第38話 立ちあがれ

 チクショウ。チクショウチクショウチクショウ。クソッタレ、なんてざまだ。情けない。

 私は、ガクガクと震える脚に喝を入れ、何とか立ち上がった。


 バルディンが、死んだ。あのバルディンが。死んだ。

 どういう状況なのかは分からなかった、洗脳されていたのか、本当に自分の意志だったのか。けれども確実にツツジはその手のナイフを振り下ろし、バルディンはクルエラを庇って駆け出して―――死んだ。その刃を背中から深々と突き立てられて、死んだ。死んで、しまった。


「ハァ……ハァ……クソッ、クソォッ!」


 泣いてしまいそうだ。もう泣いているのかも知れない。視界はぼやけてしまっていた。


「―――妙ですね―――この黒いモヤは一体―――? 良くないことというのは間違いなさそうですが―――やりすぎてしまいましたが―――? 彼女にとって―――彼は母親以上に大切な存在だった―――?」


 目の前で、ラナン・ダラのクソアマが、何やらブツブツと呟いている。

 クソッ、クソッ、何なんだよ。貴様が殺させたんだろこのゲボカス以下のアバズレが。貴様が、貴様が命じて殺させたんだろ。バルディンを。あの、バルディンを。


 思えば、不思議な男だった。少年のようなあどけない姿で、成程娼館一の娼夫とはこういうものかと思う可憐さで現れた貴様を、私は他の男どもと一緒だろうと思った。権力に目がくらみ、子を孕むしか仕事のできない顔がいいだけの女だと姫様を軽んじているのだろうと、そうしてやってきたのだろうと思い、痛い目を見せてやろうと殴りかかった。殺すつもりはなかったが、二度とそんなニヤけづらを晒せないようにしてやると思って、思い切り。

 でも、気がつくと私の拳は彼に掴まれ、そのまま体は宙を舞っていた。したたかに床に叩きつけられた私の腕を掴んで極め、悔しがる私を前にあいつは、あいつは本当に嬉しそうな顔で、邪気なんて一切ない、子ども同士のかけっこにでも勝ったみたいに嬉しそうに勝ち誇って―――その姿に私は悔しくて悔しくて、でもそれ以上にときめいてもいたのだ。

 その後、騎士団長に叱られて、いたずらがバレた子供のようにバツの悪い顔で謝り倒していた彼は、私の言葉を、姫様の言葉を聞くと、子供のような顔から一転して、真面目で格好いい姿で、姫様の気持ちに寄り添ってくれた。こんな、こんな男もいたのかと思って、酷く動揺したけれど、少し嬉しかった。姫様が心を許し、あんな笑顔をなさるなんて。

 そう思っていたら、まあ仕事上当たり前と言えば当たり前だけど、バルディンはとんでもないヤリチンなわけで、普段ならそれも仕方ないと思えたけれど、でも、知っている相手と月イチでやっている仲で、そのうえあんなにイチャイチャする姿を見せられたら、耐えられなかった。

 私は、私だって、バルディンのことが好きになっていた。ケンカばかりだが、それをおいてもものすごく気が合うし、良いやつだし、可愛いし、格好いいし……。でも、姫様もきっとバルディンのことが好きなんだなとわかってしまったから、ぐっと堪えていたのに、堪えていたのに、やってるなんて、それなら、それなら私だってと、みっともなく泣き出してしまった。

 それを、彼は、優しく抱きしめてくれて、もうそのままその場にいるやつ全員抱いてやるってわけのわからないことを言い出して……でも嬉しかった。姫様だけじゃなく、私も見てくれたんだと思うと、本当に本当に嬉しくって、彼と交わった五時間は、本当に幸せだった。気持ちいいのは勿論だけど、それ以上に、私の胸の内からポカポカと温めてくれるようで、幸せで、満たされていた。この時間が永遠に続けばいいのにと思うくらい。嬉しくて、楽しくて……なのに、なのに。


 殺された、目の前で。死んでしまった、私がいたのに。

 なんて……なんて不甲斐ない。なんて情けない。なんて弱いんだ、お前は。

 自分自身への怒りで、どうにかなってしまいそうだった。どうしてお前はそんなにも弱いのか。どうして守りきれなかったのか。どうして、どうして……。


 いや、今はそんな事を嘆いている暇はない。バルディンを殺した連中が今目の前にいるんだぞ。バルディンが命を投げ出してまで助けたかった人をどうにかしてしまおうとしている連中がまだ間の前にいるんだぞ。動け、動け。動くんだよ、動け!


「う、うおおおおおお!」


 雄叫びを上げ、ギシギシと痛むからだを無理くりに動かして、シスターに殴りかかる。せめて、せめてコイツだけでも……!


「うるさいですね―――」

「がぁっ!?」


 拳は容易く手のひらでうけとめられ、もう片方の手でクソ女は私の首を掴んで持ち上げた。クソッ、クソッ、一矢報いることすら出来ないのか?


「随分と―――この男に執心のようですわね―――まあいいでしょう―――ツツジちゃん―――ひとまず彼女を回収して―――おや?」


 私の首を掴み宙に持ち上げたまま、ツツジの方を見たシスターはその憎たらしい顔を嬉しそうに歪めた。


「おやおやおやおやおやおやおや―――? 何ということでしょう―――貴女も? 貴女もなんですか?」


 私のことなどどうでもよくなったように、シスターは私を放り投げた。

 ゴロゴロと地面を転がり、全身がばらばらになりそうになりながら、それでも何とか体を起こした。


「これは―――これはとんだ掘り出し物です―――貴女も―――貴女も使徒だったとは―――」


 シスターは嬉しそうに手を叩いた。


「素晴らしい―――素晴らしいですわ―――今宵三人の使徒が絶望を前に真実に目覚めるなんて―――」


 シスターは感極まったようにそう言った後、斃れたバルディンと、私を見た。

 まて、三人? 三人と言ったのか? では、クルエラと、ツツジと、あと一人は? 誰のことを言っている?


「それにしても―――クラレンス王女の執事である貴女が―――ここまで入れ込むということは―――この男は王女にとってもさぞ―――大切な相手になったのでしょうね―――?」

「おい、まて、何をする気だ」


 嫌な予感がする。私は何とか立ち上がり、ふらふらと構えるが、シスターは恐ろしいことを口にした。


「そんな彼と―――大切な友人である貴女の首を見たら―――第六の使徒―――クラレンス王女も目覚めてくれますわね―――」

「貴様……! 姫様に何をする気だ!!」


 まずい。今姫様はこれまでの人生で一番の幸せのさなかにあるのだ。そこへ、バルディンと私の首を取って見せつけられたら、姫様は壊れてしまう。そんな、そんな真似はさせない。せめて姫様だけは、姫様だけは守らなくては……。


「そういうわけです―――死んでくださりますか?」

「ぐあっ」


 鳩尾に一発、私の身体はおもちゃのように宙に舞う。


「が、がはっ……」

「うーん―――中々頑丈ですわね―――」


 立て、立つんだ。何としても、姫様は、姫様だけは……。


「ぎゃっ」


 強く蹴り上げられ、ボールのように転がる。全身が痛む。死にそうだ。いや、死んでは駄目だ。姫様を悲しませることになる。


「ぁっ……」


 顔を蹴り抜かれる。首が引きちぎれそうだ。耐えろ。耐えるんだ、耐えて、耐えて……それで、何になる……?

 こんなに弱い私が、情けない私が耐えた所で、何になるのか?

 涙が溢れて止まらなかった。どうにもならない自分が情けなくて。ようやくできた好きな男も守れない自分が不甲斐なくて。涙で前が見えなかった。


「死ぬのが怖くて―――泣きますか―――情けない女ですわね」


 違う、死ぬのが怖くて泣いているんじゃない。けれど、今はそれを口にすることすらできなかった。


「まあいいです―――そのまま―――世界の為の礎となりなさい」


 そういってシスターは私にとどめを刺そうと拳を振り上げ―――


「おい待てよ」


 聞こえるはずのない声に、動きを止める。ゆっくりと、声のした方に顔を向けるシスター。私も、動かない体で何とか視線をそちらに向ける。そこには、そこには……。


「俺の女を泣かせたのは、お前か?」


 死んだはずのバルディンが立っていた。

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