第7話
もうじき夏休みを迎えるけど、私は知っている。夏の大会や発表会に向けて、かなりの生徒が平時と変わらず学校を訪れることを。私もその一人だ。私はコンクールメンバーだから当たり前だけど、本番に出られない後輩達も同じように部活に参加しなければならないのだから大変だ。
「あ。先輩。おはようございます」
「あぁ、おはよう。裕子ちゃん」
私は重たいドアを押して中に入る。裕子ちゃんもそれに続いて入ってきた。向かう場所は同じなんだから当たり前なんだけど。
「おっ、お前らギリギリだぞー。早く空いてる席につけー」
顧問の滝先生が教壇に立っている。中肉中背、顔にも声にも特徴のないおじさんだけど、やけにスーツが似合うので、本番の時だけちょっとカッコよく見えると評判の先生だ。ちなみに、私は彼の指揮に苦手意識を持っているせいで先生そのものが苦手だったりする。
私達吹奏楽部の練習はミーティングから始まる。今日はちょっと遅かったらしい。ギリギリで遅刻を免れたことにほっとしながら、手近な席に座る。遅刻が多いと先輩に目を付けられたりするからかなり面倒だ。正直、今日のこれだって印象がいいとは言えない。私は二年生だからまだいいけど、裕子ちゃんは大丈夫だろうか。
「よし、じゃあ始めるか。今日はパート練のあと、午後から合奏。
その後、滝先生はみんなに何かあるかと振るけど、挙手をする生徒はいない。何かあったことなんてほとんどないけど。そうしてミーティングはお開きとなった。
「それじゃ、私達も行こっか」
近くに座っていた裕子ちゃんに声を掛けて、私は立ち上がる。他のパートの子達は今日の練習場所を確認しているけど、私達はそれをする必要が無い。音楽室はアコーディオンみたいなパーテーションで前と後ろに区切ることができて、私達の楽器は教室の後ろの方に収納されているからだ。打楽器は大きくて移動が難しいから、私達はいつも音楽室の後ろで練習している。
たまにグラウンドで練習している運動部の活動を見下ろしたり、他のパートから見えないのをいいことに雑談したりするけど。最近はちょっとピリピリしていて、あんまりそんな時間もとっていない。
パーテーションの奥、音楽室の後ろ側は私達パーカッションの根城だ。ティンパニーやドラムセットが端に寄せられており、その隙間にはいくつかの譜面台が畳まれることなく立っている。本当は畳んでしまわなきゃいけないんだけど、どうせ毎日使うし、誰にも注意されないのでこのように運用されている。
誰に指示されるでもなく、私はその内の一つを掴んで持ち上げた。譜面台の足が楽器に当たらないよう、器用に持ち上げると窓際にセットする。次はスタンドに設置されているスネアを運ぶ。最後に、棚に並んでいるメトロノーム。電子式のものもあるけど、私は左右に振れる昔ながらのタイプを愛用している。
こうして窓の外を眺めながら練習できる環境を整えると、私はやっとスティックを取り出した。コンクール曲の楽譜を譜面台に置く前に、ストレッチやメトロノームだけで行える簡単な基礎練を済ませるのが、私の普段のやり方だ。だけど今日は妙に気持ちが急いて、ストレッチを終わらせると、譜面をセッティングした。
「……」
「先輩、基礎練しないんですか?」
「いや、するけど。ちょっと気になることがあって」
「そうなんですか。来年は私も、小物でいいから出たいです。コンクール」
裕子ちゃんはそう言って窓の外、多分空を見た。彼女は今年のコンクールメンバーには選ばれなかった。コンクール曲として採用する楽曲にもよるけど、今年はあまりパーカッションのパートは多くない。スネア、大太鼓、シンバル、ティンパニー、グロッケンなんかの鍵盤に小物。どれも二、三年生で埋まっている。
小物というのは、スタンドシンバルや鈴、ウィンドチャイムにトライアングル。そういう楽器のこと。それらは一つの譜面にまとめられて、一人がいくつかの小物を担当することになる。花形のスネアやティンパニーと比べると見劣りするかもしれないけど、小物でも担当すればステージに立てる。小物でいいというのは、裕子ちゃんの謙虚な気持ちの現れだろう。
「気になることってなんですか?」
「大したことじゃないんだけど……あ、やっぱり」
「え?」
私は、昨日何度もリピートして聴いた部分の譜面を見て呟いた。ソロの直前、楽譜にはクレッシェンドなんて入っていない。だけど、音源では明らかにソロに向けて音が大きくなっていた。私は、あった方が抑揚があっていいと思う。
ただでさえ合わせられない私が、余計なことをすべきじゃないのかもしれない。けど、ここをこうすればもっと良くなると気付いてしまったのにスルーするほど、音楽のことをどうでもいいとは思っていない。
「試して、みようかな」
「……先輩?」
裕子ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んでくるけど、今日の合奏で試そうとしていることについては黙っておくことにした。合奏後、彼女に何か違いがあるように感じたか聞いてみようと思ったから。
ちなみに、分かってもらえるなんて思ってない。心のどこかではこんな変化、自己満足だって分かってるから。変に聴こえなければそれでいい。
「ほら、三年生に怒られる前に、裕子ちゃんも練習に戻って」
「は、はい……」
適当な理由をつけて裕子ちゃんを戻らせると、私はクレッシェンドの該当箇所を見つめたまま、頭の中に入っている基礎練を始めた。
***
昼食を終えると、みんなが合奏の準備を始める。椅子と譜面台を並べて、私達パーカッションは指揮者の位置に合わせて楽器を移動させる。
普段なら面倒な作業だけど、今日だけはこの時間が永遠に続けばいいと思った。私は緊張している。ソロ周辺の演奏を変えることが、正しいかどうか分からないから。いや、イメージ通り演奏できれば絶対に良くなる。というか良かった。さっき一人で練習していた時は。問題は指揮に合わせてそれができるかどうか。
「それこっちに回してー」
「ごめん、少し詰めてくれる?」
心なしか、今日はみんなテキパキと作業しているように見える。きっとこれは気のせいなんかじゃない。鷲巣さんが来るからだ。普段は市民吹奏楽団の指揮をしている人で、たまにこうして応援に来てくれる。顧問の滝先生とは違う視点からアドバイスをくれるから、吹奏楽部の子達からはかなり人気だ。小太りの中年のおじさんが女子高生にモテモテな光景は、事情を知らない人が見ればかなり異様だろう。
私は、鷲巣さんにみんなほど熱烈な感情を抱いていない。演奏を見てくれるのは有り難いと思うけど。パーカッションって大体スルーされがちだし。ズレたときだけ注意される。それだけだ。
そうこうしている間に鷲巣さんが音楽室に入ってきて、みんなで挨拶して頭を下げる。そしてすぐにチューニングに入った。各管楽器がパートに分かれて音を出す。滝先生のときは一人ずつやってからパート毎に音を出してる。
私はいまだにみんなが何をしているのか分かってない。いや、チューニングなんだけど。さすがにそれは分かるんだけど。パーと音を出して、首を捻って管を調整してまたパー。最初と最後でなんか違った? って思うけど、違うらしい。少なくとも、チューナーと呼ばれる機械の中では。みんな、チューニング中はチューナーと睨めっこしてる。ちなみに、鷲巣さんはチューナーを使わなくても音の違いが分かるみたいで、みんなにパーと音を出させて、ズレてる子だけ直させるからとにかく早い。
「じゃあ、とりあえず課題曲の方から。最初から通そうか」
チューニングが終わると、彼はそう言ってタクトを構えた。みんなのブレスの音が静かな音楽室を埋め尽くして、すぐにファンファーレが鳴り響く。私はドラムロールを刻み、鷲巣さんのタクトの先端を見つめた。
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