近づく悪意⑥


 だが皇帝とは、この帝国の統治者として暴君でなければならないのだろう。

 そのことを少しは、理解できてきた気がする。



 「わたしは優しいか…?」



 肘掛けに肘をつき、皇帝は私の顔をのぞき込むように言った。



 「はい。少なくとも私にはそうです。」



 「そうか。なぜ優しいか、分かるか?」



 時々、こうやって皇帝は私に疑問を投げかけることがある。



 私に考えさせ、期待している言葉を返すのを楽しみに待っているかのようだった。

 そのことについて実は私も、恐れ多いことだが薄々勘づいたことがある。



 「陛下。無礼を言わせてもらえるのなら…

 恐れ多くも、陛下と私の瞳は、とても似ていますね。」



 淡々と進んでいた会話がそこでしばらく止まり、皇帝は長い沈黙のあとで深く吐息を吐いた。



 「本当に、そうだな。」



 ———私の母の名前。

 母のことや、刺繍のこと。私のこと。



 皇帝がなぜ頻繁に知りたがるのか。

 私もずっとその答えを探していた。



 でなければこの帝国の皇帝が、名前もなかった捨て子をこんな風に扱うはずがない。

 もし万が一にも、私が思っていることが正しいのだとしたら。



 でも皇帝は知って欲しいが、知らないでいて欲しいという妙な雰囲気を漂わせている。

 だから皇帝は、今の時点で何かを明かす気はないのだろう。



 彼がそれを望むのなら私も、それ以上は口をつぐんでおこう。



 それに確認したくても、私の母がどこに消えたのか分からないのだから、いまさら確認しようがないのだ。


 


 ◇




 皇帝の部屋から自室に戻ると、ひどく泣き腫らしたように目を真っ赤にしたローアルが立っていた。

 思わず息が止まりそうになる。



 「ローアル!!?どうしたの!?」



 「…エステレラ。何でもないよ。大丈夫。」



 「何でもないわけないでしょ?っ、これ!

 どうしたの?服がこんなに汚れて…

 まさか、皇女様に?」



 よく見ると顔にも擦り傷があり、シャツは伸びて、いくつもの泥や手形がついていた。

 昼前に皇女の元に呼び出された時に、何かされたのだと思った。



 「ちがうよ。皇女様は、僕を助けようとしてくれているんだ。

 …あの方は本当はお優しいのかもしれない。」



 「え…?」



 驚いて私は一瞬立ち止まる。

 まさかローアルの口から皇女をかばう言葉が出るなんて、思いもしてなかった。

 



 ローアル。

 あの皇女に何か言われたの?



 ローアルは純粋だから、何か余計なことを吹き込まれたのかもしれない。

 そう考えたが、妙に心臓がドクンと鳴った。



 「ローアル?皇女様と何が…」

 


 「何でもないよ。…何もない。疲れたからもう先に寝るね。おやすみ。エステレラ。」



 「待ってローアルっ!その服は誰に……」



 私の問いかけにローアルは作ったように笑い、そのまま部屋を出て行った。



 ローアル……一体何があったの?

 皇女じゃないなら、誰?

 また騎士?それとも貴族?

 仕事場の誰かに…?



 また、傷つけられたんだ。



 この城にいると、ローアルのキレイな心がすり減っていく。

 私はまだしも、優しくて繊細なローアルにはきっと耐えられない。


 私達は以前暮らしていたスラム街に帰ることを禁止されている。

 城から逃げれば重罪となり処罰される。

 どんなに優遇されても、相変わらずそれだけは変わってない。



 あの日皇女に目をつけられてから私達には自由はなく、与えられたこの状況を懸命に生きるしかなかった。



 それは同時に不自由さを強いられることだった。

 スラム街で暮らしていた頃は確かに貧乏だったが、それでも私達は自由で、そして幸せだった。



 なぜ身分なんてものが存在するの?

 なぜ差別なんてものがあるの?

 生まれが違うだけで、こうも傷つけられてしまうの?



 私やローアルに一体何の罪があるの?



 結局、皇帝には何も期待はできない。

 私達は、普通では身分を変えられない。

 このまま城でお金を死ぬほど稼いでも、身分を買うにはきっと足りない。

 だからローアルが傷つくのを、私はこうして黙って見ているしかなかった。

 それがとにかく辛くて………



 




 「エステレラ。」


 すうっと、青白い光が部屋の中心に現れた。

 それまでは何もなかったその場所に、黒衣を着たディー様が現れた。

 驚いてベッドの方によろけると、ディー様がすかさず私の腕を握った。

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