第2話
外が騒がしい。スマートフォンを触るとまだ早朝の四時だった。カーテンの隙間からは僅かに光が差しているが、まだ明るくはなさそうだった。再び寝ようとするが、騒がしさは収まるどころか、どんどん大きくなっていった。
眼鏡をかけずカーテンを開け、ベランダに出て下を覗き込むが何もなかった。だが、奥の道路からまばらに人々がマンションの反対側へ小走りで駆けていくのが見えた。歩美は窓を閉め、玄関でサンダルを履き、ドアを開けるとマンションの下に人が群がっていた。覗き込むと、駐車場に男が寝転んでいた。いや、死んでいるのだ。部屋から眼鏡を取り出してもう一度覗き込むと、頭部が爆発し、脳みその破片が飛び散った男がうつ伏せで死んでいた。
「また……?」
人々が生み出す騒音を切り裂くようにサイレンを鳴らした救急車やパトカーが到着した。歩美は上の階を見上げた。男が落ちたところから上は五〇六号室だった。昨夜点灯していた蛍光灯は薄明るくなってもうついていなかった。
自殺事件があった直後、警察官が来た。念のために住民に聞き取りしているらしかった。自殺した男はやはり四〇二号室の男だった。妙に反応すると無駄に怪しまれるかもしれないので、小さく頷いて聞き流すふりをした。もちろん面識がない。何の情報も得られないと刑事は判断したのか、すぐに帰っていった。
歩美はペットショップで猫やうさぎを見に行くつもりだったが、脳みそが飛び散った凄惨な死体の記憶を消すのにかわいい小動物たちを道具にするのは気が引ける。かといって食材がない。コンビニ弁当にしようかと思ったが、翌日には必ずニキビができるのでやはり控えたかった。いつくるとはわからない男性がきたときに少しでもきれいにいるため、食事は気を遣っていた。結局近所のスーパーまで自転車を漕いでいく。
スーパーの向かいには全国展開しているカフェの店がある。店の外まで行列ができていたが、歩美の意思に反し、腹から鈍い音が轟いた。すれ違った人が振り向いたかと思ったが、気のせいだった。思えば昼を過ぎているが何も食べていない。さすがに脳が飛び出た男を見るとしばらく食欲も湧かなかった。いつのまにか行列の一員と化しており、店員に配られたメニューを見るといよいよ腹の音が収まらない。人間というのは食欲に貪欲な生き物なのか、自分だけが異様なのか、店内に入ってもわからなかった。
案内された席は店内の隅の方の席だった。歩美のお気に入りの席だった。隣の席とは座れば人が見えない壁で囲われている。おひとりさまでも周りの目を気にすることなく過ごしていられた。
いつも頼んでいるサンドイッチのセットが運ばれてきて、三角の角から食べていく。パンの表面は茶色く焦げているが、生地はしっとりしていてパサパサした食感がない。中の具は半熟のゆで卵がすりつぶされて満面に塗られていた。歩美はキャベツやトマト、キュウリの入っているサンドイッチを好まない。とはいってもだいたいどこの店でも野菜は入れられていた。この店ではサラダ類はセットで別の皿で着いてきていた。さらには無料でWi-Fiを使用することもでき、サンドイッチ片手にスマホでニュースを閲覧していた。
『同じマンションで二日連続自殺事件 因果関係不明』
張り付けられた写真は歩美の住んでいるマンションだった。自分の住んでいるところがニュースとして取り上げられている違和感があった。とはいえ、同じマンションで二件も自殺が続けばさすがにニュースになるだろうと思う。
あっという間にサンドイッチと一枚食べてしまったところで、残りの一枚は皿に残したままにしておいた。何もなくなって居座っているのはさすがに居心地が悪い。遠慮の塊の真逆で身勝手の塊だなと自戒した。
結局、カフェには四時間近く滞在していた。買い物もゆったりとしたペースでしていたので、帰る頃には山間から夕陽が差し込んできていた。
マンションに到着し、ふと見上げる。蛍光灯はついていた。この前の四〇二号室は点滅していない。代わりに三〇五号室が点滅していた。もしかしたら明日は、あの部屋の住民が自殺するかもしれない。
歩美は首を振った。胸元までの髪が顔に巻きつく。やはり偶然であることを思い直した。エントランスに入りかけたとき、ドアの開く音がした。もう一度見上げると、頭を出す人影が見える。さきほどの三〇五号室のところだった。点滅する蛍光灯に照らされたのは中年の女だった。顔は見たことがない。女は呆けた表情で何かを見つめている。
「おい、何やってんだ」
うしろから同じ年代の男が現れた。夫だろうか。夫と思われる男は女を手すり壁から引きはがそうとするが、女は頑なにへばりついている。直後、女は夫を突き飛ばし、姿が見えなくなった。すると女は脚をかけ、外側に放り出すようにして手すり壁に座り込んだ。脚をブラブラさせており、ためらいもなく頭を下にして落ちた。
「危ない!」
歩美は思わず叫んでいた。しかしすでに女は頭部からアスファルトの地面に落ちており、ぱっくり問われた頭から脳みそが出ていた。
「ゆりこっ!」
夫は階段を駆け下りてエントランス前で立ち尽くしている歩美など見えていないように、ピクリとも動かない女のもとへ駆け寄っていった。
もう一度見上げると、蛍光灯の点滅は二〇一号室に変わっていた。歩美の部屋の前だった。歩美は手に下げたエコバッグを地面に置き、自転車に跨った。次々と群がってくる人々をよけ、立ち漕ぎで進んでいく。死ぬのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。うさぎが欲しい猫が欲しい。彼氏が欲しい。どんな器でも溢れてしまうほどの幸せを獲得して、しばらく更新していないSNSに結婚式の写真を嫌というほど上げて、元彼を嫉妬させた。何より、あんな無惨な死体となって人々に見られたくない。もはや閉店の雰囲気を醸し出しているチェーン店の不動産屋に駆け込んだ。激しく息切れしており、明らかに不審な目で見られているがかまうことはない。
「引っ越しを検討してて……」
「ご希望はありますか?」
「明日引っ越せれば、いや、今から引っ越せたらどこでもいいです」
目の前に座る店員はさらにけげんな表情で歩みを覗き込んだ。
「お客様。さすがに今すぐのお引越しは……」
そうだ。私は何を言っているんだろう。とはいえ、死が間近に迫っているのだ。歩美は縋りつくように今すぐ引っ越しできる物件はないかと繰り返し店員に食らいついたが、上司のような男に促され、退店を余儀なくされた。
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