第36話 エンハンスとエンチャント

 「エンハンスと……エンチャント?」

 思わずティムはおうむ返しをしてしまった。遥か昔に聞いたような記憶はあるが、具体的なことは思い出せそうにない。デイオルグはティムの表情を見て、やはりな、と言うように息を吐いた。


「本来は魔道の学習の一番最初の方に教えられる部分なんだが……まあ覚えていなくても仕方ない。皆その頃は一刻も早く魔法を使いたくてうずうずしてるような状態だしな」

 デイオルグは近くにあった細い木切れを拾うと土の上に文字を書きながら説明を始めた。


「簡単にいうとエンハンスとは自己強化、エンチャントとは他者強化のことだ。どちらも強化バフの一分野ではあるがその仕組みは大きく異なる」

 地面の上に人型の物体が描かれて、順次そこから矢印が引っ張られていく。


「まず、自分の魔力を用いて自分自身の神経回路に作用して肉体能力を強化するのがエンハンス。こっちはすべてが自分の中だけで完結するからその過程は至ってシンプルだ。しかし、エンチャントは他者の神経回路に作用する際、対象者の身体や魔力の性質に自分の魔力の性質を同調させる過程が含まれる。そこが大きな違いを生む」


「と、言うと?」

「大方の術者はエンチャントをかける際、魔力の同調の仮定で大半の威力を損なってしまうんだ。100の威力でかけたエンチャントが30の威力でしか効果を発揮しなかったり、という風にな」


「なるほどーー」

 つまり、そこには二重の無駄が同時に発生していることになる。魔力消費の無駄、それに加えて魔力効果の無駄。強化魔法は難しい、と以前どこかで耳にしたことがあるが、このことを言っていたのか、とティムは納得した。


「前にお前のブレッシングを見させてもらったときに思ったことがある。"すごくもったいないことをしている奴だな" って」

「もったいない?」


「お前が100の威力でブレッシングをかけるとき、他者にかけるときは45ぐらいの威力しか出ていなかった。でもこれはもう仕方がない。熟達した魔術師でさえ他者強化の際は80から85ぐらいの威力にスポイルされてしまうんだ。そう考えればお前の他者強化の腕はそこまで悪いものじゃない。問題はにブレッシングをかける場合だ」


 思わずティムは身を乗り出してデイオルグの話の続きに耳を傾ける。

「お前の場合、自己強化をする場合にも他者強化と同じように100から45程度まで威力が落ちてしまっている。しかし、本来自己強化には他者強化のように魔力の性質同調の過程がない分、んだ。」


「俺の自己強化は魔力効率が悪いーー」

「はっきり言ってしまえば、そうだ。具体的に言えば他者強化と同じように45ぐらいの威力しか出力が出ていない。おそらくそれは、お前がエンハンスとエンチャントを混同してしまっていることが原因だと俺は見ている」


「……それを直すことができるだろうか?」

 不安そうな表情でティムがデイオルグに訊ねると、デイオルグは明るい表情でにかっと笑った。


「そんな顔するなよ。だからこうしてその話をお前にしたんじゃないか。自己強化の場合、訓練次第で魔力効率を100のうち90から95ぐらいまで持っていくことができる。そうすることができれば、お前の力は今よりも飛躍的に向上することになる」


「教えてくれ。そのためには一体どうすればいいんだ?」

「落ち着け。今日はまず訓練の一歩目から始めよう」

 逸るティムをなだめるような仕草を取ると、デイオルグは中庭に置かれた巨大な岩の前にティムを立たせて言った。


「ティム。今からいつもお前がやってるのと同じ要領でブレッシングを自分にかけて、その岩を思いっきり殴れ」

 ティムは首を振る。「無理だよ、デイオルグ。こんなでかい岩、いつもと同じ調子でやったら拳を痛めちまう」


 しかしデイオルグは腕を組んだまま許してくれそうになかった。

「いいからやるんだ。こういうのは最初が肝心なんだぞ?もし怪我をしたとしても、傷はお前の治癒魔法で治せるだろ」


 簡単に言ってくれるなあ、とティムは心の中で思った。たとえ後から傷は治せても、感じる痛みは皆同じだ。思っていたより彼の指導はスパルタなのかもしれない。

 覚悟を決めたティムはブレッシングを自分にかけた。緑のオーラを全身にまとうと、大きな掛け声を上げて目の前の岩に自らの拳を叩きつけた。


「……つうっ!」

 ティムは弾かれたように後ろへ後退すると自らの右拳をかばった。見ると、ナックル部分の皮がめくれ、血が流れ始めている。思いきり殴りつけた分損傷も激しく、わずかに骨も露出していた。


 デイオルグは歩み寄ると岩の表面を確認する。岩にはティムの血が付着しているだけでほとんど傷はついていなかった。彼はのんびりとした口調でティムに訊ねてくる。

「まあ、最初だからこんなもんだ。どうだ、これと同じやり方じゃ絶対にうまくいかないって肌で感じただろう?」


 ティムは激しく痛む拳に治癒魔法をかけてデイオルグに返事をしなかった。ほらみろ、言った通りじゃないか。どうしてこんな無駄なことをさせる?ティムの中にふつふつと怒りが込み上げる。それを知ってか知らずか、ティムの表情を見てデイオルグは再び笑みを浮かべると、まあ、とりあえず次はそれを治してからだな、と言ってティムの回復を待った。


 約二十分の休憩を挟んだ後、ティムは再び岩の前に立たされた。まだ怒りの収まらないティムにデイオルグは次の指示を出してくる。

「じゃあ、今度は正しいエンハンスのやり方をやってからもう一度同じことをやってもらう」


 またやらされるのかよ、と半ば気持ちが切れそうになるティムだったがおとなしくデイオルグの言葉に従う。ーー同じ結果だったら仲間だとかどうでもいいから蹴り飛ばしてやる。

「最初はいつもと同じようにブレッシングをかけろーーただし、詠唱をすぐに終えずに魔法をかけ続けるんだ」


 ティムはデイオルグの言う通りに魔法の詠唱を開始した。風属性のマナがティムの全身に行き渡り、内側から段々と力が沸いてくる。しかしそれでも詠唱を止めることはない。


「マナが体に定着して永遠に離れない様子をイメージするんだ。放っておけば集めたマナはは体から離れ、空気中に再び霧散していく。それを全身の魔力を使って、できる限り、一パーセントでも多く引き留めるようなイメージだ」


 ティムの体が段々ずっしりと重りを背負うような感覚に覆われていく。ーーく、苦しい。使われてない筋肉が無理矢理起こされて悲鳴を上げているような想像をする。おまけにこれほど詠唱に時間をかけたのは生まれて初めてのことだ。全身に負担がかかり、徐々に頭や心臓が鈍い痛みを発し始める。


 ティムが岩を殴るための予備動作に入ろうとするとデイオルグはそれを制止した。

「こら、誰が勝手に動いていいと言った?もっとブレッシングの魔法をかけることに集中しろ。自分の中の、出せるぎりぎりの出力を出すんだ」


 そ、そんなこと言ったって、と苦しくなったティムは食い縛った歯を剥き出しにする。これ以上やったら頭の血管が切れてぶっ倒れちまう。早く指示を解いてくれよーー。

「まだだ。もう少し我慢しろ」


 ティムはそこから五分ほど耐え続けたがついに限界が訪れようとしていた。全身が震え、見開かれた両目は数分前から血走っている。

「もう少し」

 おい、どうなってんだ?このままだったらまじで死んじまうぞーー。


 さらに三分が経過し、意識が遠のき始めた頃に、ようやくデイオルグはティムにゴーサインを出した。「よしいいぞ。岩を殴れ」

 ティムは朦朧とする意識の中で拳を前に突き出した。もはやどれぐらいの速さや力加減で殴っているのか自分でも判らないような状態だった。


 ティムの拳は轟音を立てて真っ直ぐ岩に命中した。拳はそのまま岩に深く突き刺さり、見る間に岩の表面に無数の亀裂が走っていく。岩は幾つかの大きな塊に割れると、大きな音を立てて崩れていった。


 地面にへたりこんでぜえぜえと喘ぎながらティムは自分のやったことを見る。

 ーーえ、嘘だろ?さっきは岩に傷一つつかなかったのに。威力の上がり方が、階段一つ飛ばしってレベルじゃねぇぞーー。


「これが本来のエンハンスの力だ」

 横に立ったデイオルグが造作もないように言った。「今のでちょうど100のうち90ぐらいの威力が出ていた。後はこれが実践で常に出せるように、反復練習して体に教え込むしかない。もちろん、危険な練習だから常に誰かが傍で付き添う必要があるがな」


「こ、これ以上の威力を出すことは可能か?」

 ティムは朦朧とした意識のままデイオルグに訊ねた。さっきまでの怒りはいつの間にかどこかへ消え去っていた。これは明らかに通常の人間の域を越えた、マルクやメディナ、そしてローガンのいる境地に足を踏み入れるような強大な力だ。胸が高鳴らないといえば嘘になる。


「もちろん可能だ」デイオルグは頷いた。「エンハンスの威力は術者の肉体の力と魔力の力に比例する。つまり、筋力と魔力の鍛練を並行して行うことで威力はさらに伸びていく。そのためにも、日頃の地道な鍛練や瞑想メディテーションが欠かせないというわけだ」


 ティムは呼吸を整えてからデイオルグに懇願する。「もう文句は言わないよ。だから、何でも言ってくれ。俺は言われた通りに何でもやってみせる」

 ティムはデイオルグの目を真っ直ぐに見た。「俺は強くなりたいんだ。大事な人達を守ることができるように」


 デイオルグは最初目を丸くしていたが、やがて口元に笑みを湛えるとティムに返事を返した。

「面白い。言っておくが、俺は新人だからって容赦はしないぞ?」


 その日、ティムは日が落ちるまでデイオルグと中庭で訓練に励み続けたのだった。

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