himil

 エドは何も考えようとはしまいとただ前に広がっている道を歩いた。その努力は何も報われないとわかりながら…。彼は月を見上げる。月は闇の空にただ一つぽつんと立っている。月はいつでも独りぼっちだ。星はあるが、それは小さすぎて月には見えない。だから、月はずっと、独りぼっちなんだ。しかも、恥ずかしがり屋だから、太陽がいる朝には姿を薄めるか、完全に姿を消す。そのようなおとぎ話を彼は子供時代に聞いた。その話を伝えてくれたのは母だった。もう、彼にとっては記憶だけの存在…。


 そのように考えていると、彼は危うくつまずきそうになった。最初は石か、ゴミかと思ったが、その思い込みはすぐに否定された。目を凝らし、闇に目を鳴らしてみると、それは死体だ。人間の死体。年齢はわからないが、死因は自殺だ。政府が販売している「himil」。精神医学の最高傑作。この人口爆発により誕生した救いの薬。その名風変わりな名前は古代ドイツ語からきている。意味は天国。


 それを飲むと、服用者は飲む瞬間に脳内の快楽物質が大量に生成される。それは自我を失うほどで進化により手に入れた理性を殺し、人間は獣に成り下がる。いえ、それは獣以下かもしれない。ずっと、そこに放心状態のまま、偽物の理想に溺れる。その理想郷は始まるのも突然であり、終わるのも突然だ。理想郷から追放されたものには絶望が広がる。絶望の平原。どこもかしこも黒い草。誰もいない。ただ、孤独にさまよい続ける。そして、その平原に抜け出す方法は一つある。それこそが、政府が用意した解決策だ。自ら命を絶つ。しかし、それは死ぬということではない。もちろん、仏教のように輪廻転生を唱えているのではない。それは第二の誕生。現実世界では死んでいるのだから、天国へと誕生するのだ。


 エドは死体を見つめた。表情はわからないが、その表情には絶望が刻まれているのかもしれない。彼は心の中で微笑んだ。もしかしたら、俺もこうなるかもしれない。この仕事に救いが感じられなくなったら、俺もこの薬を使おう。どんなに人生がうまくいっても俺は自殺するんだろうな。だって、唯一やることが中絶や離婚したがらない夫婦を撃ち殺すことなんだから。希望なんて持てやしない。俺も絶望を味わい、歩道のふちに倒れるだろう。いや、それとも海に身を投げ出すか…。生物誕生の場所を終焉の地とするんだ。何億年の時を経て、帰ってくる。本当の帰還だ。


 彼は死体を後にし、まっすぐ帰路に向かった。彼の家は三十階のマンションである。このマンションは白く、サンフランシスコでは最大のマンションだ。アメリカ内戦前はこの都市は天にも届くような高層建築物が熱帯雨林のように建でも、それは焼き尽くされた。その荒廃した土から生えてきたのは、大量のマンション群。彼のマンションもその一つであり、ここには「アメリカ人口統制警察」の隊員たちが住んでいる。

 

 エドはマンションの前にある住民確認カメラの前に顔を近づけて、ここの住民であるということをカメラに確認させた。確認をし終えると、カメラは上に緑色の光が発した。そして、扉が開いた。合格だ。これまで何千回と繰り返してきた儀式に合格した。マンションのロビーではクラシック音楽が流れている。エド以外は誰もいない。いや、住人は確かにいないが、警備員はいる。警備員は彼のことは見えていないかのように眠たそうな目をして立っている。


 「旦那、今日は遅くまで仕事だったんですか?いつもなら五時ぐらいに帰ってくるのに、今は七時でっせ。」その警備員はエドに対し話しかけてきた。その口調は見た目では想像通りの眠たそうな人間特有のものだった。


 彼は感情を表さないと職場と同じ口調でこう返した。「いや、少し寄り道をしていただけなんだ。」


 すると、警備員はニヤリとし、こういった。「そうですかい。いやいや、旦那はまじめな人だと思っていたので、酒や女遊びには興味はしていないだろうと思っていたのですが、今日は夜遅くまで帰ってこなかったもんでてっきりそれらのことをしていたのではないかと思っちまったんでっせ。」


 エドはこの無礼すぎる中年警備員をぶんなぐってやろうと思ったが、それは頭の中でとどめておいた。こういうやつなんだ。どんな人間にも友達ずらをしてきやがる。まるで、自分には敵がいなくて、いざというときはみんなが助けてきてくれると思い込んでいる。


 警備員も察したのか、にやりとした表情をやめ、こういった。「いやいや、あくまでも愚かな私の考えですので、どうかお気になさらず。そうはいっても今日はちょっとした出来事がありましてね。」


 この警備員の思い出話に付き合うかとどうかと言われたら、いつものエドなら聞かなかっただろう。しかし、今回は聞いてやることにした。お互い、暇なんだ。「何があったんだ?」エドはそう聞いた。


 警備員は話を進めた。相変わらず、品のなさそうな口調で。「いや、たいしたことではないのですがね、今日のマンションの警備をしていた時に外から一つの人影が見えたんですよ。確か、三時ぐらいだった気がする。その男は旦那のような制服を着ておらず、マンションの前をずっとにらみつけていたんです。汚らしい服装でしたよ。ジャケットを着ていたんですけど、どこもかしこも土まみれで。その男は黒人でしたので、オリャ、直感でこう思ったわけですよ。きっと、難民だ。アメリカ内戦時の時か、アフリカ大陸戦争の時かは知らないが、その時の難民だと。ほら、ここらは陸軍の攻撃をあまり受けなかったから、逃げてきたとか。」そして、警備員はこの話をさらに効果を発揮するために一息入れ、こう続けた。「オリャ、尋ねたんですよ。お前は誰だとね。子供でも分かるゆっくりとした英語で。そしたら、その黒人は意味の分からない言葉を突然しゃべりだしたんですよ。」彼は鼻をつまんで、その黒人の話している言語を再現しようとした。「べやいと、とえんわすう。」そして、こういった。かなり、さっきよりも大きな声で。「オリャ、確信したんです。こいつぁ、アフリカ野郎だ。エチオピアの部族か、マダガスカルのゲリラ兵士だとね。旦那も知っているはずでしょうが、ワシントンの政府が移民受け入れ廃止をしたのに、密入国をしている輩は絶えないということを。そいつをその類だと。そして、こうしてやったんですよ。ベルトにある銃を似き出して、その黒人のおでこの突き付けてやったんでっせ。黒人は大慌て、猿のように逃げ出しましたよ。」


 エドはその警備員が銃を引き抜くさまを半ば滑稽に思いながら眺めた。警備員は笑っている。まるで、人生でこの話をすることだけが、楽しみというように。そして、こう聞いた。「そいつは捕まったのか?」


 「いやいや、オリャ、そいつを見たのが初めてなもんでね、過去にも未来のにも知りやせんよ。でも、きっと捕まっているでしょうね。そして、帰還させられているはずですよ。密林や砂漠にミサイルが飛ぶ故郷へ。」


 「そいつは残念だ。せっかく、いい夢を見させてやろうと思ったのに。」とエドは言った。


 「いい夢って?」と警備員。


 「自殺推進薬で理想郷を見せてやれたのにという意味さ。そして、最後は地獄をおさらば。どうせ、終わるのならそっちのほうがいいだろう。」エドは微笑んだ。


 二人はお互いの顔を見て笑った。

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