第18話

 「雷浩宇……!」


 全くぶれない剣先を狼に向ける雲嵐は、憎しみの篭ったような、低く忌々しそうな口調でその名を呼んだ。


 そんな…まさか狼が雷浩宇だというの?

 だけど雲嵐が間違うはずもない。


 「…陛下?」


 横の雲嵐から、物凄く昂ったような怒りを感じる。

 こんなに怒りを顕にする雲嵐はあまり見た事がない。

 それ程までにきっとこの男は宿敵なのだろう。

 鬼気迫るその顔に私は思わずごくりと唾を飲んだ。



 「これはこれは。

 朱国皇帝の任雲嵐様じゃないですか。」


 口の端を吊り上げて雷浩宇は余裕があるように笑う。

 だが雷浩宇もまた、殺気だけは隠し切れていないようだ。

 二人は睨み合いながら距離を取る。

 雲嵐は雷浩宇に剣を向け、もう片方の手は私の肩をきつく抱き締めたままだった。


 だが、雷浩宇の背後にただならぬ幾つかの気配を感じて、私はびくっと反応した。

 単独だと思っていた雷浩宇の背後に、屈強そうな男たちが数人控えていた。


 「浩宇様。…いかがなされますか?」


 覆面で顔を覆う一人が呟く。

 すると雷浩字は茶化したように笑った。


 「あーあ。それ陛下の女だったの?

 雪花のこと欲しかったのになあ!」


 …何だとこの男は!…私が一体いつ雲嵐の女になったというのよ!

 現実を見なさいよ?

 雲嵐が助けに来てくれたのは…私が影衛隊だからよ?

 自分の手となり足となる部下がただ惜しいだけなのに!勘違いも甚だしいわ!

 


 「…んー。そうだなぁ。こんなにも喉から手が出る程その首が欲しい奴が目の前にいるのになあ。残念だ!」


 そう言って雷浩宇がその足を後退させる。


 なぜ彼らが退いたのか?


 それは静かに森の木々の間に姿を現した。

 ずっとその気配すら匂わせないでいた、鼻から口元まで黒い覆面をした黒衣姿の小鷹と、数十人の影衛隊が既に雲嵐と私の周りに、黒い影となって控えていたから。

 

 彼らは一人一人、重苦しく周りの空気をぴりっと張り詰めさせていた。

 もしも死神というものがいるのなら、きっとこんな雰囲気を漂わせていただろう。


 「…小鷹先輩!」

 

 覆面をずらし、ふふっと得意気に笑う小鷹を見て、彼がこんなにも頼りになると思ったのは初めてだった。


 「————親衛隊か。

 かなり精鋭だって聞くなあ。

 仕方ない、今回は引いてやる。

 雪花またな、お前はいつか俺が奪ってやるから楽しみにしていろよ!」


 雷浩宇は意味深な台詞を残して、そのまま側近らと共に後退し、一目散に逃げていく。

 だが見逃しはしないと、影衛隊が獰猛な獣のようにそれを追っていった。



 残された私はそれまでが緊張の連続だったせいか力が抜け、足元から崩れ落ちそうになる。

 

 しかしその腕を掴んで拾い上げたのもまた雲嵐だった。

 確かに結った髪は綺麗だったが少し乱れてもいた。着衣すら慌てて飛び出してきたかの様に左右ちぐはぐである。


 だけどもう先程のような殺意はその顔からは見られない。


 「…ケガはないか。」


 昨夜ぶりと同じ人だとは思えない程丁寧な言葉に、私はすっかり安心して微笑んだ。


 「陛下、ありがとうございま…」


 最後まで感謝を言い切るつもりだった私の顔に、ふっと影がかかる。

 頬近くに吐息が触れて。

 雲嵐の熱い唇が私の唇に触れた。

 …感触は柔らかいが押し当てるような強さで。


 …え?


 …え?っ?


 直ぐにそれは離されたが、真上にある雲嵐の呂色の瞳はまだ私を捉えて離さずにいた。


 「…気にするな。消毒だ。」


 熱っぽい視線で淡々とそう呟いた。

 そのあとは何事もなかったかのように、残った影衛隊に馬を引いてこいと指示をする。


 だが私はそこで石のように固まっていた。

 魂が昇天でもしたみたいに。


 ————それを遠目から目撃してしまった小鷹もまた、とんでもないものを見てしまったと肩を震わせた。

 しかし同時に、大変面白いものを見てしまったと大興奮もしていた。

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