愚かな娘②
約束の時間の少し前。
私は質素で動きやすいドレスに着替え女官や兵たちに見つからないように、こっそりと離宮を出た。
それから皇宮の中央付近に位置する大庭園を目指した。
久しぶりにローアルに会える…!
それだけが心の支えだった。
心が弾むほどに駆ける足も軽い。
はやる気持ちのせいか、あっという間に目的地にたどり着いた。
皇宮の庭園には冬にも関わらず相変わらず美しい花が咲き乱れていた。
スノードロップやカトレア…ダリア…アネモネ…その向こうに——
「ローアル。言ってちょうだい。」
「…エスピーナ様が、この世の誰よりもお美しいです。」
なぜかエスピーナとローアルが、向き合って抱き合っている姿が見えた。
眩いほど美しいドレスに身を包んだエスピーナ。
皇族の衣装と変わらないほどの質の良さそうな礼服に身を包んだローアル。
久しぶりに見た美しい銀色の後ろ髪はまるでディー様のように上品に束ねられていた。
また背が伸びたのだろうか。
とうにエスピーナをも上回っていた。
「ふふ。貴方は素直ね。いいわ。わたくしにキスしてちょうだい。」
「エスピーナ様…」
花びらが舞う花園を背後に顔が近づき、二人はキスをした。
逞しくなったローアルにエスピーナがすっぽり収まる形で抱き合う。
いやだ…
こんなの…見たくない…
胸が刃物で貫かれたように痛い……!!
ここからは後ろ姿で、ローアルの表情までは見えない。
だけど見えないから、良かったのかも知れない。
もしこれでローアルが本当に幸せそうな顔をしていたなら、私の心臓は本当に粉々になったかもしれない。
そこに飛び出る勇気も気力もなく、私はそのまま気づかれないように、惨めにその場を離れた。
あるのはただ、抉れた胸の痛みだけだった。
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———それからどうやって離宮に帰ってきたのかよく覚えていない。
二人の抱き合う姿や声、キスの瞬間が頭から離れない。
使用人に部屋に入らないように言って部屋に鍵をかけベッドに伏せた。
伏せた枕に滴が染み込んでゆく。涙が止まらない。
ローアル……何で、髪飾りを買いに行こうなんて誘ったの…?
まさか、あれを見せるため…?
違う、ローアルはそんな人じゃない。
でも…なら何故?
あんな手紙まで寄越して、私が来ると分かっていながらキスを?
まさかわざと……?
でもそれだとおかしい。だってローアルは私の気持ちを知らないはずだ。
そもそも私とローアルは恋人同士というわけではなかった。
私はずっとローアルが好きだったけれど、ローアルも同じ気持ちでいるのではと、どこかで自惚れていた。
はっきり告白された訳でもないのに。
けれどもしローアルに好きだと言っていたら…
何か変わっていただろうか…?
今日みたいにエスピーナとのキスを見せつけられたりしなかっただろうか…?
どうしてもっと早くローアルに好きだと言わなかったのだろう。
貴方はエスピーナが好きなの?
お父様を無慈悲に殺した彼女が……
私はもう、どうでもいいの?ローアル……
胸が潰れそうなほど苦しい。
「エステレラ。
そんなに苦しんで、一人で泣くなら……
ローアルを諦めたらどうなんだ?」
背後から低めの声がした。
伏せた顔を上げると、そこには魔術で転移してきたと思われるディー様が立っていた。
オッドアイの瞳は変わらず美しかった。
皇室の紋章の刺繍が入った黒い服にローブを纏い、フードに隠された銀色の長い髪が、少しだけ見えている。
「ディー様…?」
濡れた顔を両手で拭き、ベッドから急いで降りて、背の高いディー様を見上げた。
「久しぶりだね。勝手に君の部屋に入ってすまない。君も今や皇女なのに…」
私が本当に皇女だということは、ディー様も知らないだろう。
また、それを自分からバラす気もなかった。
どうせこの人もきっと信じないだろうから。
「いえ…私は皇女では…
…それより、どうして私がローアルのことで悩んでいると分かったんです…?」
「…分かるよ。君が悩むのはいつもローアルのことだからな。」
そんな分かり切ったことを聞くな、という風にディー様は私の顔を見て溜息を吐いた。
それから少し無愛想に口調を変えた。
「…あの夜以来だね。
もう体調はいいのかい?
君を西棟まで送った後、君が倒れて…亡くなった皇帝に介抱されていたと聞いたが。」
「はい…もうすっかり良くなりました。」
そう言って綺麗に丸まり、傷口もない指先を見せると、被っていたフードを脱ぎながら慎ましくディー様が口を開いた。
銀色の長い髪がふわりと靡く。
「そうか。良かった。」
あの夜。
それはディー様の禁忌の魔術で小指を落とした日のことだ。
ディー様はやや目を伏せると、短いため息を吐いた。
「…残念ながら、君の小指でローアルが得たのは準貴族という身分だけだった。
やはり小指だけでは難しいようだ。」
「準貴族…それでも、貧民よりは良いのですよね?」
「もちろんだ。でも…準貴族は平民とあまり変わらないから、やはり扱いは良くない。
この皇宮には準貴族よりも上の身分の貴族がたくさんいるから…
見下されるのは変わらないだろう。」
「そうだったんですか…」
実は今その返事を聞くまで少なからずディー様を疑っていた。
でもどんな対価であれ望めばちゃんと取引をしてくださるのだ。
しかし、あれ以降ローアルを見たのは久しぶりだった。
だからローアルが準貴族になったことを私も今まで知らなかったし、ローアルがそのことをどう思っているかも知らなかった。
今日だって…なぜ…
あの二人のキスの瞬間が、どんなに忘れたくても頭に浮かんでしまう。
その度に胸がズキズキと痛んだ。
「…ローアルがエスピーナ様…陛下に恋をしているのは今や有名な話だよ。
それなのに君はまだ、そんな彼のために何かを犠牲にする気かい…?」
ローアルが恋を…?あのエスピーナに…?
やっぱり本当なのね……
女官たちの話や、いざ二人がキスしたのを見ても、どこかで嘘だと思っていた。
認めなくなかった。
だがそれを改めてディー様の口から聞いたことで、現実だと言われた気がした。
…しかし私の表情が曇るとつられてディー様の表情も曇った。
帝国一の魔術師と謳われるディー様を困らせるのは忍びなかった。
「事実、ローアルの身分ではまだ騎士にも、ましてや陛下にも相応しいとは言えない。
彼女がいくら守っても、彼に対する貴族たちの嫌がらせはまだ続くだろうね。」
「ローアルはどう思っているのでしょう。」
高い身分を得れば以前のような嫌がらせをされずに済むけれど、今はそれを得る目的がエスピーナのためだったとしたら……
傷ついた心が言いようのない膿を生んでゆく。
彼は私のものではないのに。
ローアルがエスピーナを好きになったとしても責める資格があるわけではないのに。
彼の幸せを願っている。
それだけで十分なのに…
「ローアルはまだ騎士になる夢を諦めていないようだよ。それに陛下に相応しい身分を欲っしているのも事実だ。」
やっぱりそうなのね…。
ローアルはエスピーナのために…
会えない間にローアルの気持ちは、そんなにも彼女に向いてしまったんだろうか。
「相応しい身分…
彼が相応しい身分になるには、私のこの身をどれほど犠牲にすれば良いのでしょうか…?
ディー様。」
目の奥に涙が溜まり、今にもこぼれ落ちそうなほど熱いのに、それをぐっと抑えてディー様に尋ねていた。
エスピーナはそんなにもローアルがお気に入りなら、なぜ自ら望む身分を与えないのか。
それがローアルを手に入れるためのエスピーナの策略なのだろうか。
「…もし覚悟があるなら、片腕、片脚くらい失うと思った方が良いよ。
そんな怖いこと…君にできるのかい?
他の女を好きな男のために…」
痛い現実を突きつけてくるディー様に、私は苦笑いして誤魔化した。
ローアルのための覚悟は、ずっとあった。
あの雪の日命を救われた時から今までずっと。
ずっと。ローアルの幸福だけを考えてきた。
ローアルが好き人のために身分を欲しているのなら、私がどんなに犠牲になっても構わないという覚悟。
「またお願いできますか?ディー様。
貴方にも危ない真似をさせて申し訳ないのですけど…」
「…聞いたわたしも馬鹿だが、やっぱり君は愚かだね…」
ディー様は心底呆れたように言った。
抉れた心にさらに深く言葉が突き刺さる。
だけどそれが正解なのだろう。
たしかに私は愚かだ。
それでも怪物のようなエスピーナにこれ以上恋をするのを、ローアルにやめてほしいと泣き縋ることもできない。
それが今のローアルにとっての幸せだというのなら。
「愚かな私を叱ってくださり、ありがとうございます…」
心から深く頭を下げる私を見て、ディー様は礼なんか言うな、という目をする。
最後まで涙を流すのを耐えて、ディー様が転移魔術で部屋から消えていくのを見送った。
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