


 森田先輩はそう言って、鷲巣さんじゃなくて私を見た。まるで私の答えを催促するみたいに。

 そうして気付いた。私は、”やらなきゃいけない”と、”やめるべき”との間で揺れているって。そこに私の意志は無い。成り行きに身を任せてこのまま降りるか、空気を読んでやらせて下さいって言うかで迷うなんて。まるでお人形だ。

 私は自分の心に、いま一度訊いた。答えは即答だった。訊くまでもないってくらいに。


「すみません、先輩。お願いしていいですか」

「……おう」


 森田先輩は、少し残念そうな顔をして、だけど笑って、私の頭にポンと手を置いた。スネアを降りろとパートリーダーに言われたときも、腫れ物を扱うように鷲巣さんにフォローされたときも、先輩達の刺すような視線に気付いたときも、我慢できたのに。森田先輩に優しくされて、危うく泣きかけた。それくらい、先輩は私の心を優しく抉ってくれた。

 泣いたりなんかしない。与えられたチャンスを自ら棒に振った私に、そんな権利はない。がっかりするような視線と、ほっとするような視線を感じる。森田先輩は合わせるのが上手い。パートリーダーよりも上手いと思う。彼女の演奏のおかげで、他のパートの人達までもが救われるんだ。

 がっかりしたような、ほっとしたような。そんな気持ちがない混ぜになっているのは、私もだった。


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