前世編〈魔術師〉

魔術師ディーの罠①

 

 ———翌朝。


 北の皇女宮、エスピーナの私室に怒声が響きわった。



 「何ですって!?一体どういうことなの!?

 フォンセ!貴方ともあろう者が、あの女を始末し損ねたというの?」



 「ですから、皇女様!どうしてもあの者を、剣で斬ることができなかったのです!

 あの者に纏う赤いオーラが何度も邪魔をして。

 あれはまるで…」



 豪華な部屋の高級絨毯には、興奮のあまりエスピーナが投げたティーカップが粉々に割れていて、こぼれたお茶の染みが広がっていた。



 その場に跪くフォンセの顔は真っ青だ。

 昨夜のことを取り繕うように、何度もエスピーナに説明を続けた。

 


 ———昨夜、使用人の宿舎に忍び込み、部屋で寝ているエステレラを確認した。



 即死は間違いないと、フォンセはためらいなく剣を振り下ろした。

 


 しかし、エステレラの体を赤いオーラが包み込み、それを弾いてしまった。

 それから何度も剣を突きつけたが、ことごとくオーラに邪魔された。

 


 それ以上物音を立てれば、エステレラだけでなく他の使用人達にも見つかってしまう。

 仕方なくその場からフォンセは撤退した———



 「なぜ下賎な貧民にオーラが!?」



 怒り狂ったエスピーナは、無意識に自身の爪を噛んだ。



 「…………フォンセ。お父さまの魔力は、何色だったかしら?」



 「まさか、そんな!?

 あり得ませんよ!皇女様!あんな下賎な者に皇帝陛下の…」



 「何色だったかしら?」



 再び繰り返されたエスピーナの質問に、フォンセは喉を上下させて答えた。


 

 「…アウトリタ皇帝陛下の魔力は、《赤》でございます。」


 

 この帝国で魔力を持つのは、ほぼ皇族だけである。

 その皇族でも、特に強い魔力を受け継ぐのは皇帝やその子孫とされており、時には魔力量の多さから皇帝を選ぶ場合もあった。



 トルメンタ帝国の代々の皇帝は、ほとんどが強い魔力を持っていたと記録されている。

 さらにそれぞれ魔力が纏う色も異なっていた。



 現皇帝のアウトリタは、歴代皇帝の中でも特に強いとされている《赤》色を纏っていた。

 ただし、実子であるエスピーナには魔力が全く受け継がれていない。



 「どうして、お父さまがあんな下賎な民に《加護》を…?」



 怒りが収まらず、エスピーナはさらに深く爪を噛んだ。



 「皇女様いけません、お綺麗な御手が!!」



 「うるさいのよ、フォンセ!わたくしの命令を失敗した分際で!」



 とっさに近寄ったフォンセの頬を、エスピーナは容赦なく叩いた。

 鈍い音が部屋の中に響く。



 「こんなのあり得ないわ。いや、あってはならないのよ。

 フォンセ。あの者を呼び寄せてちょうだい。

 帝国一の魔術師ディーを。お父さまに気づかれぬように、近日中に、必ず。」

 


 まるで呪いのように呟く。エスピーナのその瞳には、激しい怒りが宿っていた。



 一方、頬を叩かれてもなおエスピーナに忠実なフォンセは、挽回のチャンスとばかりに跪く。



 「かしこまりました!急ぎストレーガ公爵を呼び寄せますので!」



 そう言い残し、慌ただしくフォンセは部屋を出て行った。

 そのフォンセを見送ることもなく、エスピーナは怒りを爆発させ、思考をめぐらせた。



 「あんな下賎な小娘にどうしてお父様が…!?

 気に入らないわ!

 これまで何でも思い通りになってきたというのに!!」



 割れたティーカップを睨みつけ、エスピーナはブツブツと呟いた。



 「だってわたくしは、この帝国のただ一人の皇女なのよ?

 お父様の次に高貴で、尊い存在だわ!

 だからわたくしより秀でた者、わたしくしをバカにした者、わたくしに歯向かう者、わたくしより綺麗な者、わたくしを愛さない者!

 そうやってわたくしに都合の悪い者は、これまで全て排除してきたのよ!」



 帝国一尊い女性。そのエスピーナは今、ローアルが死ぬほど欲しかった。



 あの銀色の髪、エメラルドのような美しい瞳。

 御伽話の王子みたいな彼を独り占めしたい。

 全てにおいて完璧なあの少年を、そばに置いて飾っておきたい。

 ペットみたいに、見る者全てに自慢したい。

 それがエスピーナの願望だった。



 でもエステレラがいると、ローアルが自分を見てくれない。



 エステレラはエスピーナにとって、ローアルに纏わりつく、うざったい蝿のような存在だった。



 邪魔で、目障り。

 さっさと消えて欲しかった。

 ローアルを手に入れるために仕方なく城に連れてきたが、本当はあのスラム街で殺したかった。

 



 「私はこの帝国で、最も高貴な皇女。

 だからローアルを手に入れる権利があるわ。

 だから例えお父さまでも、邪魔はさせない。

 ええ、そうね。それならお父様も利用させてもらうわ。」


 

 ふと、エスピーナは薄ら笑いを浮かべた。



 下賎な身でありながら、エステレラが皇帝を誘惑したと噂を流すのはどうだろう?

 エステレラの醜聞な噂が、ローアルの耳に届くようにしてしまえばいい。

 それでローアルに嫌われてしまえば、あとはこっちのものだ。



 「ふふふ!あははは!」



 楽しい目論みをしたエスピーナは、誰もいない部屋で大笑いした。

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