人間を支配しているもの
エドはエベレーターで二十七階に上がった。エベレーターの後ろ側には透明な窓ガラスが張られている。外からの夜景にはマンション群とピラミッド状の州政府本部があるコンクリートでできた密林だった。。この建物はアメリカ内戦後にマンション群と並んで現れた建築物。そこには異様な雰囲気がもたらされており、その中は政府関係者しか中を知ることはできない。
エベレーターが開き、彼は廊下に出た。廊下には赤いじゅうたんが敷かれており、壁には中世の画家が描いたような風景画が飾られていた。廊下ではジャズが流れている。どちらかというと、マンションというよりはホテルに近い様相だ。彼の自分の部屋に入った。圧倒的な解放感だ。子供時代から自分の家というものは落ち着く。外の世界での任務にはうんざりさせられた。なぜ、中絶したがらないんだ。妊娠しなければ、殺されることはないのに。せっかく人生を謳歌できるのに。そこまでして本能に忠実でありたいのか…。どこかの哲学者が言っていたが人間を支配しているのは動物的側面を持っている部分だという。そこは無敵でありどのような理性すらもはねつける力を持っている。原初の生。動物の真の姿。我々はどのような進化を遂げたとしてもそれを消すことはできない。それを消せば、子孫繫栄ができなくて、この星の生命体は終わりだ。我々はそこに逆らうことはできない。
彼は制服を脱ぎもせずにソファーに寝転んだ。かつては二人で寄り添いながら寝ていたソファー。はるか彼方に消えたかのような記憶を収めたソファーに。彼には妻がいた。強制離婚法によりいなくなった妻が…。
一体全体あいつはどこにいるんだ…。内戦が終わった時にはいた。それは確かだ…。だが、前後に記憶がない。どこにもない。あいつとどこで知り合ったかも、どのような場所でプロポーズしたかも、あいつの口調も。すべてがまるで、はるか昔に沈没して海の底で朽ち果てた木造船のよう…。その記憶は朽ち果てている。もしかしたら、まだサンフランシスコにいるかもしれない。それとも、東部かもしれない。それだと、無事ではいられないだろうな。あそこには毎年大勢の密入国者が原住アメリカ人と争っている。少ない作物を育てられる場所を手に入れるために。
その時のエドは自分がまだこんなにも妻のことを思っているのが不思議でならず、一種の恐怖さえ感じた。妻や夫というのは禁止物だ。このような人口統制社会で自らの愛のよりどころの欲望を覚えるなんて…。これが人間が支配している見えない獣か…。
彼は少しでも気を紛らわせようと、スマホをポケットの中から取り出した。今や政府から認定されたものしか手に入れられない代物だ。かつてはアフリカの砂漠にすんでいるものや南米の熱帯雨林に住んでいる人間ですら持っていたものが。政府が言うにはこうだ。スマホの連絡により異性と知り合いとなれば、繫殖に及ぶ可能性があるからだ。だからこそ持てるのはエドのような人口統制警察のような政府が統括している部門で働く者たちのみとなった。
彼は気を紛らわせようとスマホのニュース記事を読むこととした。それだけが東部のニュースや世界の出来事について知れる唯一の綱だった。
東部では陸軍が密入国者の集団を撃破し、生き残った者は裁判で死刑に処されたことや、大統領であるトム・スライダーが今回の騒動を受け、移民強化には海軍も加えるということを説明している。整えられた金髪の髪、よく動く口、澄んだ青い瞳。どこからどう見てもイケメンだ。人口爆発さえなければ、女優とでも付き合えただろうに。
その次は広告だ。himilの広告だ。その文句にはこう書かれている。「皆さん、この世界はいつまで地獄のような世界であり続けるのでしょうか?まともに生きていても損するばかりの人生、さらには殺されるかもしれない。自分の人生なのに自分では決められない。そんな世界からすぐにお脱出したくはありませんか?そんな時にはhimilをお使いください。これを使えばあなたの人生を一気に照らしてくれますよ。」その先は死。
彼はスマホを目の前にある机において、ソファーに仰向けになった。とにかく、今夜の彼は何も考えたくなかった。どうしてだか、原因はわからなかったが、これも獣の仕業なのだろうか…。しかし、彼にはまだ残された義務がある。それは国家が定めたものではなく、自分で定めたものである。シャワーを浴びることと、制服を脱いで、タンスの中に直して、ベッドの上に寝転ぶこと。
彼は制服をソファーのところに脱ぎ捨てて、シャワー室に向かった。シャワーを浴びながら、彼は頭の中で子供のころに聞いた一つの話を朗読した。「一人のカウボーイがいた。彼はポニーに乗りながら、野原をさまよう。そこにワシントン司令官と出会った。彼は聞いた。どこに行かれるんですかと。ワシントンは答えた。はるか先の雲に行くのさ。彼はまた聞いた。イギリス軍とは戦わないのですか?ワシントンは答えた。雲の上にいる天使たちに応援を求めるのさ。」当時は何とも思わなかった。よく世界にありふれたよくわからない話の一つだと。しかし、今は違う。それがとても重要なものだと感じられた。
彼はシャワーを浴び終え、浴室の前にある鏡に映る自分を見た。茶色の髪に白い張りのある肌。まだ、年齢によるしわは顔には刻まれていなかった。制服を脱いで、私服に着替えたら学生に間違われるかもしれない。もしかしたら、変装してそのまま学校にも行けるかもしれなだが、そんなふざけた考えはすぐに頭から払いのけた。代わりにやってきたのは妻の行方だった。
明日、探しに行くか。丁度、明日は休みだ。車であいつのいるところを探そう。政府は夫婦を禁止物としたとしても再開するのは止めることはできないはずだ。大丈夫だ。接触はしない。ただ、顔を見て二言三言話せばいいだけだ。彼はそう明日の計画を立てながら制服をハンガーにかけ、最後は中世中国の仏教の専門書を読んだ。
アメリカ政府は埋めよ、増やせよを教えとするキリスト教は人口統制政策の禁止物とし教会や聖書を燃やした。代わりに仏教を布教させた。このアジア発の教えは子孫には重点を置かず、死後の世界や人間としての在り方を教えたものだからだ。そして、エドもその教えに共感した一人の人間だった。
死後の世界。そこでは今まで死んだ人間がそこに集まるのか。ならば、そこももしかしたら人口統制計画を取っているかもしれない。それとも、その世界は無限に広がっているのだろうか。宇宙のように果てしなく、今も拡大を続けているのだろうか…?宇宙は天国なのか?星は今まで死んだ人たちのものなのか?転生するのかもしれない。人間としての存在をやめ、別の何かに生まれ変わるかもしれない。
もし、生まれ変わるのならただ生きるだけの生き物になりたい…。
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