笑う蛍光灯

佐々井 サイジ

第1話

 ヒールの低いパンプスを履いているものの、一日中歩き回っていればシューズでも疲れるに決まっている。歩美は脚を引きずるように歩いていると、つま先がアスファルトのへこみに引っかかり、よろめいた拍子に電信柱に抱きついた。

「やっぱケチらずタクシー使えばよかった」

 そもそも駅から徒歩十分のマンションに住んだのが間違いだった。不動産屋の店員の男が言う「徒歩六分、ほぼ駅地下なのに家賃が安い」という営業に負けた。背伸びすれば天井に届きそうなほど身長の高い男は徒歩六分で行けたかもしれないが、万年背の順で先頭から三番以内を貫いてきた歩美にとっては徒歩十分はゆうにかかる。そのことに気づいたのは引っ越し初日だった。当初は普段運動する機会が少ないからちょうど良い、と思っていたが、よく考えると営業でしょっちゅう外回りしており、駅からマンションまでの運動はもはや体力を無駄に消耗するだけだった。バスの停留所もマンションから五分ほど歩かなければならず、そのために乗車賃を払うことが惜しまれた。かといって駅前の駐輪場は月額が高くて利用する気になれない。

 このまま電信柱を抱きしめていようか。しかし、日中の太陽の熱を存分に吸い尽くした電信柱は暑苦しく、手をついて離れた。脱げかけたパンプスを履き直して、スーツについたかもしれないコンクリートの破片を払った。

 十字路を左折すると、すぐ奥に歩美の住むマンションがあった。マンションの前には人だかりができており、隙間からは赤い光を放つパトカーと救急車が止まっていた。どちらも赤いサイレンを点灯させている。歩美は疲れている脚に力が宿った。こんなときでも野次馬根性が宿るのが恥ずかしい。外回りのときのような早歩きを繰り出してアパートに向かった。

 歩美と同類の野次馬たちの間を体を窄めて前方に進んでいく。マンションの周りには黄色いテープが張り巡らされていた。行き違いのように救急車のドアが閉まり、発信し始めた。

 マンションの駐車場の箇所には赤黒いものが見えた。早く帰りたいという欲求より、何があったのかという好奇心が勝ってアパートを見上げると、五○六号室に警察官らしき人だかりがあった。そこの通路の蛍光灯だけ点滅していた。「ははは」と笑っているように見えた。

 歩美の住んでいる部屋は二階で五〇六号室の住民と接点はない。隣上下ですら、引っ越しの際に挨拶したくらいだ。自殺や他殺、いずれにしても自分の住んでいるアパートで人が死ぬのは良い気がしない。歩美は黄色いテープの向こう側に立っている警察官に近づいていった。

「あ、あの、ここに住んでる者ですけど、帰りたいんですけど」

「あなたここの住民ですか? ごめんなさいね。もうちょっと時間かかりそうなんで……」

「はあ……」

 歩美は先ほどまで抱いていた意地汚い欲望のことなどとうに忘れて、早く帰りたいのに、という欲求に支配されていた。結局、歩美はアパートに入れたのは一時間後だった。


 服が大量の汗を吸い込んでいた。部屋に入るとすぐにすべての脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。パトカーが来ても救急車が来ても、明日が来る。疲れた表情を隠すため、乗りの悪い化粧を塗り重ね、太腿の部分が伝線したまま履き続けているストッキングを履き、朝ごはんは食べる気もなく、七時四十分に家を出て、靴擦れや外反母趾になりかけながら徒歩で駅まで向かい、すし詰めの車内でひと息する間もなく到着し、職場で適当に挨拶して、パソコンを開く。

 彼氏は三年前に別れてからいない。二年付き合ってプロポーズしてこない彼との将来が見えなくなり別れを切り出したのだが、まったく彼氏ができない現状が見えていれば、自分からプロポーズすれば良かったと嘆く夜。最近は寂しくてうさぎか猫を飼おうかと真剣に悩んでいる。でもそんな悩み事は恥ずかしくてペットショップに一人でいき、ゲージで遊んでいる子猫や子ウサギを見て癒される休日。でもいつの間にか隣には家族連れがいて、そそくさと退散する。

 死にたいわけではない。でも死んだらこんな悩みを持つこともないのだろうかと思うことは何度もあった。

 職場では歩美より三歳年下の寺谷美緒が結婚した。結婚式は開きたくなかったらしい。ウェディングフォトだけで充分だったという話を飲み会のときに愚痴のように話していた。歩美からすると訳が分からなかった。結婚なんて簡単にできるものではない。最近は「結婚するのは本人の自由」だかなんだか政治家や聞いたことのないコメンテーターが口々に言っているが、そんな素っ頓狂な意見がまかり通ってたまるか。結婚は強制しろ。出産も強制しろ。そしたら私だって誰かと結婚できていたんだ。

 そんな気持ちを抱えながら、暗い夜道を今日も帰る。以前は誰かに付きまとわれていないかと後ろを振り返りながら帰ったものだが、どうやら歩美を襲いたいという輩はいないようで、最近は警戒心を完全に忘れている。ドラマや映画、小説でよく登場する、背後に足音がして自分が止まると足音も消える。振り向くと誰もいない、という経験をするかと思った。実際には足音はしないし、振り向けば当然誰もいないだけだった。

 マンションの前に到着し、自分のふくらはぎを二三回揉んだ。見上げると、この前点滅していた五○六号室前の蛍光灯は普通に点灯していた。ただ、四〇二号室前の蛍光灯が今度は点滅していた。またしても「ははは」と笑っているように見える。

 明日は休みだ。買い物に出れば幸せそうな家族連れを眺め、ないものねだりを四六時中してしまう休日だ。歩美はもう一度ふくらはぎを叩いてマンションに入っていった。

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