第三話

第3話

出版社での打ち合わせの帰り道。あまりの自分のダメさ加減に落ち込み、足取りが重かった。せっかく特集を組んでくれるのに、全然いい企画案が出せなかった。自然と肩が丸まって歩いている。

 いい大人だし、もっとしっかりしないと駄目だって思うのに理想の自分にはほど遠い。駅を離れ、明かりの少ない住宅街に向かって歩いていると、どんどん気分が暗くなっていく。

 踏切待ちをしているときだった。隣から自転車のブレーキ音が聞こえて顔を上げた。見知った顔が横にある。


「お、先生だ」


 保育園の仕事帰りの熊沢だった。ジムにでも通っているのか青いスポーツウェアを着ていた。

 驚いた弾みで車道に出そうになったところを熊沢に腕を掴まれた。


「なっ」

「その白い線出たら、車に轢かれるよ」

「だ、大丈夫ですよ」


 まるで子供扱いだ。侑斗の腕から手を放すと熊沢は自転車から降りた。


「それで先生何してんの、散歩?」


 そのまま挨拶だけして通り過ぎればいいのに、熊沢は踏切の遮断機が上がると侑斗と一緒に歩き出した。

 陽気な声。

 仕事終わりでも疲れは微塵も顔に出していない。それほど歳は変わらないのに自分と違って大人だなぁと思う。しかも背筋がぴんと伸びていて男前。侑斗が思い描く理想の天龍寺豪鬼の姿だなと思う。別にそんなこと思われても熊沢は嬉しくないだろうけど。


「どしたの? 暗い顔して」

「べ、別に!」


 熊沢に顔を覗き込まれて我に返り、首を横に振った。


「人と会ってて、その帰りですよ」

「ふぅん怪しいなぁ。あ、例の秘密のお仕事だろ」

「秘密ってなんですか」


 侑斗は首を傾げた。


「園の先生たちが、宇津木先生は夜に秘密のお仕事しているのよ~って言ってた」


 そんなこと言われているなんて侑斗は知らなかった。


「べっ、べつに秘密ってわけじゃ、訊かれてないから言ってないだけで。副業、です」

「え、じゃあ、何してるか教えてよ?」

「それは……ひ、秘密、です、けど」

「やっぱり、秘密なんじゃん」


 熊沢は大きな口を開けて、からからと笑っている。


「けどさ、秘密にしてるのって疲れない? 俺だったら、こんなことしてるぜーっ! って絶対喋っちゃうなぁ。黙ってるなんて無理」


 その自信に満ち溢れた声に、一瞬で煽られてしまう。


「く、熊沢さんに僕の気持ちなんてわかりませんよ!」


 はっと気づいたときには言い返していた。静かな住宅街。街灯の下で立ち止まり、らしくない大声を出している。

 熊沢の堂々とした喋り方に、自身のコンプレックスが爆発していた。

 熊沢だったら隠す必要なんてないだろうって思った。

 情けない。なりたい自分になれない。


「んー、まぁね。そりゃ俺には、わからないかもしれないけど。せーんせ、なんか疲れてる?」

「あ、えっと、ちがっ、すみません、急に。……これ、やつ、あたり、で。仕事とか色々うまくいかなくて、熊沢さんは関係ない、です。はい」

「ふーん」


 恥ずかしくて焦って泣きそうになった。さっきまで煩かった熊沢が、急に静かになったことで、余計にいたたまれなかった。熊沢の顔を見ることが出来なくて俯いた。


「ま、とりあえず、疲れてる時は甘いものだよ」


 頭の上からポンとボールを投げるような声が降ってきた。その後、ガサガサとビニール袋の音がする。顔を上げると熊沢がいつもと同じ顔でニコニコと笑っていた。


「はい、どうぞ。ウサギ先生」


 顔の前に小さなプラスチックのカップがある。反射で手を出して受け取ってしまった。


「な、なんですか」

「何って、今日の給食のプリン。俺の奴だけど先生にあげるよ」

「は、いら……ない」


 返そうとしたら、小さな子供をあやすみたいに頭をかき混ぜられた。


「じゃあね、また明日。それ、食べて、夜の秘密のお仕事頑張って」


 そう言って熊沢は自転車に乗って目の前から走り去ってしまう。

 突然、理不尽な八つ当たりをしたのに、熊沢は理由も聞かずに流してくれた。

 嫌な男だと思っていたが、ちょっとだけいい奴だなって思い直した。けれど、ふと今日の献立メニューを思い出す。


 ――キャロットプリン。


 受け取ったときは、周囲の薄暗さで気づかなかった。

 侑斗は世界で一番ニンジンが嫌いだ。

 そして唯一、人参でも侑斗がキャロットプリンなら嫌々でも食べられるのを、当然、熊沢は知っている。


「……やっぱムカつく」


 けれど熊沢に会って結果的に暗い気持ちのまま家に帰らずに済んだ。

 今日は少しだけ前向きに作家仕事に取り組めそうな気がした。

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