第3話 冥界の神
俺は、どこかわからない不思議な空間を漂っていた。
水の中だろうか。遠い昔、兄と猪を狩りに出かけた際に、血と脂で汚れた体をきれいにするために入った山奥の池を思い出す。
全身を水につけるのはとても不思議な感覚で、怖いような、面白いような、そんな思いに戸惑った記憶がある、
兄。ああ、兄たち。皆は無事だろうか。私の逃がした二人は、兄弟のもとに辿り着けただろうか。彼らは、彼らを待つ家族のもとに帰れただろうか。
そんな事を思いながら、遠くに霞む水面を見つめていた。
ここは心地良い。辛さも、痛さもない。柔らかい春の日差しのような暖かさが俺を包んでいる。ゆらゆらと、優しい水の流れに身を任せ、キラキラと光り輝き姿を変える水面を眺めるのは、とても心地よかった。
母親の、腹の中にいるというのは、きっとこんな感覚だったのだろうか。何か巨大で、温かいものの中にいるという安心感が俺の傷ついた体と心を癒していくようだ。
……ここは、死後の世界なのだろうか。聞いていた話と違うな。
そんな考えも、安らぎの中に霞んで消えていく。
いいじゃないか。聞いていたのと違ったって。
死後の救いを得るために行う死出の旅。冥界へと辿り着くための困難な路。生前の罪により辛さが増すという、贖罪の旅路。
少なくとも、こんな安らぎは無いだろう。あるとするなら、それは旅の終わり、冥界の棺の中のはずだ。
ならきっと、俺の頑張りを神様が見ていてくれて、こっそりサービスでゴールに運んでくれたんじゃないのかな。ああ、きっとそうだ。そうに違いない。だってあんなに頑張ったんだもの。最後はこうして安らかに……。
「クフフフフ」
誰かの笑い声がした。誰かいるのかと問う暇もなく、水面から大きな手のひらがこちらへ向かって伸びてきて、そのまま俺を安らかな水の中から勢いよく掬い上げた。
「がっ、がぼっ、げほっ」
空気を吸い込むと同時に、肺の中から大量の水が吐き出された。苦しい。痛い。肺が、喉が、張り裂けてしまいそうだ。
「あーあーやっぱりですね。貴方ならまだ自我が残っていると思いましたよ」
頭の中に直接響くような、不思議な声が聞こえた。
見上げるとそこには、かつて見たことのないほど均整の取れた美しい顔の女がいた。しかも全裸で。
「う、うおっ」
股間がいきなり熱くなる。目の前の裸体。初めて見る女の裸というものに、俺の心臓はどくどくと血を俺の下半身に送り込んでいるのが分かった。
俺のオチンチンは今まで見たこともないくらいに硬く反り上がり、痛いくらいだった。
知っている、確か勃起というやつだ。この硬くなったオチンチンを女の人の股の穴に入れるのだ。
「クフフ、流石というかやはりというか。死の間際、己が尊厳と誇りをかけた戦いの中で。助けを祈るでも勝利を願うでもなく、ただひたすらに交尾がしたいと念じ続けただけのことはあるですね」
「お、お、女。女の、裸……」
「いやぁ全く神の話聞いてないですよ。この状況で女の股にチンポツッコむことしか頭にないのですね。大物ですよいろんな意味で」
目の前の全裸の女が何かを言っているが全く頭に入ってこない。
思えば、俺の人生では女性と関わる機会がないどころか、基本的に一人家の離れで生活してきていたため、女性の裸など一度も目にすることはなかった。
ばるんばるんと揺れる大きく形のいいオッパイ。すらりとくびれきれいな曲線を描く肢体。ぷりんとした柔らかそうなオシリ。
そんな夢にまで見た女体が目の前に突然飛び込んでくるなんて俺はもう頭が真っ白に―――
「あっ…」
……………。
「君は一体何者でここはどこなんだ? 俺に何をしようとしている?」
「ウソだろおいコイツ人の裸見て勝手に勃起して勝手に射精した上勝手に賢者モードになって何事もなかったかのように話始めたですよ」
「何の話だ! 俺は今真面目な話をしているんだ! ――あとちょっと何か服を着て頂けると大変ありがたいんですけどあの何がとは言わないんですけどその格好だとまたちょっと元気になっちゃうんであのほんとお願いします」
「ものすごい早口」
早口で悪いか。ちなみにいうとそっちの格好は俺のオチンチンにとっても悪いぞ。いや悪くはないぞ。むしろいいぞ。でもちょっと今は真面目に話したいからやっぱり良くはないかな。
「ク、クフフ……まあいいです。我様の高貴なる身体を直接見るというのは確かに人の身にはこたえるですね。我様の慈悲として衣を纏ってあげますです」
そう言うと目の前のグラマラスな美女は指をパチンと鳴らした。すると、きめ細やかな美しい白い布が現れ彼女の肢体を柔らかく包み―――
「逆効果ァ!!」
「クフ!?」
俺はオチンチンを両手でおさえてうずくまった。
「え? え? あのですよ? 衣を纏ったのに何故そんなにエレクチオンしているのですか? というか逆効果って何?」
完全に想定外だった。女体なんて初めて見たので知らなかった。剥き出しの裸よりも布で隠したほうがえっちなことがあるだなんて。あまりにも恐ろしい衝撃だった。
白く美しい布はキラキラと光りを反射し、そのきめ細かさ故にぴっとりと彼女の身体に貼り付きその内側にある柔らかな曲線の存在感を確かにそこにうつしだしていて―――
「うっ……」
……………。
「兎に角こちらの質問に答えてもらおう! ここは一体どこで君は何者なんだ!」
「二回目ェ!? えっ、あっ、うぇっ……二回目ェ!?」
「いやちょっと何の話か分かんないですね」
何が二回目なのだろうか。二回目と言うと一回目があったような言い方ではないか。いやまず何のことかワカンナインデスケド……。
「ま、まあ、まあともかくだ! ここは本当にどこなんだ? 俺は死んだはずだろ?」
節操ないオチンチンをそっと手で隠した俺は、首を可動域限界まで後ろに回して彼女を直視しないようにしつつ彼女に尋ねた。
手で隠したのは俺のオチンチンを女の人に見られていると意識してしまうと泣きの三回目が訪れてしまう恐れがあったからだ。
いやまああの本当に一回目とか二回目とかもよくわからないんですけどね。本当本当。
「ク、クフフフフ……ちょっと、いやかなり生前の様子とかけ離れた感じですがまあここは死後の世界ですし色々隠していた本心とかそういうのが表層化してきているとかそういうことにしておくですね」
「お心遣い痛み入ります……って、やっぱりここは死後の世界なのか?」
なんかもう女の人の声と動きに合わせて衣が肌に擦れる音だけで元気になってしまいそうなオチンチンをバレないようになだめながら彼女に尋ねた。
「クフフ。ええそうですよ。ここは死後の世界、境界です」
「きょう、かい? 冥界じゃないのか?」
「冥界はあなたが先程までプカプカ浮いていた水の中ですね、バルデール」
俺の名前を知っているのか。
「冥界ではなく、境界? というのはわかったが、そうすると君は何故俺を冥界からこの境界に引き上げたんだ? そもそも境界ってなんだ?」
「よくぞ聞いてくれたです。おかげでやっと本題に移れるですね」
楽しそうに笑う彼女は滑るようにすぅーっと俺の視界に飛び込んでくる。
やめてくれ! そんな不意打ちで視界に入られると俺のオチンチンが爆発してしまう!
俺はぐっと下唇を噛んだ。
「ふぉんふぁひっふぇ?」
「うーんなんだかからかうのも申し訳なくなって来たですね……」
彼女は少しだけ眉をひそめたあと、こほんと咳払いをして高らかに口を開いた。
「我様は冥界の神デストーリア。死した生命の魂を冥界に安置し管理するのが我様の仕事です」
「冥界の神様……」
うん、冷静に考えてみると神様相手に裸を見て興奮してオチンチンが爆発してしまうのは滅茶苦茶不敬なのでは? というか不敬を超えた何かなのでは?
「クフフ、まあそんなに怯えることはないです。そこらのモブ魂が同じような真似をしたなら問答無用で冥界から叩き出し虚無の世界で永遠に彷徨わせてやるところですが、バルデール、あなたは別です」
「別?」
デストーリアと名乗った彼女は、クフフフフと笑う。
「そう! あなたは他の有象無象の魂とは違うです! あなたは数百年に一度現れるか現れないかという英雄の魂です!」
「……英雄? 俺が?」
日がな一日中女の子とえっちしたいなーとかそんな事を考えながら猪狩ったり山賊をしばき回したりしていただけの童貞が?
「いやまあそういう事を言い出すと確かに英雄かどうか多少の疑問は残るですが…」
デストーリアはポリポリと頭を掻いた。
「実際はどうであれ、あなたは英雄の魂を宿しているです。本当であればこの先様々な戦いをくぐり抜け、英雄として人々に讃えられる伝説の騎士になっていたですよ」
「いや、俺はそんな大した男じゃ……実際死んじまったわけだし」
そう、俺は魔術師と騎士の一団に戦いを挑んだが、あと少しの所で首を落とされてしまったのだ。あの後どうなったのだろうか。デストーリアの登場ですっかり頭から消えてしまっていた疑問がもやもやと湧き上がってきた。
「……そのことについては問題ないですよ。あなたの決死の戦いで魔術師は意識を失うほどの怪我をし、騎士も大きく傷ついたため作戦を断念してあなたの首だけ取って帰ったのです。おかげであなたのご兄弟たちはあの戦闘に勝利し、全員五体満足で戦後処理をしているところですね。見るですか?」
「えっ見、見れるの?」
「はいです」
パチン、とまた指を鳴らすデストーリア。すると、冥界の水がこぽこぽと泡を立てながらすっと持ち上がり、大きな球の形になって浮き上がった。
「これは……兄さんたち?」
そこに浮かび上がった光景は、俺には少し信じられない物だった。
「どうして俺の首を囲んで皆泣いてるんだ……?」
理由がわからなかった。あの人達は俺を避けていたはずだし、そもそも俺の首は騎士が持ち帰ったのではなかったか? その首が兄たちの前にあるということは、まさか戦後処理の交渉で俺の首を引き渡すように要求したのか? なぜそんなことを?
「何が起こってるか分からない、という様子ですね」
デストーリアは少しだけ目を伏せた。
「悲しいですね。彼らは誰にも気づかれなくとも可愛い末の弟であるあなたを愛していたです。けれどその愛があなたを殺してしまったですよ」
「……何の話だ?」
本気で意味がわからず、デストーリアに聞き返す。
「第一夫人ロアンナは、あなたが幼少期に見せた才能の片鱗を見て、万が一にも家督を奪われることを恐れたです。そして、彼女は秘密裏にあなたを亡き者にしようとしていたです」
「……」
「それに気づいたあなたの兄弟たちは、ロアンナと違い歳の離れた弟のあなたを可愛がっていたです。だからこそ、ロアンナからあなたを守るためにあなたを突き放したです。誰もがあなたを疎んじれば、あなたが家督を継ぐかもという不安は解消されるですから」
「……そうか」
知らなかった。
「厳しく当たり、冷たく接し、あなたが家を、自分たちを憎むように仕向けたです。家督を争うため、仲の良い兄弟であっても命を奪い合うような、そんな恐ろしい貴族の世界にいてほしくなかった。あなたを逃がすため、あなたが家を、兄弟を捨てて逃げ出すようにしたかったです」
「……………」
「結果はあなたが一番良く分かっていると思うですが、あなたはそうされることに自分なりの理由を見出し、それに納得してしまったです。あなたに降りかかる理不尽に、不条理に、あなたは道理を見出してしまったです。受け入れてしまったです。あなたはそのため、誰も憎むことはなく、自らの務めを果たしてこの世を去る羽目になったです」
「……じゃあ、俺があんな装備を渡されたのは、俺に見限って欲しかったからか? 俺にたった二人の部下しか付けなかったのは、二人相手なら逃げ出せるからか?」
そう尋ねると、デストーリアは厳かに頷いた。
「けれどそれは、悲しいことにすべてが裏目に出たです。装備がまともなものなら、あなたは問題なく騎士も魔術師も打ち破り凱旋出来たです。部下がもう少し多ければ、あの装備でも仲間が来るまで持ちこたえられたです」
…………。
「けれどそうはならなかったです。あなたの兄弟たちは確かにあなたを愛していましたが、やり方を間違えたです。あなたを愛す気持ちはあれど、あなたのためにロアンナに立ち向かう勇気はなく、さりとて利口なやり方を考えるだけの頭もなかったです。あなたの兄は、姉は、愛のある大バカ者だったですよ。だからこうしてあなたは英雄としての生を果たすことなく死に―――」
「良かった……!」
「―――は?」
俺は涙で顔をくしゃくしゃにして、絞り出すようにうなった。
「そうかぁ……! そうだったのかぁ……! 俺は、おれは、てっきり、てっきりみんなからなんとも、なんともおもわれてないのかと……おもって……! そっかあ……! そっかぁ………! おれは、おれは……!」
一人じゃ、なかったのか。
生きてても、死んでても良い奴じゃ、なかったのか。
俺の兄弟たちは、俺のために泣いてくれるのか。
「よかった……! よかったよぉ……!」
「―――正気ですか?」
俺の嗚咽に交じって、デストーリアの声がする。
「あなたは死んだですよ? 愛されていたからなんです? 実は愛ゆえの行動だったからと、そんなことであなたの兄弟たちの行いは許されるですか? あなたを守るためと言いながら、実際に自分では何も行動できず、逃げるように、言い訳をするように、あなたに冷たく当たることが、あなたを酷い目に合わせることが、あなたを救う事なのだと勝手に自分たちを騙し込んできただけですよ? あなたの十二人もいる兄弟たちの誰か一人でもこんなやり方は間違っていると言えたなら、行動に移していたなら、十二人のうちの誰か一人でもそうできていたなら! あなたは死ぬことは無かったです! はっきり言うです! あなたは犬死だ! 確かにあなたの行動で、あなたの献身で、あなたの今際の際の最期の覚悟で! あなたの兄弟たちは勝利をつかんだかも知れないです。ですがそもそも死ぬ必要などなかった! 運命と生命をつかさどる冥界の神として宣告するです! あなたが握っていたものが普通の、何の変哲もない、そこらの兵士が持っているような槍であったなら! たったそれだけのことであなたは死を免れていた! あなたは! あなたの兄弟たちのあなたを想う愛という名の虚しい独りよがりの結果として今ここに立っているです! それでもなお良かったと言うのです!?」
俺に向かって怒鳴りつける彼女の声がする。さっきまでの、どこか飄々としていた態度とは違う、熱のこもった声。
兄弟たちからの愛に気付けない、鈍い俺でもわかった。
「ありがとう。デストーリア」
「―――へ?」
「怒ってくれてる、んだよな。俺なんかの為に。わかるよ、流石に……」
ぐしぐしと、涙の痕を拭い払う。
「でも、良いんだ。本当に」
ひとしきり泣いたからだろうか。どこか、爽やかな気持ちだった。人前で涙を見せたのは、いつぶりだろうか。
「俺は、いてもいなくても同じものだと思っていたんだ。スペアのスペアのスペアのスペアにもなれない生まれで、ずっと一人で。明日この世界から消え去っても、誰も気づかないんじゃないかとさえ思ってたんだ。―――でも、違った」
俺は、デストーリアの造り出した球を見やった。
「俺の為に、目を腫らして、喉を嗄らして、血が出るくらい拳を握りしめて―――泣いてくれる人がいた。俺はね、俺は、いたんだ。いてもいなくても同じじゃなかった。生きていても死んでいても同じじゃなかった。確かにあそこにいたんだ。生きてたんだ。―――それが、それが、嬉しいんだ」
「―――そうか、それは確かに、『良かった』ですね」
俺に向かって優しく微笑む彼女の姿は、下心とかそんなものを抜きにして―――ただ、美しいと感じた。
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