第56話

一年と少しが過ぎたころ、ベアトリクスはひょっこりとクロエの館に帰ってきた。

 館にルシファーの姿はない。クロエが一人で優雅に紅茶の入ったカップを傾けていた。

 彼女は特段表情を変えることなくベアトリクスを一瞥し、再び手元の本に目を落とす。


「……生きて帰ったか」

「クロエ様。ただいま戻りました。ようやく全ての薬草が揃いました!」


 背負っているザックをどさりと床に置き、口を開いて中に入っている薬草を示す。

 クロエはそちらには目を向けず、じっとベアトリクスを眺める。


「随分と日焼けしたの」

「あっ、はい! 光の国は日差しが強くて……。お恥ずかしい限りですわ」


 ジャケットにキュロットパンツという女性冒険者風の装いをしたベアトリクス。袖から見える素肌はこんがりと小麦色に焼けている。


「……それに、ますます筋肉もついたようじゃ」

「冥界の深淵は崖だらけでしたから、勝手に鍛えられました」


 土埃でくたびれたブーツから覗くふくらはぎは、以前にも増してヒラメ筋の存在感がある。

 しっかり鍛え上げられた健康な肉体であるが、凹凸はしっかりついていて女性らしさは損なわれていない。十九になったベアトリクスの顔つきからは幼さが消え、凛々しい一人の女性の顔つきになっていた。


「うむ。よい面構えじゃ。こちらへ来るとよい」

「あ、ありがとうございます……?」


 初めてクロエに褒められて戸惑いを隠せないベアトリクス。勧められるがままに、ザックを持って彼女の正面に座る。


「さて」


 整った顔の前で両手を組むクロエ。深紅の爪は美しくもあるが、毒々しくも見えた。

 ――薬草は間違いなく集めてきた。何を言われるのかと、ベアトリクスはごくりと唾をのんだ。


「頼んだ薬草を全て煮詰め、故郷に持っていくとよいぞ。――疫病に効くはずじゃ」

「はいっ!?」


 聞こえていたが、言葉の意味が理解できなかった。ベアトリクスが思わず聞き返すと、クロエはにやりと口角を上げた。


「二度は言わんぞえ。お主の国で流行っている疫病に、その薬草らが効くと言っている。持っていくとよい」


 きらきらと光る虹色のガラス玉のような瞳。からかっているのか、とも思いながらも、ベアトリクスはクロエがそのような人物であるとは思えなかった。

 ――最初からクロエは分かっていたのか? 思わずそう疑った。だって、この薬草を集めよと命じられた時は、故郷は危機に陥っていなかったのだから。


 大魔法使いとは、自分が感じているよりも遥かに人智を超えた存在なのかもしれない。もしかしたら、この世を掌で転がすことなんて、呼吸をするのと同じくらい簡単なのかも――――。


 ぶるりと背が震える。

 そしてベアトリクスは、あれこれ脳内で深読みすることを止めた。

 疑問を口に出してもクロエは答えないと分かっているからだ。


 ルシファーのおこぼれではあるが、クロエの庇護を受けることができた自分はなんと幸運なのか。

 今はその幸運に感謝し、彼女の言うことをそのまま飲み込むことにした。


「ありがとうございます、クロエ様。頂いた治療薬を持ってグラディウスに戻りたいと思います」

「うむ。楽しませてもらったぞえ、ベアトリクスよ」

「失礼いたします」


 部屋を出たベアトリクスは、ドアを背にして大きくため息をついた。

 ただし、それはごく一瞬の出来事。次の瞬間には顔を上げ、決意に満ちた表情で一歩を踏み出したのだった

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